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友人の推しアイドル握手会に強制連行された結果。そこにいたのはかつていじめから助けた同級生だった件  作者: 午前の緑茶


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9/14

父親

 楽屋へ続く通路で、小春は父の鞄からはみ出した黄色いタオルを見た。


「お父さん。また、それ持ってきたの?」


「汗を拭くんだよ」


「……まだ何も言ってないけど」


 父はタオルを畳み直した。半分にして、もう一度半分にしても、鞄の口に収まりきらない。


 小春が手を出すと、父は少しだけ鞄を遠ざけた。


「使うから」


「汗を拭くのに?」


「そうだよ」


 小春はため息をついたが、口元は笑っていた。


 父の視線が、黄色い衣装の胸元から、裾へ下りた。飾りの端を確かめるように目を細める。小春は、つい背筋を伸ばした。


「……どう?」


「いいな」


 父は一度頷いた。もう一度、今度は深く頷く。


「うん。よく似合う」


「まだ泣かないでよ」


「泣いてないだろ」


「今、鼻すすった」


「通路が冷えるんだ」


 その後ろから、片桐がクリップボードを抱えて歩いてきた。


「そろそろ開場します。お父様、お席は後ろのほうでよろしいんですね」


「ええ。いつも来てくれる人たちに、前で見てもらったほうがいいですから」


「後ろでもちゃんと見えるように歌うから」


 小春が言うと、父の手が、また鞄へ伸びた。


「だから、まだ始まってないってば」


「分かってる。行ってくる」


 タオルを取り出す代わりに、父は片手を上げた。


「頑張れよ」


「うん。楽しんでってね」


 片桐に案内されて歩き出した父は、通路の角でもう一度振り返った。小春がまだ立っていると分かると、大きく手を振る。


 小春も振り返した。父の姿が見えなくなってから、自分の衣装の裾を見下ろす。


 両手で軽く整え、楽屋へ戻った。


 *


「今日、後ろのほうになるけど大丈夫か?」


 入場を待つ列で、尾崎がチケットの番号を見ながら聞いた。


「むしろ、そのほうが助かる」


「助かる?」


「いや。見やすそうなら、どこでも」


 危なかった。まだ座ってもいないのに、本音が出るところだった。


 あの撮影から何度か、水瀬とは生誕の話をした。準備は順調らしい。真帆にも進行のことを相談して、話す内容も大体決まったという。


 何を話すのかまでは、聞けなかった。


 聞けばよかった気もする。けれど、なぜそこを気にしているのか尋ねられたら、説明しようがない。


「そういえば、あの撮影の動画、完成したのは見た?」


 尾崎に聞かれ、俺は首を振った。


「いや。俺も今日、初めて見る」


「そっか。楽しみだな」


「……ああ」


 中へ入ると、ステージの前から椅子が並べられていた。前の席はもうほとんど埋まっていて、壁際に花が飾られている。奥のドリンクカウンターから、氷をすくう音がした。


 後ろから二列目に空席を見つけたところで、尾崎が少し離れた場所に手を上げた。


「知り合いがいた。ちょっと挨拶してくる」


「うん。ここにいる」


 俺が椅子へ上着を置くと、隣の男性が顔を向けた。


「二人?」


「はい」


「こっちも空いてるよ。荷物、どけるから」


 男性は自分の鞄を膝へ移した。俺より二十歳以上は上だろうか。チェックのシャツの袖を肘までまくり、首の後ろに大きな黄色いタオルを掛けている。足元のカップホルダーには、ビールの入った透明なカップがあった。


