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友人の推しアイドル握手会に強制連行された結果。そこにいたのはかつていじめから助けた同級生だった件  作者: 午前の緑茶


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10/14

進行係

 舞台の照明が戻る。


 真帆が、マイクを持って中央へ出てきた。


「ここからは、私、三枝真帆が進行します。二人とも、まずはお疲れさま」


 水瀬と朝倉さんの間へ立ち、真帆は二人の顔を順に見た。


「自分の動画、大きな画面で見るのはどうだった?」


「……思ってたより、恥ずかしい」


 水瀬が頬へ片手を当てる。


「私は、みんな反応が見られるから好き」


 朝倉さんはそう答えてから、客席を見渡す。それから少しだけ困ったように眉を下げる。


「……途中までは、すごく好きだった」


 客席から笑いが起きた。


「では、そのみなさんの反応を確かめたいと思います」


「待って。もうちょっと、私のよかったところを思い出す時間とかない?」


「ないない。二本とも忘れないうちに聞かないと」


「ねぇ、ちょっと!」


 真帆は笑顔で返し、客席へ向き直った。


「もう一度デートしたいと思ったほうへ、拍手をお願いします。まずは、莉央」


 前のほうから声が上がった。手が叩かれ、朝倉さんが嬉しそうに身を乗り出す。


「ありがとう! 今の、ちゃんと覚えたからね」


 隣の男も頷いていたが、手は膝へ置いたままだった。


 朝倉さんは舞台の上で、こっそり息を吐く。


「続いて、小春」


 俺が手を上げるより早く、両隣から音がした。


 尾崎が拍手する。右隣の男も、肘を脇へ締め、顔の前で力いっぱい手を叩いている。前の列からも、横からも音が重なり、誰かの呼ぶ名前がその中へ埋もれた。


 水瀬が、少し驚いた顔で客席を見ていた。


 やがて、左目を細めて笑った。


 俺も手を叩き続けた。


 朝倉さんが両手を上げる。


「はぁ、完敗だぁ」


 マイクを上げて言うと、拍手の中へ笑いが混じった。


「それでは、勝者は小春です。おめでとう!」


「ありがとうございます!」


 水瀬が深く頭を下げた。朝倉さんも隣で拍手をしていたが、口だけは小さく尖っていた。


「莉央、どうだった?」


「悔しい」


 即答だった。


「でも、小春のとき、莉央もちょっと拍手しかけてたよね」


「なんで気付いてるの? 人の手元、見ないで!」


 朝倉さんが両手を背中へ回した。マイクまで一緒に隠してしまい、慌てて片手だけ戻す。


 真帆は隠されたほうの手へちらりと目をやり、笑いをこらえるように唇を結んだ。朝倉さんが睨むと、今度は少し声を柔らかくする。


「でも、莉央のも、すごくよかったよ。最初に好きなケーキを選ばせてくれるところ、あそこで嬉しくなった」


「……でしょ」


 朝倉さんの背筋が、少し戻った。真帆はその変化を眺め、口元だけで小さく笑う。


「いきなり『一口ちょうだい』じゃ駄目なの。先にこっちが譲っておくと、そのあと、ちょっとわがままを言っても聞いてくれるから」


「ああ、じゃあ、私たちも先に好きなのを選ばせてもらえたら、気をつけたほうがいいんだ」


「それは別! 今は動画の話!」


 否定しながらも、さっきより声が弾んでいた。


「それに、近づくタイミングも考えてた。ずっと近いと、それが普通になっちゃうじゃん。だから、ここっていうところで」


 朝倉さんが一歩、真帆へ寄る。


 客席から声が上がり、彼女は満足そうに笑った。


「ね?」


 真帆は頷き、朝倉さんを横目で見てから、水瀬へ話を振った。


「じゃあ、小春も同じようにやってみたら、もっとよくなるかな?」


「あ、それは駄目」


 水瀬が頷くより先に、朝倉さんが口を挟んだ。その瞬間、真帆の目元が楽しそうに細くなった。


「こはるは、あんまり考えないほうがいいの」


「……そうなの?」


「最後のところ。遠回りしたいって言って、返事待ってたでしょ。あそこで、まだ笑わないのがいいんだって。ちょっと不安そうにしてて、こっちが『いいよ』って言ったら、やっと笑ってくれるの」


