進行係
舞台の照明が戻る。
真帆が、マイクを持って中央へ出てきた。
「ここからは、私、三枝真帆が進行します。二人とも、まずはお疲れさま」
水瀬と朝倉さんの間へ立ち、真帆は二人の顔を順に見た。
「自分の動画、大きな画面で見るのはどうだった?」
「……思ってたより、恥ずかしい」
水瀬が頬へ片手を当てる。
「私は、みんな反応が見られるから好き」
朝倉さんはそう答えてから、客席を見渡す。それから少しだけ困ったように眉を下げる。
「……途中までは、すごく好きだった」
客席から笑いが起きた。
「では、そのみなさんの反応を確かめたいと思います」
「待って。もうちょっと、私のよかったところを思い出す時間とかない?」
「ないない。二本とも忘れないうちに聞かないと」
「ねぇ、ちょっと!」
真帆は笑顔で返し、客席へ向き直った。
「もう一度デートしたいと思ったほうへ、拍手をお願いします。まずは、莉央」
前のほうから声が上がった。手が叩かれ、朝倉さんが嬉しそうに身を乗り出す。
「ありがとう! 今の、ちゃんと覚えたからね」
隣の男も頷いていたが、手は膝へ置いたままだった。
朝倉さんは舞台の上で、こっそり息を吐く。
「続いて、小春」
俺が手を上げるより早く、両隣から音がした。
尾崎が拍手する。右隣の男も、肘を脇へ締め、顔の前で力いっぱい手を叩いている。前の列からも、横からも音が重なり、誰かの呼ぶ名前がその中へ埋もれた。
水瀬が、少し驚いた顔で客席を見ていた。
やがて、左目を細めて笑った。
俺も手を叩き続けた。
朝倉さんが両手を上げる。
「はぁ、完敗だぁ」
マイクを上げて言うと、拍手の中へ笑いが混じった。
「それでは、勝者は小春です。おめでとう!」
「ありがとうございます!」
水瀬が深く頭を下げた。朝倉さんも隣で拍手をしていたが、口だけは小さく尖っていた。
「莉央、どうだった?」
「悔しい」
即答だった。
「でも、小春のとき、莉央もちょっと拍手しかけてたよね」
「なんで気付いてるの? 人の手元、見ないで!」
朝倉さんが両手を背中へ回した。マイクまで一緒に隠してしまい、慌てて片手だけ戻す。
真帆は隠されたほうの手へちらりと目をやり、笑いをこらえるように唇を結んだ。朝倉さんが睨むと、今度は少し声を柔らかくする。
「でも、莉央のも、すごくよかったよ。最初に好きなケーキを選ばせてくれるところ、あそこで嬉しくなった」
「……でしょ」
朝倉さんの背筋が、少し戻った。真帆はその変化を眺め、口元だけで小さく笑う。
「いきなり『一口ちょうだい』じゃ駄目なの。先にこっちが譲っておくと、そのあと、ちょっとわがままを言っても聞いてくれるから」
「ああ、じゃあ、私たちも先に好きなのを選ばせてもらえたら、気をつけたほうがいいんだ」
「それは別! 今は動画の話!」
否定しながらも、さっきより声が弾んでいた。
「それに、近づくタイミングも考えてた。ずっと近いと、それが普通になっちゃうじゃん。だから、ここっていうところで」
朝倉さんが一歩、真帆へ寄る。
客席から声が上がり、彼女は満足そうに笑った。
「ね?」
真帆は頷き、朝倉さんを横目で見てから、水瀬へ話を振った。
「じゃあ、小春も同じようにやってみたら、もっとよくなるかな?」
「あ、それは駄目」
水瀬が頷くより先に、朝倉さんが口を挟んだ。その瞬間、真帆の目元が楽しそうに細くなった。
「こはるは、あんまり考えないほうがいいの」
「……そうなの?」
「最後のところ。遠回りしたいって言って、返事待ってたでしょ。あそこで、まだ笑わないのがいいんだって。ちょっと不安そうにしてて、こっちが『いいよ』って言ったら、やっと笑ってくれるの」
朝倉さんは水瀬へ体を向け、空いた手で映像の間を示した。
「しかも、すぐには近づいてこないじゃん。一回、嬉しいのを我慢しようとしてから来るじゃん。あれ、間を数えながらやったら、絶対ああはならないから」
「私、そんなふうにしてた?」
「してた。もう、すっごく」
真帆は最後までうんうんと聞き、朝倉さんが満足そうに息をついたところで、客席へ顔を向けた。
「では、次に見るときは、ただいまの莉央先生の解説を参考にどうぞ」
「……あれ?」
朝倉さんの手が止まった。
