父親
楽屋へ続く通路で、小春は父の鞄からはみ出した黄色いタオルを見た。
「お父さん。また、それ持ってきたの?」
「汗を拭くんだよ」
「……まだ何も言ってないけど」
父はタオルを畳み直した。半分にして、もう一度半分にしても、鞄の口に収まりきらない。
小春が手を出すと、父は少しだけ鞄を遠ざけた。
「使うから」
「汗を拭くのに?」
「そうだよ」
小春はため息をついたが、口元は笑っていた。
父の視線が、黄色い衣装の胸元から、裾へ下りた。飾りの端を確かめるように目を細める。小春は、つい背筋を伸ばした。
「……どう?」
「いいな」
父は一度頷いた。もう一度、今度は深く頷く。
「うん。よく似合う」
「まだ泣かないでよ」
「泣いてないだろ」
「今、鼻すすった」
「通路が冷えるんだ」
その後ろから、片桐がクリップボードを抱えて歩いてきた。
「そろそろ開場します。お父様、お席は後ろのほうでよろしいんですね」
「ええ。いつも来てくれる人たちに、前で見てもらったほうがいいですから」
「後ろでもちゃんと見えるように歌うから」
小春が言うと、父の手が、また鞄へ伸びた。
「だから、まだ始まってないってば」
「分かってる。行ってくる」
タオルを取り出す代わりに、父は片手を上げた。
「頑張れよ」
「うん。楽しんでってね」
片桐に案内されて歩き出した父は、通路の角でもう一度振り返った。小春がまだ立っていると分かると、大きく手を振る。
小春も振り返した。父の姿が見えなくなってから、自分の衣装の裾を見下ろす。
両手で軽く整え、楽屋へ戻った。
*
「今日、後ろのほうになるけど大丈夫か?」
入場を待つ列で、尾崎がチケットの番号を見ながら聞いた。
「むしろ、そのほうが助かる」
「助かる?」
「いや。見やすそうなら、どこでも」
危なかった。まだ座ってもいないのに、本音が出るところだった。
あの撮影から何度か、水瀬とは生誕の話をした。準備は順調らしい。真帆にも進行のことを相談して、話す内容も大体決まったという。
何を話すのかまでは、聞けなかった。
聞けばよかった気もする。けれど、なぜそこを気にしているのか尋ねられたら、説明しようがない。
「そういえば、あの撮影の動画、完成したのは見た?」
尾崎に聞かれ、俺は首を振った。
「いや。俺も今日、初めて見る」
「そっか。楽しみだな」
「……ああ」
中へ入ると、ステージの前から椅子が並べられていた。前の席はもうほとんど埋まっていて、壁際に花が飾られている。奥のドリンクカウンターから、氷をすくう音がした。
後ろから二列目に空席を見つけたところで、尾崎が少し離れた場所に手を上げた。
「知り合いがいた。ちょっと挨拶してくる」
「うん。ここにいる」
俺が椅子へ上着を置くと、隣の男性が顔を向けた。
「二人?」
「はい」
「こっちも空いてるよ。荷物、どけるから」
男性は自分の鞄を膝へ移した。俺より二十歳以上は上だろうか。チェックのシャツの袖を肘までまくり、首の後ろに大きな黄色いタオルを掛けている。足元のカップホルダーには、ビールの入った透明なカップがあった。
「ありがとうございます」
「いいって。今日はいっぱいだなあ」
俺がペンライトを取り出すと、男は自分のものを黄色にして、こちらへ顔を向けた。
「君も、こはるを?」
「はい。最近、来るようになりました」
「そうか。どうだった?」
「歌、いいですよね。最後の音が、伴奏が止まってからも残るところとか」
男の背中が、椅子から離れた。
「そうなんだよ」
声がさっきより近い。
「あの声が、いいんだ。分かるか」
「はい。初めてライブで聴いたときも、そこが好きで」
「そうかあ」
男はステージへ目を戻した。まだ誰も出ていない舞台を眺め、口元を緩めている。
「こうやって、聴きに来てくれる人が増えるんだなあ」
ずいぶん昔から応援している人なのかもしれない。
尾崎も、俺が初めてライブへ行くと返したときは、すぐに長い案内を送ってくれた。好きなものを誰かと共有できるのは、嬉しいのだろう。
戻ってきた尾崎に、男が空いた席を示した。
「友達も黄色?」
「はい。こはるちゃん推しです」
「いいねえ」
尾崎まで褒められた。
俺は二人の間へ座り、開演を待った。
*
客席の照明が落ちた。
同時に、隣の男がビールを置いた。
音楽が流れ、ステージへ五人が出てくる。黄色い衣装を見つけた瞬間、男のペンライトが胸の高さまで跳ね上がった。
「こはるー!」
尾崎の声と重なった。
俺も手を上げた。水瀬が客席を見渡している。前から後ろへ視線を動かし、胸の前で両手を振った。
隣でも、ほとんど同じ大きさで手が振られていた。