 朝倉さんは水瀬へ体を向け、空いた手で映像の間を示した。


「しかも、すぐには近づいてこないじゃん。一回、嬉しいのを我慢しようとしてから来るじゃん。あれ、間を数えながらやったら、絶対ああはならないから」


「私、そんなふうにしてた?」


「してた。もう、すっごく」


 真帆は最後までうんうんと聞き、朝倉さんが満足そうに息をついたところで、客席へ顔を向けた。


「では、次に見るときは、ただいまの莉央先生の解説を参考にどうぞ」


「……あれ?」


 朝倉さんの手が止まった。


「今、私のよかったところを話してたんだけど」


「うん。ずいぶん熱心に教えてくれるから、止めるのも悪いかなって」


 真帆は悪びれずに首を傾げた。


「……わざと話、振ったでしょ」


「だって、莉央ならいっぱい答えてくれると思ったんだもん」


 朝倉さんが言い返す前に、真帆が続ける。


「相手のいいところも、ちゃんと見てるし」


 真帆が彼女へ笑いかけた。


「そういうところも、莉央のいいところだよね」


 朝倉さんが、唇を尖らせながら小さく口を開く。


「……褒められても、負けちゃったし」


 客席が笑った。水瀬も口元へ手を添えている。


 朝倉さんは二人を見比べ、最後に真帆を指した。


「あとで、私の動画の好きなところも、同じくらい言ってもらうから」


「いいよ。まだあるし」


「……あるんだ」


 指が、少し下がった。真帆はそこへ目を留めてから、困ったふりをして眉を下げた。


「でも、まだ怒ってるなら、やめとく?」


「やめなくていい!」


「そう? じゃあ、あとでね」


 真帆が笑うと、朝倉さんは素直に頷いた。


「その場で嬉しくならないで。莉央」


 水瀬に小声で言われ、朝倉さんは今度こそ悔しそうに顔をしかめた。


 隣の男が肩を揺らして笑っていた。


「あの子、うまいなあ」


「……はい」


「二人とも、いい顔してる」


 真帆は、まだ何か言いたそうな朝倉さんへ頷きながら、水瀬にも話を向けていた。一人が答えているあいだも、もう一人を置いたままにしない。


 昔、教室で一緒に話していた友達が帰りかけると、真帆はいつも、その人にしか答えられないことを一つ聞いた。


 貸した漫画の感想とか、その人が部活で出る試合の日とか。


 帰るのを引き止めたいわけではなく、最後にもう一度、その人とも話したかったのだと、付き合ってから分かった。


 こういうところは、変わらない。


 そう思ったところで、真帆が次の質問をした。


「小春本人は? 一番好きな場面、ある?」


「……最後、かな」


 俺は膝の上で、ペンライトを持ち直した。


「遠回りしようって誘うところ?」


「うん。あそこまで来たら、もう終わっちゃうんだなって思って。ちょっと寂しかったから」


 水瀬はそこまで言って、マイクへ目を落とした。


「……撮影が」


 客席の前のほうから声が上がった。


 真帆は水瀬の顔を見て、それから、こちら側へ向き直った。


「三分、短かったよね。見てる私たちも、もう少し一緒にいたくなる動画でした」


 拍手が起きる。


 水瀬はほっとしたように笑い、ありがとう、と頭を下げた。


 俺は、一度だけ息を吐いた。


 あの日の水瀬の顔も、自分が何を答えたのかも、よく覚えている。


 その話を、真帆が聞いている。


 俺の声は流れなかった。名前も出ていない。それでも、自分の言った言葉が画面へ出るたび、あの日のやり取りを真帆の前で繰り返しているようだった。撮影していたときより、ずっと背中が落ち着かない。


