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巨獣の遺産、あるいは罪の記憶

重い足を引きずりながら、ミリエルは神話学の講義室へと向かっていた。

ここ数日、脳裏から離れない光景がある。あの朝、寝室で目覚めたシミアが見せた、あの恐怖に染まった拒絶の眼差し。

(まさか……トリンドルが、あの日のことを話してしまったの?)

いや、と即座にかぶりを振る。トリンドルはミリエルを憎んでいるが、そんな卑怯な告げ口をするほど誇りのない人間ではない。

(だとしたら……シミア自身が、思い出した?)

その可能性に思い至った瞬間、心臓が冷たい手で鷲掴みにされたように痛んだ。


「ミリエル様……」


背後からコーナの控えめな声が響く。

ハッとして顔を上げると、いつの間にか教室の入り口を通り過ぎていたことに気づいた。


「……行き過ぎてしまったわね」


ミリエルは深く息を吸い込み、乱れた思考を無理やり鎮める。

踵を返し、教室へと足を踏み入れた。

瞬間、室内の視線が一斉に彼女へと集まる。

ミリエルは教壇の前に立つと、優雅な動作でパチンと指を鳴らした。

ふわり、と紅茶の香りを乗せた清涼な風が室内を吹き抜け、真夏の気怠い熱気を一掃する。

さあ、今日の神話学ショータイムの始まりだ。


* * *


「……巨獣を討伐した後、十一の英雄たちはその返り血を浴び、遺骸の各部位をそれぞれの国へと持ち帰りました」


静まり返った教室に、ミリエルの凛とした声が響く。

「巨獣の遺骸」という単語が出た瞬間、銀潮連邦の生徒たち――特にアレクシスの目の色が変わったのを、ミリエルは見逃さなかった。


「神話において、巨獣は討ち払うべき『害悪』として語られています。ですが、その素材を利用する段になって、各国は些かの遠慮もしませんでした」

「例えば、鋼心連邦の『獅子鷲グリフィン騎士団』」


ミリエルは教室全体を見渡す。


「彼らは巨獣の血肉を土着の野獣に与え、人為的に飛行能力を進化させました。そして長年の調教の末、無敵の空中騎兵を作り上げたのです」

「おお……」


後列の貴族たちから、感嘆の溜息が漏れる。

一方でシミアは、無心でペンを走らせていた。

『飛行ユニット』『空中偵察』『側面からの脅威』――記される単語は、学生のノートというよりは軍人のメモに近い。本能的な危機感が、彼女の筆を走らせていた。


「次に、輝煌帝国の無敵艦隊」


その名が出た途端、銀潮連邦の生徒たちが露骨に嫌悪の表情を浮かべた。シミアはそれを鋭く観察する。


「輝煌帝国は巨獣のあぶらを手に入れました。それを軍船の船体に塗り込み、長い年月をかけて浸透・硬化させることで、魔法攻撃の大半を弾く強固な装甲を得たのです。それが、彼らが大陸最強の制海権を握る礎となりました」

「先生」


アレクシス・ミノールが挙手をする。


「はい、アレクシス君」

「先生が挙げられた例は、いずれも巨獣の遺骸に対する最も効率的かつ合理的な利用法です。先人たちの知恵の結晶と言えるでしょう」


彼の口調には、隠しきれない自負があった。


「ですが私の知る限り、ローレンス王国は……単に遺骸の骨粉を使って、監獄を建てただけだとか?」


彼は挑発的な視線を向けてくる。


「質問させてください。各国の利用法の中で、これこそ最も非効率で、無駄な使い方ではありませんか?」


教室が静まり返る。連邦の生徒たちは同意の笑みを浮かべ、王国の貴族たちは顔を赤くして悔しがるが、反論の言葉を持たない。


「効率……ですか」


ミリエルはその言葉を噛み締めるように繰り返し、冷たく、どこか悲しげな微笑を浮かべた。


「アレクシス君の効率への探求心には感服します。ですが貴方は一つ……とても『効率的』な利用法を見落としているようね」


ふと、ミリエルの声の温度が下がった。


「――例えば、永遠烈陽帝国。彼らは巨獣の内臓をすり潰し、泥と混ぜ合わせることで、他者の自我を完全に破壊し、意のままの奴隷へと変える『薬』を培養しました」


『薬』。

その単語が、巨石のように静寂の水面を叩いた。

トリンドルの肩がビクリと跳ねる。彼女は反射的に振り返り、憎悪と嫌悪の混じった目で教壇のミリエルを睨みつけた。

(貴様……よくもぬけぬけとその話を……!)