なるほど。熱心だ。
一曲目が始まると、男は歌っている水瀬を目で追いながら、拍子に合わせてペンライトを振った。水瀬が中央へ出ると身を起こし、少し横へ移ると、そのぶんだけ肩が動く。
見失わないようにしているのが、隣からでも分かった。
二曲目は、前に真帆がメインを務めた曲だった。
青い衣装の真帆が、低い声で歌い出す。間奏で一度動きを止めると、そこで客席から声が上がった。尾崎も体を前へ寄せている。
曲が終わり、水瀬が一歩前へ出た。
「今日は、私の生誕イベントに来てくれて、ありがとうございます!」
拍手が広がる。
水瀬はマイクを両手で持ち、客席へ頭を下げた。顔を上げると、少しだけ呼吸が速い。頬も上気している。
「来てくれる人がいるかなって、最初、ちょっと心配してたんだけど。こんなにたくさん来てくれて……すごく嬉しいです」
左隣で尾崎が、来るよ、と言った。
右隣で、鼻をすする音がした。
見ると、男はもうタオルを目元へ当てていた。
まだ最初の挨拶だった。
「……大丈夫ですか」
「大丈夫」
タオルの向こうから返事が来た。
「ちゃんと聞いてる」
そういう心配ではなかったが、水瀬が続きを話し始めたので、俺も前を向いた。
「今日は、一緒にお祝いしてくれるゲストにも来てもらってます。朝倉莉央ちゃんです!」
朝倉さんは、出てくる前から手を振っていた。
「こはる、お誕生日おめでとう!」
「ありがとう!」
二人が並ぶと、客席の前のほうからも名前が呼ばれた。朝倉さんはそちらへ応えてから、目線を後ろまで動かす。
「後ろの人も見えてるよ。今日はこはるのお祝いだけど、私のことも少しは見て帰ってね」
「少しでいいの?」
「……やっぱりだめ。できれば、いーっぱい!」
水瀬に聞き返され、朝倉さんが両手を胸の前へ寄せる。笑いと一緒に、もう一度名前が呼ばれた。
彼女は嬉しそうに頷き、歌の始まる位置へ立った。
撮影の日に見たときとは、声の届き方が違った。
間奏で客席へ呼びかけ、返ってきた声を聞いて笑う。その顔を見て、さらに手が上がる。俺たちのいる後方へも視線が来て、気づけば俺も拍子を取っていた。
水瀬が、後ろのお客さんまで楽しそうになると言っていた意味が分かった。
最後の音が止まり、朝倉さんが息を整えながらマイクを上げる。
「ありがとう。今ので、ちょっとは私を好きになってくれた?」
声が会場に響き渡る。
「よし。みんな私の時も絶対来てね!」
「莉央、私の会なのに宣伝しすぎ」
水瀬が笑う。朝倉さんは、少し得意そうに胸を張った。
「当然。今日は勝ちに来てるんだから。ここでファンをいっぱい増やさないと」
背後のスクリーンが明るくなった。
俺は、ペンライトを膝へ下ろした。
*
企画が紹介され、朝倉さんと水瀬は舞台の端へ用意された椅子に座った。
最初に流れたのは、朝倉さんの動画だった。
店の扉の前で、彼女がこちらへ手を振る。
『お待たせ。待った?』
男の声は流れず、画面の下に返事が出た。
〈十分くらい〉
朝倉さんが眉を下げる。
『そっか。じゃあ、ケーキは先に選んで。私は違うのにする』
〈こっちのも食べたくなったら?〉
文字が切り替わり、彼女はいたずらっぽく笑った。
『そのときは、一口ちょうだい?』
カメラへ近づくところで、客席が沸いた。
隣の男も笑っている。尾崎は小さく頷きながら、画面を見ていた。
知っている店のテーブル、並んだ皿、朝倉さんの楽しそうな顔。撮影のときには機材や人があった場所が、画面ではきれいに切り取られていた。
あの日そばにいた三浦さんの声も、姿も出てこない。男側の台詞は字幕になっていて、それを読むと、朝倉さんがこちらへ返事をしてくれる。
最後は店先で振り返り、小さく手を振って終わった。
客席の拍手を聞いた朝倉さんが、椅子の上で少し背を伸ばした。笑顔のまま水瀬を見て、軽く顎を上げる。
水瀬も笑い返していたが、自分の動画のタイトルが出た途端、膝へ置いた手を握り合わせた。
俺も、座り直した。
薄い青のワンピースを着た水瀬が、画面に現れた。
『お待たせ。……待った?』
〈少し。今日、楽しみだったから早く来すぎた〉
俺の声の代わりに、言った言葉が画面へ出た。水瀬が、そっか、と笑う。
撮影中に止まったところはつながれ、次の字幕へ切り替わった。
〈その服、似合うな〉
『……ほんと?』
〈見つけたとき、かわいいなって思った〉
水瀬が口元をほころばせ、服の裾へ目を落とす。
『今日、これにしようかなって、思って』
俺が服を褒めたあとの顔だった。
言葉を言い終えても、口元の笑みが消えない。頬の横の髪を直し、もう一度こちらを見る。
右隣で、男が深く息を吸った。