 右隣で、低い声がした。


「……相手は、誰なんだ」


 危うく、そちらを見るところだった。


 男は舞台へ顔を向けたまま、膝の上でタオルを握っていた。


「あんな顔をさせて。あんなことを言わせて」


 握ったタオルが、ぎゅっとねじれる。


「君、腹が立たないのか」


「……見る人が、相手になる動画ですから」


「そうじゃなくて、実際にいたほうだよ」


 左隣で、尾崎が小さく咳き込んだ。


 俺は舞台を向いたまま、なるべく普通に答えた。


「でも、楽しそうでしたよね」


「……それは」


「最後も、あんなに笑ってて」


 男が、唇を結んだ。


 舞台では水瀬が、客席へ小さく手を振っていた。真帆に何か言われ、恥ずかしそうに笑う。


 男の肩から、少し力が抜けた。


「そこなんだよなあ……」


 タオルがほどかれ、また顔へ上がる。


 怒っていたはずなのに、目元を拭く手つきは優しかった。


「あんな顔、するようになったんだなあ」


 応援してきた時間が長いと、嬉しいだけでは済まないこともあるのかもしれない。


 俺は、余計なことを言わずに前を向いた。


 尾崎がこちらを見ている気がしたが、今はそちらも見られなかった。


 *


「衣装は、二人とも自分で決めたんだよね」


 白い照明の下、真帆を真ん中に、左には黄色い衣装の水瀬、右には朝倉さんが立っていた。動画を見ていた椅子は、三人の背後にある。体は客席へ向けたまま、話す相手のほうへ少しずつ顔を寄せ合っている。