「今、私のよかったところを話してたんだけど」
「うん。ずいぶん熱心に教えてくれるから、止めるのも悪いかなって」
真帆は悪びれずに首を傾げた。
「……わざと話、振ったでしょ」
「だって、莉央ならいっぱい答えてくれると思ったんだもん」
朝倉さんが言い返す前に、真帆が続ける。
「相手のいいところも、ちゃんと見てるし」
真帆が彼女へ笑いかけた。
「そういうところも、莉央のいいところだよね」
朝倉さんが、唇を尖らせながら小さく口を開く。
「……褒められても、負けちゃったし」
客席が笑った。水瀬も口元へ手を添えている。
朝倉さんは二人を見比べ、最後に真帆を指した。
「あとで、私の動画の好きなところも、同じくらい言ってもらうから」
「いいよ。まだあるし」
「……あるんだ」
指が、少し下がった。真帆はそこへ目を留めてから、困ったふりをして眉を下げた。
「でも、まだ怒ってるなら、やめとく?」
「やめなくていい!」
「そう? じゃあ、あとでね」
真帆が笑うと、朝倉さんは素直に頷いた。
「その場で嬉しくならないで。莉央」
水瀬に小声で言われ、朝倉さんは今度こそ悔しそうに顔をしかめた。
隣の男が肩を揺らして笑っていた。
「あの子、うまいなあ」
「……はい」
「二人とも、いい顔してる」
真帆は、まだ何か言いたそうな朝倉さんへ頷きながら、水瀬にも話を向けていた。一人が答えているあいだも、もう一人を置いたままにしない。
昔、教室で一緒に話していた友達が帰りかけると、真帆はいつも、その人にしか答えられないことを一つ聞いた。
貸した漫画の感想とか、その人が部活で出る試合の日とか。
帰るのを引き止めたいわけではなく、最後にもう一度、その人とも話したかったのだと、付き合ってから分かった。
こういうところは、変わらない。
そう思ったところで、真帆が次の質問をした。
「小春本人は? 一番好きな場面、ある?」
「……最後、かな」
俺は膝の上で、ペンライトを持ち直した。
「遠回りしようって誘うところ?」
「うん。あそこまで来たら、もう終わっちゃうんだなって思って。ちょっと寂しかったから」
水瀬はそこまで言って、マイクへ目を落とした。
「……撮影が」
客席の前のほうから声が上がった。
真帆は水瀬の顔を見て、それから、こちら側へ向き直った。
「三分、短かったよね。見てる私たちも、もう少し一緒にいたくなる動画でした」
拍手が起きる。
水瀬はほっとしたように笑い、ありがとう、と頭を下げた。
俺は、一度だけ息を吐いた。
あの日の水瀬の顔も、自分が何を答えたのかも、よく覚えている。
その話を、真帆が聞いている。
俺の声は流れなかった。名前も出ていない。それでも、自分の言った言葉が画面へ出るたび、あの日のやり取りを真帆の前で繰り返しているようだった。撮影していたときより、ずっと背中が落ち着かない。
右隣で、低い声がした。
「……相手は、誰なんだ」
危うく、そちらを見るところだった。
男は舞台へ顔を向けたまま、膝の上でタオルを握っていた。
「あんな顔をさせて。あんなことを言わせて」
握ったタオルが、ぎゅっとねじれる。
「君、腹が立たないのか」
「……見る人が、相手になる動画ですから」
「そうじゃなくて、実際にいたほうだよ」
左隣で、尾崎が小さく咳き込んだ。
俺は舞台を向いたまま、なるべく普通に答えた。
「でも、楽しそうでしたよね」
「……それは」
「最後も、あんなに笑ってて」
男が、唇を結んだ。
舞台では水瀬が、客席へ小さく手を振っていた。真帆に何か言われ、恥ずかしそうに笑う。
男の肩から、少し力が抜けた。
「そこなんだよなあ……」
タオルがほどかれ、また顔へ上がる。
怒っていたはずなのに、目元を拭く手つきは優しかった。
「あんな顔、するようになったんだなあ」
応援してきた時間が長いと、嬉しいだけでは済まないこともあるのかもしれない。
俺は、余計なことを言わずに前を向いた。
尾崎がこちらを見ている気がしたが、今はそちらも見られなかった。
*
「衣装は、二人とも自分で決めたんだよね」
白い照明の下、真帆を真ん中に、左には黄色い衣装の水瀬、右には朝倉さんが立っていた。動画を見ていた椅子は、三人の背後にある。体は客席へ向けたまま、話す相手のほうへ少しずつ顔を寄せ合っている。
