錆びついた盾
早朝の暖かな日差しが、カーテンの隙間を頑固にこじ開け、シミアの顔に斑な光の粒を落としていた。
彼女は悪夢にうなされているようだった。安らかなはずの寝顔は恐怖に歪み、眉間には深い皺が刻まれている。
ドンドンドン――ドンドンドン――。
けたたましいノックの音が、戦太鼓のように彼女を深淵から引きずり上げた。
「シミア様!」
寮の共有メイドの声が、強引に夢の殻を打ち砕く。
「シミア様! リビングにお客様がお待ちです!」
「っ!?」
シミアは弾かれたように目を開けた。心臓が早鐘を打ち、胸が激しく上下する。
どんな悪夢を見ていたのか、内容は霧散して思い出せない。けれど、目を開けた先に見慣れた自分自身の寮の天井があったことに、彼女は心の底から安堵した。
「シミア様?」
「は、はいっ!」
メイドの再度の呼びかけで、ようやく眠気が吹き飛ぶ。シミアは慌てて返事をした。
布団を跳ね除け、最速でパジャマを脱ぎ捨てると、綺麗に畳んであった制服に袖を通す。
両手でパン! と頬を強めに叩く。走る微かな痛みが、意識を急速に覚醒させた。
着衣の乱れがないか確認し、最後に炎の形をした髪飾りを丁寧に留める。
「よし。問題なし!」
* * *
ドードリン隊長は、寮のリビングにあるソファに姿勢正しく座っていたが、その姿は周囲の雰囲気から絶妙に浮いていた。
彼は物珍しげに辺りを見回す。
早朝の寮は閑散としている。銀潮連邦からの留学生たちが数人、低い声で談笑している以外は、忙しなく動き回るメイドの姿があるだけで、王国の貴族生徒の姿はほとんど見当たらない。
(少し早く来すぎただろうか?)
その時、パタパタという急いた足音が聞こえ、彼は顔を上げた。
視界の先から、身だしなみを整えたシミアが、小走りでこちらへ向かってくるのが見えた。少し息が上がっている。
「申し訳ありません……ドードリン隊長……お待たせしてしまいました」
起きたばかりだからか、その頬には健康的な赤みが差している。慌てふためくその姿は、年相応の少女の青さを残しており、数々の修羅場を潜り抜けてきた老兵ドードリンも、思わず目を細めてしまった。
「いえ……私の方が無作法に早く来てしまっただけです。お気になさらず」
二人は二言三言、挨拶を交わすと、寮を後にした。本日の目的地へと向かうために。
* * *
近衛軍の駐屯地に足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような殺気が押し寄せてきた。
「構え――突けッ!」
入り口近くの演習場では、百名近い兵士たちが重厚な鎧に身を包み、長槍の刺突訓練を行っていた。
一糸乱れぬ動作。腹の底からの気合。それらが一体となって、見る者を圧倒する空気を生み出している。
「なかなかのもんだろう?」
磁石のように人を惹きつける、深みのある声が横から掛かった。
いつの間にか、アルヴィン将軍がそこに立っていた。彼は訓練に励む兵士たちを眩しそうに見つめていたが、その表情の端々には、隠しきれない哀愁が漂っていた。
「惜しむらくは……近衛軍の懐事情が寂しいことだな。こうして完全装備で訓練に参加できる兵は、もう多くはない」
「アルヴィン将軍」
シミアは歩み寄り、背筋を伸ばして敬礼した。
「本日は見学の許可をいただき、ありがとうございます」
アルヴィンはひらひらと手を振り、堅苦しい礼儀を制した。顔にはいつもの豪快な笑みが戻っている。
「言ったはずだぞ? 俺たちは戦友だ。そう他人行儀になるな」
二人は並んで、軍営のメインストリートを歩き出す。
「……なるほど、私軍の創設か」
シミアの来意を聞き、アルヴィンは納得したように頷いた。
「まずは近衛軍がどのような組織で、どう動いているのか、勉強させていただきたくて」
「いい心がけだ」アルヴィンの目に称賛の色が浮かぶ。「女王陛下も、きっと君の背中を押してくれるはずだ」
「そうでしょうか?」
シミアの足が、僅かに止まる。
「心配なんです……ミリエルから見て、私が私軍を持つなんて言い出したら、不忠な行いだと誤解されないか、と」
「シミア」
アルヴィンも足を止め、不安に揺れる彼女の瞳を覗き込み、破顔した。
「もし他の貴族が言い出したら、その懸念ももっともだ。だが、君は違う」
彼はきびすを返し、再び歩き出す。
「君は二度も王国を救った。女王陛下にとって、代えの利かない懐刀だ。そんな君にだけ忠誠を誓う軍隊――それはすなわち、女王陛下に絶対の忠誠を誓う新たな戦力ということだ。陛下が反対されるはずがない!」
「……そう、ですか」
シミアの脳裏に、神話学の授業の後、逃げるように去っていったミリエルの背中がよぎる。
(もしかしたら……これはアルヴィン将軍に相談できる話じゃないのかもしれない)