 話が服のことへ移り、ようやく少し、肩の力が抜けた。


「莉央のは、最初から決まってた?」


「大体は。座ってる時間が長いから、上が寂しくならないようにしようと思って。襟のところにちょっと飾りがあると、顔も明るく見えるし」


「そこまで考えてたんだ」


 水瀬が感心した声を出す。


「こはるは?」


「私は、ワンピースにしたいなって思ってて。それで、白石紗月ちゃんが雑誌で着てたのが、すごくかわいかったから。似た感じのを探したの」


「今月号の、窓際のやつ?」


 朝倉さんの返事が速かった。真帆の向こうにいる水瀬へ身を乗り出す。真帆が半歩後ろへ引くと、二人はその前で顔を見合わせた。


「そう。白いカーディガンを羽織ってる」


「あれ、いいよね! 私も欲しかった!」


 さっきまでの悔しそうな顔が、一瞬で消えた。


「でも、同じのはなかったんだ」


「発売日に見たけど、もうなかったよ。あのページ、出る前に告知に使われてたから。私、それで絶対買おうって思ってたのに」


「莉央、詳しいね」


「好きだから。出てる雑誌、毎回買ってる」


 初めて聞く名前だった。


 どんな人なのか尾崎へ聞こうとしたが、舞台の上で朝倉さんが話し続けていたので、口を閉じた。


「今月のもよかったけど、先月の表紙、見た? いつも笑ってるのに、あれだけ全然違う顔してて」


「見た。髪、短く見えるように上げてたやつでしょ」


 真帆が答えると、朝倉さんは大きく頷いた。


「そう! かっこよかった。ああいうふうに撮ってもらいたいんだけど、私がやると、普通に機嫌が悪そうになるんだよね」


「ちょっと、やってみて」


 水瀬が、三人の前の空いているところへ手を向けた。朝倉さんは少し照れたように笑ってから、一歩前へ出る。マイクを胸元へ下ろし、空いた手を腰へ当てた。


 片足を斜めに出し、顎を少し下げて、客席へ視線を向ける。水瀬は左後ろからその顔を覗き込み、真帆はその隣で口元に笑みを浮かべていた。


 さっきまでの愛嬌が消えると、整った顔立ちがはっきりした。会場から声が上がり、朝倉さんの口元が動きかける。


「かわいい」


「違うの、こはる。今、かっこいいのをやってるから」


 戻ってきた声に、客席が笑った。


 朝倉さんも耐えきれずに笑い、手を腰から外した。


「こうなるんだってば」


「目を細めすぎないほうが、あの写真に近いかも」


 真帆が朝倉さんの横へ並び、自分の目元を指してみせる。


「あと、ずっと力を入れておくと、莉央が先に笑っちゃうから。最後にちょっとだけ、こっちを見る感じで」


「……へえ」


 朝倉さんが、真帆へ向き直った。


 何かを思いついた顔だった。


「じゃあ、真帆がやってみてよ」


「私?」


「そんなに分かるなら。見たいよね、みんなも」


 客席へマイクが向けられた。


 声が返り、拍手が起こる。朝倉さんは満足そうに頷いてから、真帆へ笑いかけた。


「ほら。さっきまで私にばっかり話させてたんだから、真帆も何かやらないと」


「分かった。ちょっと持ってて」


 真帆が、自分のマイクを差し出した。


 朝倉さんが反射的に受け取る。両手に一本ずつマイクを持ったところで、あれ、と小さく眉を動かした。


 真帆が二人より一歩前へ出た。朝倉さんはマイクを持ち直しながら右へよけ、水瀬も左から少し下がる。二人の間に空いた場所で、青い衣装の真帆だけが、まっすぐ客席と向き合った。


 客席の拍手が、静まっていく。前の列で高く上がっていたペンライトも、胸の高さまで下りた。


 まず、笑みが薄くなった。


 口元へ少しだけ笑みを残し、真帆は顔の横へ手を上げた。髪を耳に掛けると、隠れていた頬から顎への輪郭が、照明の下にはっきり現れる。指が離れたあとも、こちらを見なかった。


