深青の逃避行
少女は顔を上げ、最後にもう一度だけ背後を振り返った。
アスファルトの道路上を、まばらな車が淡い排気ガスを巻き上げて通り過ぎていく。
その煙の向こう側で、「学校」という名の牢獄と、「家庭」と呼ばれていた氷室が、薄汚れた霧の中に埋葬されていく。
それらが遠ざかっているのではない。少女が自らの意志で、それらを人生から切り離しているのだ。
それは無言の決別であり、決死の逃避行でもあった。
今にも崩れ落ちてきそうなほど、鉛色の空が低く垂れ込めている。
薄手の制服を突き抜ける寒風は、まるで氷の剃刀のように肌を切り裂き、少女は思わず身震いして首を縮めた。
彼女は、色褪せたポスターがベタベタと貼られたガラス扉を押し開け、『ディープ・ブルー』という名のネットカフェへと足を踏み入れた。
途端に、澱んだ暖房の熱気と共に、安物のタバコとカップ麺が混じり合った匂いが鼻をつく。
決していい匂いではない。けれどそこには、外の凍てつく空気にはない、生身の人間の体温があった。
カウンターの奥で、店長らしき男が漫画雑誌から顔を上げた。
彼は吸いかけのタバコを、コーヒーの空き缶を代用した灰皿に無造作に押し付ける。
そして、その場の空気から浮きまくっている珍客を、細めた目で品定めした。
「……お嬢ちゃん。ここは真っ当な店でね。都の条例で、こんな時間に未成年は入れないんだよ。保護者同伴なら別だがね」
店長の声は嗄れていて、面倒事を追い払おうとする無関心さが滲んでいた。
少女は何も言わなかった。
ただ無言で踵を返し、ドアノブに手をかけ、あの氷点下の屋外へと戻ろうとする。
「おっと、今の若いのはどうしてそう気が短いのかねぇ」
背後で、椅子が床を擦る嫌な音が響いた。
店長がボサボサの頭を掻きながらレジカウンターから飛び出し、少女の前に立ち塞がる。
その顔には、グレーゾーンに生きる大人特有の、狡猾さと愛嬌が入り混じった笑みが張り付いていた。
「まあ、少し融通を利かせればいいだけの話さ。ウチはこの辺じゃ有名な『治外法権』でね。金さえあれば、一日いようが住み着こうが、誰も文句は言わないよ」
少女は足を止め、振り返り、小さく頷いた。
レジの前まで戻ると、ポケットからクシャクシャに握りしめられていた紙幣を取り出し、差し出す。
それは、福沢諭吉――最高額紙幣である一万円札だった。
店長は少し驚いたように片眉を上げ、まだ少女の手のひらの微熱が残る紙幣を受け取った。
多くの店員がやるような透かしの確認はせず、ただ指先で紙幣を弾き、その乾いた音だけを聞く。
「ほう……こいつは豪勢だ。家出お嬢様のお忍びかい?」
からかうような口調だが、その目に詮索の色はない。
少女の眉間に皺が寄り、死んだ魚のようだった瞳に、微かな警戒の光が宿る。彼女は手を伸ばし、紙幣を奪い返そうとした。
「冗談、冗談だよ!」
店長は素早い手つきで紙幣をレジに収めると、揉み手をするような媚びた表情に切り替えた。
「このドアをくぐれば、お客様は神様だ。神様の懐事情なんて、我々下界の人間が詮索することじゃあない」
店長は慣れた手つきでキーボードを叩き、画面上の会員システムをクリックすると、適当な偽名を入力していく。そして引き出しから少し擦り切れた会員証を取り出し、マジックで裏面にIDとパスワードを走り書きした。
パソコンの起動を待つわずかな間。
少女の視線が、レジの隅に立てかけられた簡素なポップ広告に吸い寄せられた。
画質こそ粗いが、血のように赤い文字が、異様な殺気を放っている。
【誰かに操られるだけの現実に、うんざりしていませんか?】
【千軍万馬を操る領主となり、世界を掌握せよ】
【純粋なる知略の戦い。課金要素なし、あるのは戦術のみ】
――『ロード・オブ・ウォー:メディーバル』第一回戦術トーナメント開催。
一月二十七日締め切り。ランキング一位のプレイヤーには、全サーバー売上の十分の一に相当する巨額の賞金を進呈。
パシッ。
乾いた音がして、冷たい会員カードが少女の手の甲に乗せられた。
顔を上げると、店長もまた彼女の視線を追って広告を見ていた。その口元には、小馬鹿にするような笑みが浮かんでいる。
「よしとけよしとけ。そういう硬派な戦争シミュレーションは、地味で退屈なもんだ。お嬢ちゃんみたいな子が楽しめるとは思えないね。ソリティアでもやるか、動画サイトで流行りのアニメでも見てなよ」
「……賞金は?」
少女の声は少し嗄れていた。店に入ってから、初めて発した言葉だった。
「書いてある通り……と言いたいが、まあ客寄せの誇大広告だろうね」
店長は肩をすくめ、どうでもよさそうに言った。
「ただ、ウチの店もメーカーからプロモーションを頼まれててね。もしお嬢ちゃんが遊んでくれて、期間内にランキング百位以内に入れたなら――キャンペーン終了まで、ネカフェ代を半額にしてやるよ。どうだい?」
半額。
それはつまり、手持ちの金で、この暖かい場所に倍の時間隠れていられることを意味する。
あるいは――あの「家」から完全に決別するための、逃走資金が手に入るかもしれない。
少女は再び、広告を見つめた。
そこに描かれた無骨な騎兵の方陣や冷兵器は、確かに面白そうには見えない。
だが、彼女の視線は賞金に関する記述に釘付けになっていた。これは、自由を勝ち取るための蜘蛛の糸かもしれない。
少しの沈黙の後、彼女は真剣な眼差しで頷き、店長からカードを受け取った。
店長が触れた部分は脂ぎって生温かかったが、少女はそのカードを、まるで剣の柄であるかのように強く握りしめた。
「……わかった。やってみる」
そのカードを携え、彼女は電子の海が待つブースの奥へと歩き出した。




