電子の戦場と珈琲
少女の視線は、モニターに釘付けになっていた。
画面の中には、粗いドット(画素)で描かれた広大な平原が広がっている。
二つの軍勢がそれぞれの丘陵を占拠し、円形の防衛線を構築して、互いに牙を剥く獣のように睨み合っていた。
典型的な膠着状態だ。
この地勢において、先に痺れを切らして高地を捨てた方が隙を晒し、雪崩のように崩れ去る。
対峙の時間は長く、そして退屈だった。
彼女の指示に従い、弓兵の方陣がゆっくりと前進する。射程の有利を活かし、敵の遠距離部隊に対して意味のない曲射を繰り返す。後方の重装盾兵は常に防御態勢を維持し、いつでもカバーに入れるよう備えていた。
画面上に、微小なダメージ数値が連なる。
限界距離からの放物線射撃など、命中精度は無に等しい。限られた矢弾に対して、それは犯罪的とも言える浪費だった。
だが、少女にとってそれは浪費ではない。「試金石」だ。
細かな操作にこそ、指揮官の技量は宿る。
数回の探り合いを経て、彼女はすぐに理解した。画面の向こう側にいるIDの主もまた、戦場の法則を熟知した古強者であると。
これは忍耐を競う「瞬き禁止ゲーム」だ。先に瞬きをした方が負ける。
突如、画面の彩度が落ちた。
【システムログ:天候変化――濃霧】
灰白色の霧が瞬く間に戦場を覆い尽くし、クリアだった視界が極限まで圧縮される。
視界情報を失うこの極限状況下において、防衛線を縮小し、奇襲を警戒するのは教科書通りの定石だ。
少女の目には、敵を示す赤い輝点が急速に後退し、固く守りに入ったのが見えていた。
それは理性的な選択だ。だが、最善手ではない。
少女は自軍の編成(構成)を横目で確認した。精鋭重騎兵が二部隊、高機動軽騎兵が二部隊。
彼女の口元が微かに吊り上がり、冷ややかな孤を描く。
敵の騎兵戦力よりも遥かに豪華な編成。霧は攻撃側の視界を奪うが、狩人にとっては最高の迷彩となる。
「地味な展開だねぇ……」
いつの間にか、店長が彼女のゲーミングチェアの背後に立っていた。手には湯気を立てる紙コップが握られている。
「こうもお見合いの時間が長いと、プレイヤーがダレちまう。商業ゲームの設計としては、あまり褒められたもんじゃないな」
ぶつくさと文句を言いながら、彼は安っぽいインスタントコーヒーの香りを漂わせるその液体を、少女の手元に置いた。
「……ありがとう」
少女は紙コップを受け取り、小さく口をつけた。
「苦っ」
粗悪なコーヒー豆特有の焦げ臭い苦味が、舌の上で弾け、喉の奥へと滑り落ちていく。
「頑張りな。もし百位以内に入れたら、スポンサーも広告費を弾んでくれるかもしれんからな」
店長は彼女の椅子の背をポンと叩き、他の客の対応へと戻っていった。
少女は振り返らなかった。
その苦味は、今の彼女には丁度よかった。それは強心剤(カンフル剤)のように、彼女の神経末端を興奮で震わせる。
脳内の雑念が排除され、残ったのは精密機械のように高速回転する論理のみ。
(退屈? いいや、好機だ)
彼女の指がキーボードの上を疾走し、軽やかな打鍵音を奏でる。
数分後、霧が晴れた。
視界が回復した瞬間、敵の指揮官は驚きのあまりマウスを取り落としたことだろう。
霧が出ている間、奇襲を恐れた敵は可能な限り陣形を収縮させ、亀の甲羅のような密集防衛線を構築していた。
しかし、霧が晴れて彼を迎えたのは、予想していた奇襲攻撃ではない。
空を覆い尽くすほどの、矢の雨だった。
少女の弓兵隊は霧に紛れて山の中腹まで前進しており、今は高所から一方的に火力を浴びせている。
敵が顔を上げる間もなく、陽光を反射して一際眩しい重装盾兵の方陣が、既に彼の鼻先まで迫っていた。
「単なる歩兵の押し出しか!?」
敵の指揮官は、安堵したかもしれない。盾兵の推進力だけでは、重装甲の防衛線を急速に突破することはできないからだ。
彼は即座に予備戦力の斧兵を前面に出し、少女の盾壁をこじ開けようとする。
戦況は安定したかに見えた。
勝利の女神が、彼に微笑みかけた――そう思ったはずだ。
だが、斧兵が戦斧を振り上げた、その瞬間。
ドッドッドッドッ――
腹に響くような雷鳴のごとき蹄の音が、戦場の「真後ろ」で炸裂した。
敵指揮官は驚愕し、カメラ視点を回転させる。
彼の大後方。四本の騎兵部隊が鋭利なナイフとなり、トップスピードの突撃態勢で、陣形のもっとも薄い補給線へと突き刺さろうとしていた。
さらに、全身を重厚な鎧で固めた鉄騎兵の一隊が、熱したナイフがバターを切るように、無防備な弓兵部隊を跳ね飛ばしていく。
前方の斧兵は、盾兵にがっちりと抑え込まれ、身動きが取れない。
後方の騎兵は、少女の軽・重騎兵混合部隊によって蹂躙され、絶望的な質の差を見せつけられている。
完璧に見えた亀甲陣は、いつの間にか、少女の外科手術のように精密な知略によって、バラバラに解体されていたのだ。
【Checkmate(王手)】
投降だけが、彼に残された唯一の選択だった。
画面に巨大な金色の文字で『VICTORY』が表示される。
少女はヘッドセットを外し、長く息を吐き出した。
リザルト画面には、凄惨な戦果報告が表示されている。
重騎兵の裏取りを成功させるための囮となった盾兵と軽騎兵は、ほぼ壊滅していた。
もし現実の将軍なら、この甚大な損害に胸を痛めたかもしれない。
だが、少女はその赤い死傷者数を見ても、眼底に何のさざ波も立たなかった。
目の前にあるのは、一度も触れたことのない血生臭い戦場のはずなのに。
彼女の心の底には、かつてないほどの――まるで母の胎内に還ったかのような安心感が湧き上がっていた。
この仮想世界には、虚飾にまみれた人間関係も、理不尽な親も、抗えない運命もない。
ここにあるのは、冷徹な数字と論理だけ。
戦争とは、計算だ。
正しい指令を入力し、最適解を導き出しさえすれば。何を犠牲にしようとも、過程がどれほど残酷であろうとも、勝利という「結果」は必ず訪れる。
正しいことをすれば、正しく報われる。
この現実世界でもっとも希少な「公平さ」。
それが今、甘美な蜂蜜のように回線を通じて干上がった魂へと流れ込み、中毒になりそうなほどの陶酔を与えていた。