疑念を心の奥底に沈め、彼女は話題を変えた。
「ところで、アルヴィン……」
そこで「将軍」という敬称を付け加えようとしたシミアの視界に、アルヴィンの不満げな流し目が映った。『戦友だと言っただろう』と目が語っている。
シミアは慌てて言葉を飲み込み、続けた。
「……先ほど、近衛軍の状況が良くないと言っていましたが、何かあったのですか?」
「ああ、そのことか」
アルヴィンは指揮所の隣にある、巨大な倉庫のような建物の前で足を止めた。
「ついて来い。見れば分かる」
* * *
シミアはアルヴィンに続き、巨大な装備庫へと足を踏み入れた。
薄暗い空間に、重装鎧を着せたマネキンが整然と並んでいる。冷たい鋼が鈍い光を放ち、まるで沈黙の軍隊のような迫力を醸し出している。
だが、シミアは一瞥しただけで、違和感の正体を鋭く察知した。
(少なすぎる……)
「シミア」アルヴィンが彼女の思案顔を見る。「気づいたか?」
「はい、アルヴィン」シミアは倉庫内を再度確認する。「鎧の数が……圧倒的に足りません。もしこれが、近衛軍の全装備だとしたら……」
「ハハッ、やはり誤魔化せんな」
アルヴィンは自嘲気味に笑った。
「一目瞭然か」
彼はシミアを促し、部屋の隅にある目立たない階段を上がった。
二階に上がった瞬間、シミアは息を呑んだ。
そこにあったのは、装備庫ではない。
無数の鎧の破片、折れた槍の穂先、ひしゃげた盾がうず高く積み上げられた――正真正銘の『鉄の墓場』だった。
部屋の隅では、数人の修復師が金槌と接着剤を手に、辛うじて使えそうな胸当てを繋ぎ合わせようと徒労に近い作業を続けている。
「これが近衛軍の現状だ」
アルヴィンの声が重く響く。
「現在、規定通りの重装鎧を装備できる兵士は、全体の三分の一にも満たない。残りの者には、長槍だけを持たせている。基本的な革鎧すら行き渡っていないのが実情だ」
「なら……どうして編制を変えないのですか?」
シミアは即座に対案を口にした。
「彼らを軽装槍兵として運用するか、あるいは弓兵に転向させるべきです。現在の王国の兵種体系は遠距離打撃力が欠落していますし、防御偏重で機動力が不足しています」
アルヴィンは感心したように頷いたが、その顔に刻まれた苦渋はむしろ深まったように見えた。
「君の提案は、軍事的な観点からは百点満点だ。だが、問題は……」
彼は言葉を切り、極めて深刻な調子で言った。
「シミア、君の言う通りだ。だがこれは軍事的な問題である以前に、政治的な問題なんだ」
「政治的な……?」
「そうだ」
アルヴィンは大げさに肩をすくめた。そこには諦めに似た嘆息が混じっていた。
「辺境戦役以来、近衛軍にはまともな予算が下りていない。あまりに多くの領主が税を納めないせいで、女王陛下でさえ、損耗した鎧を補充するだけの金を用意できないんだ」
「……!」
「もし君が言うように、近衛軍の一部を軽装兵に変更してみろ。それは全貴族に対して、『王室はいよいよ金が尽きて、近衛の鎧さえ買えなくなった』と宣言するに等しい! それがどれほどの政治的恐慌を引き起こすか、分かるか?」
シミアはハッとした。
「弓兵に関しても同じだ」アルヴィンは溜息をつく。「王室領の植生を調べたことは?」
「……王都周辺の森には、矢に適した木材がありません」
「その通りだ。弓矢を購入し、弓兵を育成するのにも莫大な金がかかる。我々には……金がない。軽装槍兵と同じく、政治的に不可能なんだ」
「では、編制の改革は……南方の反乱問題を解決した後でなければ、できないということですか?」
シミアは呆然と呟く。
「困難はそれだけじゃない……」
アルヴィンの声には疲労が滲んでいた。
「近衛軍の伝統ある編制を変えるには、女王陛下が全貴族の反発を押し切り、百年以上続く法を自ら書き換えなければならない。これは単なる金の問題じゃない。女王の権威を賭けた、政治的な大博打なんだよ」
シミアは完全に沈黙した。
アルヴィンの赤裸々な説明によって、ようやく理解したのだ。ミリエルが背負っているものの重さが、自分の想像を遥かに超えていることを。
これはもはや戦術レベルの話ではない。王国の存続そのものに関わる、国家戦略レベルの行き詰まりなのだ。
* * *
夕暮れ時、アルヴィン将軍はシミアを営門まで見送った。
「アルヴィン、今日は本当にありがとうございました。近衛軍の窮状、必ずミリエルにも報告します」
「ハハッ、何を水臭いことを!」
アルヴィンは豪快に笑い飛ばし、シミアの肩をバンと叩いた。
「俺たちは戦友だろうが!」
将軍の陽気な笑い声に見送られ、シミアは帰路についた。
この週末、彼女は私軍設立のための重要な知見を得ただけでなく、アルヴィン将軍を、そしてこの国を縛り付けている「政治」と「金」という名の鎖の存在を、深く心に刻むことになった。




