覚悟と誓い
芳醇な紅茶の香りが、霧のように室内に立ち込めている。
エグモント家の応接室。古色蒼然としたその空間を、銀の盆を手にしたレインが滑るように動いた。
一杯目の紅茶をミリエル・ローレンスの前へ。
そして二杯目を、バセスの手元へと置く。
カチン。
その拍子にカップとソーサーが触れ合う硬質な音が、静寂を引き裂くように響いた。
ミリエルはカップを手に取った。立ち昇る湯気。気品ある香りが、脳裏に巣食う焦燥をわずかに吹き払う。
だが、口をつけることはできない。
指先から伝わる陶器の温もりだけが、宙ぶらりんの心をかろうじて繋ぎ止めていた。
完璧な紅茶だ。茶葉の選定も、抽出の時間も、非の打ち所がない。
――目の前の老人、バセスと同じように。
レインが無言で一礼し、退室する。重厚なオークの扉が閉ざされた。
二人きり。
バセスは紅茶に手を付けようともしない。ただ静かに座り、その濁りつつも鋭い眼光で、白霧の向こうの若き女王を値踏みしている。
待っているのだ。女王が口を開くのを。
窒息しそうな沈黙が数秒続き――ミリエルは大きく息を吸い込み、カップを置いた。
「バセス。南方戦争は避けられません。エグモント家は……どう動きますか?」
バセスは眉をひそめ、小さく頷いた。
その表情は、予期していたもののようでもあり、現状への諦めのようでもあった。
「旦那様からの伝言です、ミリエル陛下」
一拍の間。その視線は錆びたナイフのように、ミリエルの動揺を容赦なく削ぎ落としていく。彼にはわかっているのだ。今、彼女がどれほど脆い状態にあるのかが。
「立場上、エグモント家は陛下を全面的に支持します。……ですが」
言葉のナイフが、現実を突きつける。
「私兵団は国境警備に釘付けです。『鋼心連邦』が不穏な動きを見せている今、一兵たりとも動かせません。資金面にしても、毎年の超過納税と備蓄食料の供出で、すでに底をついています」
淡々と。客観的に。言い訳めいた響きは一切ない。けれど、鉄のように重い事実。
ミリエルは唇を噛んだ。
わかっていたことだ。バセスは嘘をつかない。
エグモント家の忠誠は疑いようがない。だが、ない袖は振れない。彼はただ、冷徹な事実を述べているだけだ。
この国にはもう、“私情”のための遠征を支える余力など残っていないのだ、と。
言葉を選びながら語るバセスの姿に、ミリエルは深い無力感を覚えた。
諦めるか?
ここで「わかった」と頷けば、女王として安泰だ。
だが。
脳裏に焼き付いているのは、病床で苦しむ親友の姿。私を救うために傷ついた、唯一の恩人。
「……私は、女王です」
バセスの言葉を遮り、ミリエルの声が響いた。
顔を上げる。揺れ動いていた瞳に、今は確かな決意の炎が宿っていた。
「女王だからこそ、自ら南方へ赴くのです。シミアが元気だったとしても、彼女に代わりは務まらない。これは『ローレンス』の名を持つ私にしかできないことです」
バセスが虚を突かれたように目を見開く。そして、ふいと窓外へ視線を逃がした。
切り取られた絵画のように美しい庭園。すべてが整然と管理されたその景色は、この国の“あるべき姿”そのものだ。
ふぅ、と深く息を吐き出すバセス。
再び向き直った時、その瞳から“執事”の温和さは消え失せていた。
あるのは、かつて敵国を震え上がらせた近衛軍将軍――バセスの眼光。
「私情に心を乱すのは悪くない、ミリエル陛下」
ミリエルは驚きに目を見張った。
目の前に座っているのは、もう老執事ではない。十数年前の、あの“鬼将軍”だ。
「だが――混同は許されませんぞ」
声が、空気が、ビリビリと震える。鉄血の香りが漂う。
「女王としては、私情を捨てて民のために、王家のために思考し、国を治めねばならん」
「友人としては、王冠をかなぐり捨ててでも、彼女のために祈り、奔走せねばならん」
老人は立ち上がり、窓の向こう――権力の象徴たる王宮を見据えた。
「問います。今の決断は、女王の責務か、友人の私心か」