「ありがとうございます」


「いいって。今日はいっぱいだなあ」


 俺がペンライトを取り出すと、男は自分のものを黄色にして、こちらへ顔を向けた。


「君も、こはるを?」


「はい。最近、来るようになりました」


「そうか。どうだった?」


「歌、いいですよね。最後の音が、伴奏が止まってからも残るところとか」


 男の背中が、椅子から離れた。


「そうなんだよ」


 声がさっきより近い。


「あの声が、いいんだ。分かるか」


「はい。初めてライブで聴いたときも、そこが好きで」


「そうかあ」


 男はステージへ目を戻した。まだ誰も出ていない舞台を眺め、口元を緩めている。


「こうやって、聴きに来てくれる人が増えるんだなあ」


 ずいぶん昔から応援している人なのかもしれない。


 尾崎も、俺が初めてライブへ行くと返したときは、すぐに長い案内を送ってくれた。好きなものを誰かと共有できるのは、嬉しいのだろう。


 戻ってきた尾崎に、男が空いた席を示した。


「友達も黄色?」


「はい。こはるちゃん推しです」


「いいねえ」


 尾崎まで褒められた。


 俺は二人の間へ座り、開演を待った。


 *


 客席の照明が落ちた。


 同時に、隣の男がビールを置いた。


 音楽が流れ、ステージへ五人が出てくる。黄色い衣装を見つけた瞬間、男のペンライトが胸の高さまで跳ね上がった。


「こはるー!」


 尾崎の声と重なった。


 俺も手を上げた。水瀬が客席を見渡している。前から後ろへ視線を動かし、胸の前で両手を振った。


 隣でも、ほとんど同じ大きさで手が振られていた。


 なるほど。熱心だ。


 一曲目が始まると、男は歌っている水瀬を目で追いながら、拍子に合わせてペンライトを振った。水瀬が中央へ出ると身を起こし、少し横へ移ると、そのぶんだけ肩が動く。


 見失わないようにしているのが、隣からでも分かった。


 二曲目は、前に真帆がメインを務めた曲だった。


 青い衣装の真帆が、低い声で歌い出す。間奏で一度動きを止めると、そこで客席から声が上がった。尾崎も体を前へ寄せている。


 曲が終わり、水瀬が一歩前へ出た。


「今日は、私の生誕イベントに来てくれて、ありがとうございます!」


 拍手が広がる。


 水瀬はマイクを両手で持ち、客席へ頭を下げた。顔を上げると、少しだけ呼吸が速い。頬も上気している。


「来てくれる人がいるかなって、最初、ちょっと心配してたんだけど。こんなにたくさん来てくれて……すごく嬉しいです」


 左隣で尾崎が、来るよ、と言った。


 右隣で、鼻をすする音がした。


 見ると、男はもうタオルを目元へ当てていた。


 まだ最初の挨拶だった。


「……大丈夫ですか」


「大丈夫」


 タオルの向こうから返事が来た。


「ちゃんと聞いてる」


 そういう心配ではなかったが、水瀬が続きを話し始めたので、俺も前を向いた。


「今日は、一緒にお祝いしてくれるゲストにも来てもらってます。朝倉莉央ちゃんです!」


 朝倉さんは、出てくる前から手を振っていた。


「こはる、お誕生日おめでとう!」


「ありがとう!」


 二人が並ぶと、客席の前のほうからも名前が呼ばれた。朝倉さんはそちらへ応えてから、目線を後ろまで動かす。


「後ろの人も見えてるよ。今日はこはるのお祝いだけど、私のことも少しは見て帰ってね」


「少しでいいの?」


「……やっぱりだめ。できれば、いーっぱい!」


 水瀬に聞き返され、朝倉さんが両手を胸の前へ寄せる。笑いと一緒に、もう一度名前が呼ばれた。


 彼女は嬉しそうに頷き、歌の始まる位置へ立った。


 撮影の日に見たときとは、声の届き方が違った。


 間奏で客席へ呼びかけ、返ってきた声を聞いて笑う。その顔を見て、さらに手が上がる。俺たちのいる後方へも視線が来て、気づけば俺も拍子を取っていた。


 水瀬が、後ろのお客さんまで楽しそうになると言っていた意味が分かった。