ゆっくり吐く。もう一度吸って、途中で詰まる。
「……いい笑顔だなあ」
見ると、目の下が濡れていた。男はタオルを押し当てたが、すぐに下げた。画面が見えなくなるのが惜しいらしい。
俺はポケットからティッシュを出し、ひとつ差し出した。
男は無言で受け取り、頭を下げる。その間にも、もう一度鼻をすすった。
『ねえ。一口、いい?』
画面が店内へ移っていた。
メニューから顔を覗かせた水瀬が、こちらの返事を待っている。撮影のとき俺を呼んだ名前の部分はなく、甘えるような目だけが、まっすぐレンズへ向いていた。
あのときは、この顔をすぐそばで見た。
自分の名前を呼ばれたことに気を取られ、返事が遅れた。水瀬がさらに首を傾け、俺は次に何を言うつもりだったかまで忘れた。
その間も、画面にはちゃんと残っていた。
客席のどこかで、小さく声が漏れる。
隣の男は、ティッシュを持ったまま固まっていた。
さっきまで下がっていた眉が、ゆっくり寄っていく。
「……自分の分があるだろう」
低い声だった。
「交換すると、両方食べられますから」
俺が小さく返すと、男は画面を見たまま首を振った。
「そういう問題じゃない」
どういう問題なんだ。
聞き返す前に、水瀬がサンドイッチを食べた。
目が大きくなる。こちらを向き、口元へ手を添えて、何度も頷く。
『……おいしい』
男の眉が、ほどけた。
「……そうか。うまいか」
また鼻をすすった。
忙しい人だった。
水瀬は次の一口を食べる前に、こちらへ皿を少し傾ける。嬉しいことをすぐに伝えたい顔が、大きな画面いっぱいに映っていた。
俺も、口元が緩んだ。
あの店へ行ってよかった。卵のサンドイッチを楽しみにしていたことを、今も覚えている。口へ運ぶ前から嬉しそうで、食べたらさらに嬉しそうだった。
次の場面で、画面の下に文字が出た。
〈話してるほうが楽しくて〉
水瀬の手が止まる。口元を一度きゅっと結んでから、フォークを置いた。
『じゃあ、いったん黙るから。食べて』
どうぞ、と手を向ける。黙っているつもりなのに、相手の様子が気になって、視線だけはこちらを向く。
〈それはそれで、食べにくいな〉
その文字が出ると、水瀬はこらえきれずに笑い出した。
男はタオルを膝へ下ろした。
「ちょっと待て」
誰に言ったのか分からなかった。
「こんな顔、見せていいのか」
「……いいんじゃないですか。よく撮れてますし」
「よく撮れすぎてるだろ」
それは撮影した人への、かなり大きな褒め言葉だと思う。
男は両手を膝へ置き、画面を睨んだ。けれど水瀬がまた笑うと、口元がつられかける。慌てて結び直した。
笑えばいいのに。
映像は遊歩道へ移った。
風に揺れるワンピースの裾。バッグの紐を持つ指。水瀬が道の先を見てから、こちらへ向き直る。
『今日、来てくれてありがとう』
〈うん。楽しかった〉
『私も』
その短い言葉だけで、さっきより目元が柔らかくなる。
隣の男が少し身を起こした。俺も、画面から目を離せなかった。
『あのね。駅、そっちなんだけど』
男が一度、頷いた。
『……もう少しだけ、遠回りしていかない?』
頷きが止まった。
「駅へ行きなさい」
俺にだけ聞こえるくらいの声で、男が言った。
「そこは、もう少し一緒にいたいんですよ」
「分かってるよ」
両膝を握る手に、力が入っていた。
「分かるから、困るんだろうが」
物語への入り込み方が、俺とは違った。
〈いいよ。あっちまで歩こうか〉
字幕が出た途端、画面の水瀬が笑った。
肩から力が抜ける。半歩こちらへ近づき、紐から片手を離す。
『……もうちょっと、一緒にいたかったから』
男は口を開いた。
何か言おうとしたらしい。けれど、俯いた水瀬の横顔にまだ笑みが残っているのを見て、そのまま口を閉じた。
唇の端が、少し震えた。
「……そんな顔をされたら」
続きを言う前に、大きく鼻をすすった。
タオルがもう一度顔を覆う。今度は目元だけでなく、鼻も口も隠れてしまった。両手で押さえた肩が、はっきりと上下する。
俺はもう一枚ティッシュを出しかけて、タオルの大きさを見てやめた。
そちらのほうが、間に合いそうだった。
画面が暗くなり、拍手が広がった。
男はタオルを下ろし、目も鼻も赤いまま、誰よりも大きく手を叩き始めた。
「よかった……!」
「よかったですね」
「よすぎる」
もう一度画面を睨んでから、また拍手した。
水瀬が今日の動画を心配していたことを思い出した。
少なくとも、ここには十分すぎるくらい届いている。
俺も手を叩いた。隣で何度も笑い、泣き、なぜか怒っていた人につられ、撮影を終えたときとは別の嬉しさがあった。