だが、ミリエルはトリンドルを見なかった。

その言葉を口にした瞬間、彼女の視線は吸い寄せられるように、教室の中央――シミアの顔へと釘付けになっていた。

シミアはいつものように俯いてノートを取っていた。

だが、『薬』という文字を書こうとした瞬間、ペン先がピタリと止まる。


(……薬?)


説明しようのない、生理的な悪寒が背筋を駆け上がった。

彼女は顔を上げる。

そこで、ミリエルの複雑な――まるで何かの反応を待ちわびているような――銀色の瞳と目が合った。

――この目だ。

シミアの瞳孔が収縮する。

(あの朝と、同じ……)

得体の知れない逃走本能が警鐘を鳴らす。あの日、女王の寝室で目覚めた時の、あの強烈な既視感デジャヴ

焦燥感が胸を焼く。


(どうして……こんな禁忌の話をする時、ミリエルは私をそんな目で見るの?)

(私を、試しているの……?)


シミアにはその意図が理解できなかった。ただ、内側から湧き上がる不快なざわめきに耐えきれず、彼女は逃げるように視線を逸らし、手元のノートへと目を落とした。

その、困惑と拒絶を含んだシミアの反応を見て、ミリエルの心臓がひしゃげたように痛んだ。

彼女もまた、逃げるように勢いよく顔を背ける。


その無言のやり取りを、トリンドルだけが見ていた。

(シミア……やはり、覚えていないのか!)

彼女は爪が食い込むほどに拳を握りしめた。


「……そういった国家ごとの特色ある利用法の他にも」


ミリエルの声は平静を取り戻していた。今の動揺など幻だったかのように。


「巨獣の骨粉を武器の鍛造に用いることで、魔法術式を切り裂く特性を付与することができます」


彼女はコーナから、戦場で鹵獲ろかくした『砕魔の短剣』を受け取ると、指先に小さな炎を灯した。

刃が炎に触れた瞬間、魔法の粒子は霧散し、炎は呆気なく両断されて消える。


「このように、魔法は決して万能ではありません」


ミリエルが結論づける。


「先生!」


アレクシスが再び立ち上がった。今の実演になど興味はないとばかりに、彼は最初の論点に固執する。


「質問の答えになっていません。たとえ一部に邪悪な用法があったとしても、王国の利用法が最も非効率であるという事実は変わりません」

「効率、効率、と……」


ミリエルは小さく呟き、顔を上げた。

その瞳は凍てつくように冷たく、アレクシスを通して、もっと別の何かを見据えているようだった。


「アレクシス君。貴方は効率しか見ていない。その代償を見ていないわ」

「巨獣は悪の根源、それは大陸共通の認識です。ならば」


彼女の声に、鋭い皮肉が混じる。


「邪悪な力を用いて、正義を執行する。邪悪な力を利用して、効率を追求する……その行為自体が、最大の過ちだとは思わない?」


その時、ヒートアップしかけた哲学的論争を断ち切るように、終業のベルが鳴り響いた。


「授業はここまでです」


ミリエルは即座に教本を閉じると、コーナに守られるようにして、早足で教室の出口へと向かった。


「ミリエル……」


シミアは無意識に手を伸ばし、その名を呼ぼうとした。

ミリエルの足が一瞬だけ止まる。

だが、彼女は振り返らなかった。むしろ速度を上げ、まるで何かから逃げ出すようにしてシミアの視界から消え去った。


シミアの伸ばした手は、虚しく空を切る。

胸に残った正体不明の困惑と不安は、消えるどころか、より一層濃くその場に沈殿していた。

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