 最後の音が止まり、朝倉さんが息を整えながらマイクを上げる。


「ありがとう。今ので、ちょっとは私を好きになってくれた?」


 声が会場に響き渡る。


「よし。みんな私の時も絶対来てね!」


「莉央、私の会なのに宣伝しすぎ」


 水瀬が笑う。朝倉さんは、少し得意そうに胸を張った。


「当然。今日は勝ちに来てるんだから。ここでファンをいっぱい増やさないと」


 背後のスクリーンが明るくなった。


 俺は、ペンライトを膝へ下ろした。


 *


 企画が紹介され、朝倉さんと水瀬は舞台の端へ用意された椅子に座った。


 最初に流れたのは、朝倉さんの動画だった。


 店の扉の前で、彼女がこちらへ手を振る。


『お待たせ。待った?』


 男の声は流れず、画面の下に返事が出た。


 〈十分くらい〉


 朝倉さんが眉を下げる。


『そっか。じゃあ、ケーキは先に選んで。私は違うのにする』


 〈こっちのも食べたくなったら?〉


 文字が切り替わり、彼女はいたずらっぽく笑った。


『そのときは、一口ちょうだい?』


 カメラへ近づくところで、客席が沸いた。


 隣の男も笑っている。尾崎は小さく頷きながら、画面を見ていた。


 知っている店のテーブル、並んだ皿、朝倉さんの楽しそうな顔。撮影のときには機材や人があった場所が、画面ではきれいに切り取られていた。


 あの日そばにいた三浦さんの声も、姿も出てこない。男側の台詞は字幕になっていて、それを読むと、朝倉さんがこちらへ返事をしてくれる。


 最後は店先で振り返り、小さく手を振って終わった。


 客席の拍手を聞いた朝倉さんが、椅子の上で少し背を伸ばした。笑顔のまま水瀬を見て、軽く顎を上げる。


 水瀬も笑い返していたが、自分の動画のタイトルが出た途端、膝へ置いた手を握り合わせた。


 俺も、座り直した。


 薄い青のワンピースを着た水瀬が、画面に現れた。


『お待たせ。……待った?』


 〈少し。今日、楽しみだったから早く来すぎた〉


 俺の声の代わりに、言った言葉が画面へ出た。水瀬が、そっか、と笑う。


 撮影中に止まったところはつながれ、次の字幕へ切り替わった。


 〈その服、似合うな〉


『……ほんと?』


 〈見つけたとき、かわいいなって思った〉


 水瀬が口元をほころばせ、服の裾へ目を落とす。


『今日、これにしようかなって、思って』


 俺が服を褒めたあとの顔だった。


 言葉を言い終えても、口元の笑みが消えない。頬の横の髪を直し、もう一度こちらを見る。


 右隣で、男が深く息を吸った。


 ゆっくり吐く。もう一度吸って、途中で詰まる。


「……いい笑顔だなあ」


 見ると、目の下が濡れていた。男はタオルを押し当てたが、すぐに下げた。画面が見えなくなるのが惜しいらしい。


 俺はポケットからティッシュを出し、ひとつ差し出した。


 男は無言で受け取り、頭を下げる。その間にも、もう一度鼻をすすった。


『ねえ。一口、いい?』


 画面が店内へ移っていた。


 メニューから顔を覗かせた水瀬が、こちらの返事を待っている。撮影のとき俺を呼んだ名前の部分はなく、甘えるような目だけが、まっすぐレンズへ向いていた。


 あのときは、この顔をすぐそばで見た。


 自分の名前を呼ばれたことに気を取られ、返事が遅れた。水瀬がさらに首を傾け、俺は次に何を言うつもりだったかまで忘れた。


 その間も、画面にはちゃんと残っていた。


 客席のどこかで、小さく声が漏れる。


 隣の男は、ティッシュを持ったまま固まっていた。


 さっきまで下がっていた眉が、ゆっくり寄っていく。


「……自分の分があるだろう」


 低い声だった。


「交換すると、両方食べられますから」


 俺が小さく返すと、男は画面を見たまま首を振った。


「そういう問題じゃない」


 どういう問題なんだ。


 聞き返す前に、水瀬がサンドイッチを食べた。