話が服のことへ移り、ようやく少し、肩の力が抜けた。
「莉央のは、最初から決まってた?」
「大体は。座ってる時間が長いから、上が寂しくならないようにしようと思って。襟のところにちょっと飾りがあると、顔も明るく見えるし」
「そこまで考えてたんだ」
水瀬が感心した声を出す。
「こはるは?」
「私は、ワンピースにしたいなって思ってて。それで、白石紗月ちゃんが雑誌で着てたのが、すごくかわいかったから。似た感じのを探したの」
「今月号の、窓際のやつ?」
朝倉さんの返事が速かった。真帆の向こうにいる水瀬へ身を乗り出す。真帆が半歩後ろへ引くと、二人はその前で顔を見合わせた。
「そう。白いカーディガンを羽織ってる」
「あれ、いいよね! 私も欲しかった!」
さっきまでの悔しそうな顔が、一瞬で消えた。
「でも、同じのはなかったんだ」
「発売日に見たけど、もうなかったよ。あのページ、出る前に告知に使われてたから。私、それで絶対買おうって思ってたのに」
「莉央、詳しいね」
「好きだから。出てる雑誌、毎回買ってる」
初めて聞く名前だった。
どんな人なのか尾崎へ聞こうとしたが、舞台の上で朝倉さんが話し続けていたので、口を閉じた。
「今月のもよかったけど、先月の表紙、見た? いつも笑ってるのに、あれだけ全然違う顔してて」
「見た。髪、短く見えるように上げてたやつでしょ」
真帆が答えると、朝倉さんは大きく頷いた。
「そう! かっこよかった。ああいうふうに撮ってもらいたいんだけど、私がやると、普通に機嫌が悪そうになるんだよね」
「ちょっと、やってみて」
水瀬が、三人の前の空いているところへ手を向けた。朝倉さんは少し照れたように笑ってから、一歩前へ出る。マイクを胸元へ下ろし、空いた手を腰へ当てた。
片足を斜めに出し、顎を少し下げて、客席へ視線を向ける。水瀬は左後ろからその顔を覗き込み、真帆はその隣で口元に笑みを浮かべていた。
さっきまでの愛嬌が消えると、整った顔立ちがはっきりした。会場から声が上がり、朝倉さんの口元が動きかける。
「かわいい」
「違うの、こはる。今、かっこいいのをやってるから」
戻ってきた声に、客席が笑った。
朝倉さんも耐えきれずに笑い、手を腰から外した。
「こうなるんだってば」
「目を細めすぎないほうが、あの写真に近いかも」
真帆が朝倉さんの横へ並び、自分の目元を指してみせる。
「あと、ずっと力を入れておくと、莉央が先に笑っちゃうから。最後にちょっとだけ、こっちを見る感じで」
「……へえ」
朝倉さんが、真帆へ向き直った。
何かを思いついた顔だった。
「じゃあ、真帆がやってみてよ」
「私?」
「そんなに分かるなら。見たいよね、みんなも」
客席へマイクが向けられた。
声が返り、拍手が起こる。朝倉さんは満足そうに頷いてから、真帆へ笑いかけた。
「ほら。さっきまで私にばっかり話させてたんだから、真帆も何かやらないと」
「分かった。ちょっと持ってて」
真帆が、自分のマイクを差し出した。
朝倉さんが反射的に受け取る。両手に一本ずつマイクを持ったところで、あれ、と小さく眉を動かした。
真帆が二人より一歩前へ出た。朝倉さんはマイクを持ち直しながら右へよけ、水瀬も左から少し下がる。二人の間に空いた場所で、青い衣装の真帆だけが、まっすぐ客席と向き合った。
客席の拍手が、静まっていく。前の列で高く上がっていたペンライトも、胸の高さまで下りた。
まず、笑みが薄くなった。
口元へ少しだけ笑みを残し、真帆は顔の横へ手を上げた。髪を耳に掛けると、隠れていた頬から顎への輪郭が、照明の下にはっきり現れる。指が離れたあとも、こちらを見なかった。
肩を引き、重心を片足へ移す。
青い衣装の裾が、動いて止まった。
その姿勢のまま、ゆっくり顔を上げる。
目だけが、少し遅れて客席を向いた。
顔はわずかに横を向いたまま、瞳が正面を捉える。目尻には柔らかな笑みが残っているのに、その視線には迷いがなかった。
軽く閉じた唇の、片方の口角だけが、ほんの少し持ち上がった。照明を受けた唇に艶が浮かぶ。何か言いかけて、その言葉をこちらには教えずに楽しんでいるような顔だった。