 肩を引き、重心を片足へ移す。


 青い衣装の裾が、動いて止まった。


 その姿勢のまま、ゆっくり顔を上げる。


 目だけが、少し遅れて客席を向いた。


 顔はわずかに横を向いたまま、瞳が正面を捉える。目尻には柔らかな笑みが残っているのに、その視線には迷いがなかった。


 軽く閉じた唇の、片方の口角だけが、ほんの少し持ち上がった。照明を受けた唇に艶が浮かぶ。何か言いかけて、その言葉をこちらには教えずに楽しんでいるような顔だった。


 見ている側の俺たちが、どんな顔をしているのか。真帆はそれを全部知っていて、あえて何も言わずに待っている。そんなふうに見えた。


 さっきまで隣で笑っていた尾崎も、今は声を出していなかった。


 きれいだ、と思った。


 胸のあたりが詰まり、息を吸うのが遅れた。


 見たことがあるつもりの顔だった。笑っているところも、黙っているところも、近くで見てきた。


 それでも、こんなふうに立つ真帆を、俺は知らなかった。


 数秒だった。


 真帆が肩の力を抜いた。両方の口角が上がり、目元もくしゃりと緩む。いつもの親しみやすい笑顔に戻った途端、ようやく俺も息を吐けた。


 会場に声が戻った。拍手の中で、朝倉さんだけが両手にマイクを持ったまま、真帆を見ていた。


 真帆は片方を受け取り、口元へ上げた。


「こういう感じ?」


「……できるなら、先に言ってよ」


 真帆は顔を少し傾け、朝倉さんの目を覗き込んだ。


「私が困るところ、見たかった?」


「……ちょっと」


「ふふ。残念でした」


 嬉しそうに笑われ、朝倉さんが口を結ぶ。


 何か言い返そうとして真帆を見て、少し迷ってから、マイクを上げた。


「もう一回」


「え?」


「今度は、ちゃんと見るから」


「真似するつもりでしょ」


「そう!お願い!」


 真帆はすぐに答えず、考えるように人差し指を顎へ添えた。朝倉さんが返事を待っていると、やがて目を細める。


「そんなにお願いされたら、断れないな。あとで一緒にやろっか」


 朝倉さんは頷きかけ、途中で止まった。


「……なんか、私ばっかりお願いしてない?」


「私の動画も褒めて、ポーズも教えてって?」


 水瀬が指を二本立てる。


「こはるまで、まとめなくていい!」


 また笑いが起きた。


 俺も笑おうとして、一拍遅れた。


 ペンライトを握る手に、力が入っている。指を少し緩めると、隣の男が顔を寄せてきた。


「あの青い子も、好きなのか」


「……え?」


「よく見てるから」


 俺は、舞台へ目を戻した。


「高校の、同級生なんです」


「そうなのか」


 男が、真帆のほうを見る。


「そりゃ、嬉しいな。知ってる子が、あんなふうに頑張ってたら」


 すぐには、返事ができなかった。


 真帆が二人の間へ戻り、水瀬へ続きを促している。朝倉さんはまだ隣で何か言っていたが、さっきより二人の距離が近くなっていた。


 俺は、もう一度息を吸った。


「……そうですね」


 嬉しい。


 それも、確かにあった。


 今、隣で言われるまで、その言葉を思い浮かべていなかった。


「莉央、今日は本当にありがとう。皆さん、莉央のライブにも、ぜひ遊びに行ってみてくださいね」


 真帆の声で、舞台へ意識が戻る。


 朝倉さんが、客席へ向き直る。


「ぜひ来てね。歌ってるところも、もっと見てほしいから。今日だけじゃ、まだ全然足りないでしょ?」


 明るい声に、前の席から返事があった。


 朝倉さんが笑う。


 俺も頷いた。あのとき誘ってもらったライブへ、やっぱり一度、行ってみたい。


「みなさんには、今日の主役から、もう一曲届けたいと思います」


 朝倉さんが水瀬へ、小さく何か言った。水瀬が笑って頷く。


 二人に手を振って送り出され、水瀬は舞台の中央へ進んだ。


 隣で、ペンライトが黄色く光る。


 俺も手を上げた。


 水瀬は客席を見渡し、マイクを両手で包んだ。


「今日は、来てくれて、本当にありがとうございます。楽しかったなって思って帰ってもらえたら、嬉しいです」


「楽しいぞー!」


 男の返事が、誰よりも早かった。


 周りの声と重なり、水瀬には誰の言葉か分からなかっただろう。それでも、彼女は後ろの席まで見て、もう一度笑った。


 伴奏が始まる。


 最初の一音で、男の手が止まった。


 ペンライトは胸の前にある。さっきみたいに身を乗り出さず、口を閉じて、水瀬の声を聴いていた。


 俺も前を向いた。


 撮影のときにはそばで話した。画面の中では、こちらへ笑ってくれた。


 けれど、この声を聴くと、初めてライブへ来た日に戻る。


 歌っている水瀬を、見ていたかった。


 最後の音が、伴奏のあとまで伸びた。


 消えるまで、隣の男も俺も、動かなかった。


 *


 終演しても、男はしばらく座っていた。


 タオルを首へ戻し、空になったカップを手に取る。内側には、白い泡の跡が残っていた。


「いやあ……」


 そこまで言って、また息を吐く。


 尾崎が、少し笑った。


「よかったですね」


「よかった。君らも、ありがとうな」


「俺たちは、何も」


「そんなことない。一人で見るより、ずっと楽しかった」


 男が俺へ顔を向けた。


「特に君。ああいう動画、またやるのかな」


「……どうでしょう」