 目が大きくなる。こちらを向き、口元へ手を添えて、何度も頷く。


『……おいしい』


 男の眉が、ほどけた。


「……そうか。うまいか」


 また鼻をすすった。


 忙しい人だった。


 水瀬は次の一口を食べる前に、こちらへ皿を少し傾ける。嬉しいことをすぐに伝えたい顔が、大きな画面いっぱいに映っていた。


 俺も、口元が緩んだ。


 あの店へ行ってよかった。卵のサンドイッチを楽しみにしていたことを、今も覚えている。口へ運ぶ前から嬉しそうで、食べたらさらに嬉しそうだった。


 次の場面で、画面の下に文字が出た。


 〈話してるほうが楽しくて〉


 水瀬の手が止まる。口元を一度きゅっと結んでから、フォークを置いた。


『じゃあ、いったん黙るから。食べて』


 どうぞ、と手を向ける。黙っているつもりなのに、相手の様子が気になって、視線だけはこちらを向く。


 〈それはそれで、食べにくいな〉


 その文字が出ると、水瀬はこらえきれずに笑い出した。


 男はタオルを膝へ下ろした。


「ちょっと待て」


 誰に言ったのか分からなかった。


「こんな顔、見せていいのか」


「……いいんじゃないですか。よく撮れてますし」


「よく撮れすぎてるだろ」


 それは撮影した人への、かなり大きな褒め言葉だと思う。


 男は両手を膝へ置き、画面を睨んだ。けれど水瀬がまた笑うと、口元がつられかける。慌てて結び直した。


 笑えばいいのに。


 映像は遊歩道へ移った。


 風に揺れるワンピースの裾。バッグの紐を持つ指。水瀬が道の先を見てから、こちらへ向き直る。


『今日、来てくれてありがとう』


 〈うん。楽しかった〉


『私も』


 その短い言葉だけで、さっきより目元が柔らかくなる。


 隣の男が少し身を起こした。俺も、画面から目を離せなかった。


『あのね。駅、そっちなんだけど』


 男が一度、頷いた。


『……もう少しだけ、遠回りしていかない?』


 頷きが止まった。


「駅へ行きなさい」


 俺にだけ聞こえるくらいの声で、男が言った。


「そこは、もう少し一緒にいたいんですよ」


「分かってるよ」


 両膝を握る手に、力が入っていた。


「分かるから、困るんだろうが」


 物語への入り込み方が、俺とは違った。


 〈いいよ。あっちまで歩こうか〉


 字幕が出た途端、画面の水瀬が笑った。


 肩から力が抜ける。半歩こちらへ近づき、紐から片手を離す。


『……もうちょっと、一緒にいたかったから』


 男は口を開いた。


 何か言おうとしたらしい。けれど、俯いた水瀬の横顔にまだ笑みが残っているのを見て、そのまま口を閉じた。


 唇の端が、少し震えた。


「……そんな顔をされたら」


 続きを言う前に、大きく鼻をすすった。


 タオルがもう一度顔を覆う。今度は目元だけでなく、鼻も口も隠れてしまった。両手で押さえた肩が、はっきりと上下する。


 俺はもう一枚ティッシュを出しかけて、タオルの大きさを見てやめた。


 そちらのほうが、間に合いそうだった。


 画面が暗くなり、拍手が広がった。


 男はタオルを下ろし、目も鼻も赤いまま、誰よりも大きく手を叩き始めた。


「よかった……!」


「よかったですね」


「よすぎる」


 もう一度画面を睨んでから、また拍手した。


 水瀬が今日の動画を心配していたことを思い出した。


 少なくとも、ここには十分すぎるくらい届いている。


 俺も手を叩いた。隣で何度も笑い、泣き、なぜか怒っていた人につられ、撮影を終えたときとは別の嬉しさがあった。


 

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― 新着の感想 ―
良い親父さんなんだけど、父親との初対面がこれかよ!!!!
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