「そのすべてを背負う覚悟が、おありか?」
静かな問いかけ。だがそれは、轟音となってミリエルの魂を揺さぶった。
ミリエルもまた、立ち上がる。
窓辺へ歩み寄り、老将軍と並ぶ。
高くそびえる城壁。その奥には王家図書館がある。彼女の責任の場所であり、自由を奪う檻。
力を得るには代償が必要だ。バセスの言わんとしていることは、痛いほどわかる。
女王を選ぶならシミアを差し出せ。友人を選ぶなら王冠を置け。
しかし。
「バセス将軍」
あの星降る夜が蘇る。
シミアが語った、ローレンス王国の未来。彼女の言葉に、瞳に、ミリエルは憧れたのだ。
声が震える。けれど、言葉は明確だった。
「私はローレンス王国の女王であり、シミアの……友達です」
友達。その言葉に熱がこもる。けれど瞳は、かつてないほど澄み渡っていた。
「どちらか選ぶなんてできない。聖人のように天秤にかけることもできない。私は強欲なんです。だから――」
振り返り、老将軍の双眸を真っ直ぐに見据える。
「私は南方へ親征します。もし私が死ねば、シミアが私の代わりに生きて、この国を光ある未来へ導くでしょう。これは国のためであり、シミアのためでもある」
「これが……私の答えです」
風が、窓を押し開けた。
初夏の微熱を含んだ風が吹き込み、少女の銀髪を揺らす。彼女は目を閉じ、その風を受け止める。
これが最後かもしれない。こんなに穏やかな気持ちで、故郷の風を感じられるのは。
バセスは目を見開き、呆気にとられたように少女を見つめていた。
あの華奢な肩。かつては父の背中に隠れて泣いていた少女が。
国という重荷と、個人的な感情。その両方を天秤に乗せず、丸ごと背負い込むと言ったのだ。
なんという……無茶な覚悟。
まるで、あの先王のように。
「ミリエル陛下……」
老人の声は重く、隠しきれない驚きと、深い慈愛に満ちていた。
「承知いたしました」
一歩下がり、襟を正す。
「エグモント家として、これ以上の兵力支援はできません。ですが……」
「この老いぼれで良ければ、お使いください」
ドサリ。
重厚な音と共に、その膝が床についた。
時が巻き戻る。背中の丸まった老執事は消え――そこには、再び鞘から抜かれた一振りの剣があった。
「私、バセスは、修羅の巷まで陛下にお供いたします。あなた様のために」
ミリエルは口元を押さえ、涙を滲ませた。
差し出された手。マメだらけの、白く、けれど力強い大きな手。
彼女はその手を、両手でしっかりと握りしめた。
「……お帰りなさい、バセス将軍」
【読者の皆様へご相談】今後のストーリー展開について
読者の皆様、こんにちは。
ここ数日の更新分、楽しんでいただけておりますでしょうか?
本日は、今後の展開について一つ、皆様のご意見を伺いたく筆を執りました。
ご相談したいのは、ミリエルが南方へ赴いてからの物語(彼女が直面する困難や、そこで起こる出来事)についてです。
当初の構想では、このエピソードも現在執筆中の「第三巻」の本筋に組み込む予定でした。
しかし、書き進めるうちに第三巻自体のボリュームが想定以上に膨らんできてしまいまして……。
私個人の考えとしては、ミリエル側のエピソードは一度本編から切り離し、将来的に「外伝」や「別巻」として、じっくりと独立した形で描きたいと考えております。
その場合、当面のストーリーは、我らが軍神少女「シミア」を主軸に展開していくことになります。
そこで、読者の皆様にお聞きしたいのです。
「ミリエルの物語を後回しにせず、今すぐ読みたい!」
「章が長くなってもいいから、時系列通りに入れてほしい」
もしそのようなご意見や、ミリエルの活躍を特に楽しみにされている方がいらっしゃいましたら、ぜひ感想欄やメッセージでお知らせください。
皆様の熱量が高いようであれば、プロットを再調整し、なんとか本編に組み込んでお届けできるよう検討いたします。
勝手ながら、集計期間は一週間ほどとさせていただきます。
皆様の忌憚のないご意見、お待ちしております!