「やるなら、一緒に見てくれ」


 尾崎が今度は、はっきり笑った。


「瀬尾、指名だぞ」


「一人だと、どうしていいか分からん。君がいると、落ち着く」


 あれで落ち着いていたのか。


 けれど、握手でも求めるように差し出された手を見て、俺も笑ってしまった。


「予定が合えば、ぜひ」


 男の手は大きく、温かかった。勢いよく握られたが、痛くはなかった。


「瀬尾くん、というのか」


「はい。瀬尾です」


「じゃあ、連絡先を交換しておこう」


 男はスマートフォンを取り出し、連絡先の画面を開いた。


 俺も画面を開く。表示された名前は、カタカナ二文字の『タカ』だった。


「タカさん、でいいですか」


「ああ。それでいい」


 友達の一覧へ追加すると、すぐに乾杯している猫のスタンプが届いた。


「今度は飯でも食おう。今日は開演前に一杯飲んだきりで、何も食ってないんだ」


「ずっと忙しそうでしたもんね」


「分かったか」


 分かりすぎるくらい、忙しそうだった。


 タカさんは笑い、俺の肩を一度叩いた。


「いい店があるんだよ。安くて、魚がうまい。君、酒は飲める?」


「少しなら」


「十分だ。飲めるぶんでいい」


 カップを捨てようと立ち上がったところで、タカさんのスマートフォンが震えた。


 画面を確認し、通路の奥へ顔を向ける。


「俺は、ちょっと残っていく。君らは?」


「俺は、特典会まで。こはるちゃんに、おめでとうって言って帰ろうと思って」


 尾崎が答えると、タカさんは嬉しそうに頷いた。


「うん。ぜひ、言ってやって」


 俺はスマートフォンをポケットへしまった。


「俺は今日は、このまま帰ります」


「そうか。気をつけてな」


「タカさんも」


 挨拶をすると、タカさんは空いたカップを高く持ち上げた。


「次は乾杯しよう」


「はい」


 タカさんが通路の奥へ行くのを見送り、尾崎がこちらを見た。


「ずいぶん気に入られたな」


「いい人だった」


「途中、すごかったけど」


「昔からのファンなんだろ。水瀬が笑うたび、泣きそうになってたし」


 尾崎は思い出したように笑った。


「お前、相手役のこと聞かれたとき、すごい顔してたぞ」


「……見てたのか」


「横にいたからな」


 俺はスマートフォンへ目を落とした。


 もう一つ、スタンプが届いている。さっきの猫が、今度は両手を大きく振っていた。


「言わなくてよかったかもな」


「何を」


「あの動画、俺も手伝ったって」


 尾崎が笑い、俺も笑った。


「こはるちゃん、感想聞きたいと思うけど」


「あとで送っておく。今日は、たくさん人もいるし」


 尾崎は頷いてから、舞台のほうを見た。


「分かった。じゃあ、またな」


「うん。楽しんで」


 椅子を片づけ始めたスタッフを避け、出口へ向かった。


 外へ出ると、会場の熱が背中から離れた。


 遠くで、まだ拍手が聞こえた気がした。


 *


 客席から戻ってきた男を見つけ、片桐が通路の端へ寄った。


「お父様、お疲れさまでした。小春は特典会の準備中ですので、こちらで少々お待ちください」


「いえいえ。こっちは、座ってただけですから」


 片桐は男の赤い目元を見て、口元を緩めた。


「タオル、お役に立ちましたね」


「ええ。持ってきてよかった」


「次回は、もう一枚あってもいいかもしれません」


 男は真面目に頷いた。


 楽屋の扉が開き、真帆が顔を出した。まだ青い衣装のままで、手には飲みかけの水を持っている。


「あ、お父さん。今日はありがとうございました」


「真帆ちゃん。こっちこそ。楽しかったよ」


「そうですか? よかった。小春、すごく気にしてたので」


「あとでしっかり本人にも伝えてるよ」


 そこまで言ってから、男は少し眉を寄せた。


「……動画は、事前にもう少し教えて欲しかったなぁ」


 真帆が笑った。


「でもいい顔でしたよね?」


「そうだけどさ」


 首のタオルを畳み直しながら、思い出したように顔を上げた。


「そうだ。今日、隣にいた青年が、真帆ちゃんと同級生だったそうだよ」


 真帆はペットボトルへ蓋を戻しかけ、顔を上げた。


「……同級生?」


「瀬尾くん。知ってるかい?」


「はい。同じ高校で」


「やっぱり。いや、よくしてもらってね。話も聞いてくれるし、こはるの歌も、ちゃんと聴いてくれる」


 真帆は、男の顔を見ていた。


「瀬尾くん、いい青年だな」


 男は、もう一度頷いた。


「ああいう子なら、付き合った相手も大事にしてくれそうだ」


 真帆の手が止まった。


 蓋は、まだ半分しか閉まっていなかった。


 男は穏やかに笑っていた。真帆も同じことを思っていると、疑っていない顔だった。


 真帆は親指で蓋の縁をなぞり、ゆっくり閉めた。


「……そうですね」

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― 新着の感想 ―
再会後の感じ見ると喧嘩別れってわけではなさそうだけど、思うところはありそうな感じで付き合ってた頃が気になる…
本人の知らないところで本人の評価がどんどん上がって面倒事に巻き込まれるの好きw
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