表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
168/235

深夜の戦場

深夜のネットカフェ。そこは静寂が支配する空間だ。

響くのは空調の低い駆動音と、散発的なキーボードの打鍵音だけ。

本来なら夜行性の住人たちが騒ぎ出す時間帯だが、場末のこの店には閑古鳥が鳴いている。


だが、片隅に陣取る少女にとっては、むしろ好都合だった。


少し使い古されたヘッドセット。漏れ聞こえる軽快な電子ビート。

青白い指が、キーボードとマウスの上を舞う。

カチャ、カチャ、タターン。

リズミカルで、迷いのない音が周囲に響く。


雑多な場所だが、彼女の卓上は異常なほど整然としていた。

食べ終わったカップ麺の容器は綺麗に重ねられ、スナック菓子の空き袋は小さく折り畳まれている。まるで、神聖な儀式の終わりを静かに待つかのように。


少女の瞳――その眼光だけが、異様な輝きを放ちモニターを凝視している。

そこは彼女の領土テリトリー。彼女が支配する、唯一の王国。


現在、彼女が操っているのは、敵陣深く浸透させた一握りの騎兵隊だ。

鬱蒼とした森の陰を縫い、幽霊のように敵の後背へと回り込む。


――視点を、主戦場へ。


戦況は一見、彼女にとって不利に見える。自軍は分断され、四散しているからだ。

左翼は圧力に耐えかねたように後退し、中軍の戦線は崩壊寸前。右翼には重厚な兵力を置いているが、その歩みは鈍い。


だが、森に潜ませた騎兵こそが、振り下ろされるのを待つ『ダモクレスの剣』。

敵は、それに気づいていない。


前線では、互いの遠距離部隊と軽騎兵による牽制が続く。

相手の操作マイクロは繊細かつ緻密だ。兵力差を活かし、ブルドーザーのように着実に戦線を押し上げてくる。


「へぇ……相手のマイクロ、悪くない」


少女が小さく呟く。口元には、罠にかかった獲物を嘲笑う狩人の笑み。

背後に忍び寄る気配には気づかない。いつの間にか立っていた店長が、熱い茶を片手に、この無言の殺し合いを見守っていることになど。


戦場は、瞬きする間に動く。

潜ませていた騎兵が、ついに絶殺の位置キルゾーンへと到達した。


その瞬間。

少女の指が爆発した。


マウスが残像を描く。

右翼の盾兵と重騎兵が、決壊したダムのように猛攻を開始。これまで見せなかった怒涛の進撃。

挑発に乗った敵プレイヤーは、それを主力と誤認した。薄くなった左翼を狙い、全軍でカウンターを仕掛けてくる。

 

かかった。


少女は冷静に左翼の防衛ラインを収縮させる。ゴムまりのように柔らかく、敵の主力を吸着し、拘束する。

中央では歩兵同士が激突し、肉と鉄が飛び散る泥仕合。

左翼の収縮は限界に達し、中軍の側面が晒される。あと数秒で軍団は崩壊するだろう。


しかし。

少女の顔に、満開の笑みが咲いた。


勝負は、五分前に決していたのだ。


「チェックメイト(詰み)」


軽やかな囁きと共に、配置済みの騎兵が敵の無防備な背後を食い破る。

教科書通りの『鉄床かなとこ戦術』。

疾走する鉄騎は、熱したナイフがバターを切るように敵陣を貫通し、その陣形をズタズタに引き裂いた。


十数秒後。

画面中央に、巨大な黄金の文字が炸裂する。


【VICTORY】


勝利の文字を見つめ、少女はふぅ、と長く息を吐いた。

その時だ。


「ひゃうっ!?」


右頬に、冷たい缶ジュースが押し当てられた。

少女は飛び上がるように椅子から跳ね起き、情けない悲鳴を上げる。静まり返った店内に、その声が木霊した。


「しーっ。客はいねぇが、近所迷惑だ」

「て、……店長さん? いつの間に……」


ニヤニヤと悪戯小僧のように笑う中年男が、冷えたジュースを引っ込める。


「お前さんの騎兵が森に入ったあたりからな。見事な腕前だ」

「すみません……集中しすぎてて……」


少女は顔を赤くし、素直に頭を下げた。


「あのなぁ……そんなに神妙に謝られると、俺がいじめっ子みたいじゃねぇか」


男はバツが悪そうにボサボサの頭を掻き、ジュースを机に置いた。


「ほら、勝利の報酬だ」

「え?」

「あと、これも」


手品のように背後から取り出したのは、艶やかな黒塗りの重箱。

男は邪魔なキーボードを脇へ退かし、それを少女の目の前に置いた。


「これは……」


少女が目を丸くする。スーパーの割引弁当ではない。箱の質感だけで、それが高級品だとわかる。


「知人からの差し入れだ。高級寿司らしいが、俺みたいなオッサンには味がわからんしな。腐らせるのも勿体ねぇ」


ティッシュでも渡すような気軽さで、男は手を振った。


「驚かせた詫びだ。今日の晩飯は栄養のないカップ麺じゃなく、こいつを食いな」

「あ、ありがとうございます……あの……本当にいただいても?」


声が震える。

こんな風に誰かに優しくされたことなんて、記憶になかった。


「食えって言ったら食え。理屈はいらねぇよ。醤油をモニターに飛ばすなよ?」


男はそれ以上何も言わず、手際よく机の上のゴミをビニール袋に回収すると、鼻歌混じりにカウンターへと戻っていった。


少女はしばらくその背中を見つめていたが、やがて、おずおずと箱に手を伸ばした。

蓋を開ける。

宝石のように鮮やかなネタの輝き。ツンと鼻をくすぐる酢飯の香り。

それは、彼女が今まで知らなかった“幸福”の匂いだった。


一貫を指でつまみ、口へ運ぶ。

舌の上で旨味がほどけた瞬間、なぜか視界が不意に滲んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