見ている側の俺たちが、どんな顔をしているのか。真帆はそれを全部知っていて、あえて何も言わずに待っている。そんなふうに見えた。
さっきまで隣で笑っていた尾崎も、今は声を出していなかった。
きれいだ、と思った。
胸のあたりが詰まり、息を吸うのが遅れた。
見たことがあるつもりの顔だった。笑っているところも、黙っているところも、近くで見てきた。
それでも、こんなふうに立つ真帆を、俺は知らなかった。
数秒だった。
真帆が肩の力を抜いた。両方の口角が上がり、目元もくしゃりと緩む。いつもの親しみやすい笑顔に戻った途端、ようやく俺も息を吐けた。
会場に声が戻った。拍手の中で、朝倉さんだけが両手にマイクを持ったまま、真帆を見ていた。
真帆は片方を受け取り、口元へ上げた。
「こういう感じ?」
「……できるなら、先に言ってよ」
真帆は顔を少し傾け、朝倉さんの目を覗き込んだ。
「私が困るところ、見たかった?」
「……ちょっと」
「ふふ。残念でした」
嬉しそうに笑われ、朝倉さんが口を結ぶ。
何か言い返そうとして真帆を見て、少し迷ってから、マイクを上げた。
「もう一回」
「え?」
「今度は、ちゃんと見るから」
「真似するつもりでしょ」
「そう!お願い!」
真帆はすぐに答えず、考えるように人差し指を顎へ添えた。朝倉さんが返事を待っていると、やがて目を細める。
「そんなにお願いされたら、断れないな。あとで一緒にやろっか」
朝倉さんは頷きかけ、途中で止まった。
「……なんか、私ばっかりお願いしてない?」
「私の動画も褒めて、ポーズも教えてって?」
水瀬が指を二本立てる。
「こはるまで、まとめなくていい!」
また笑いが起きた。
俺も笑おうとして、一拍遅れた。
ペンライトを握る手に、力が入っている。指を少し緩めると、隣の男が顔を寄せてきた。
「あの青い子も、好きなのか」
「……え?」
「よく見てるから」
俺は、舞台へ目を戻した。
「高校の、同級生なんです」
「そうなのか」
男が、真帆のほうを見る。
「そりゃ、嬉しいな。知ってる子が、あんなふうに頑張ってたら」
すぐには、返事ができなかった。
真帆が二人の間へ戻り、水瀬へ続きを促している。朝倉さんはまだ隣で何か言っていたが、さっきより二人の距離が近くなっていた。
俺は、もう一度息を吸った。
「……そうですね」
嬉しい。
それも、確かにあった。
今、隣で言われるまで、その言葉を思い浮かべていなかった。
「莉央、今日は本当にありがとう。皆さん、莉央のライブにも、ぜひ遊びに行ってみてくださいね」
真帆の声で、舞台へ意識が戻る。
朝倉さんが、客席へ向き直る。
「ぜひ来てね。歌ってるところも、もっと見てほしいから。今日だけじゃ、まだ全然足りないでしょ?」
明るい声に、前の席から返事があった。
朝倉さんが笑う。
俺も頷いた。あのとき誘ってもらったライブへ、やっぱり一度、行ってみたい。
「みなさんには、今日の主役から、もう一曲届けたいと思います」
朝倉さんが水瀬へ、小さく何か言った。水瀬が笑って頷く。
二人に手を振って送り出され、水瀬は舞台の中央へ進んだ。
隣で、ペンライトが黄色く光る。
俺も手を上げた。
水瀬は客席を見渡し、マイクを両手で包んだ。
「今日は、来てくれて、本当にありがとうございます。楽しかったなって思って帰ってもらえたら、嬉しいです」
「楽しいぞー!」
男の返事が、誰よりも早かった。
周りの声と重なり、水瀬には誰の言葉か分からなかっただろう。それでも、彼女は後ろの席まで見て、もう一度笑った。
伴奏が始まる。
最初の一音で、男の手が止まった。
ペンライトは胸の前にある。さっきみたいに身を乗り出さず、口を閉じて、水瀬の声を聴いていた。
俺も前を向いた。
撮影のときにはそばで話した。画面の中では、こちらへ笑ってくれた。
けれど、この声を聴くと、初めてライブへ来た日に戻る。
歌っている水瀬を、見ていたかった。
最後の音が、伴奏のあとまで伸びた。
消えるまで、隣の男も俺も、動かなかった。
*
終演しても、男はしばらく座っていた。
タオルを首へ戻し、空になったカップを手に取る。内側には、白い泡の跡が残っていた。
「いやあ……」
そこまで言って、また息を吐く。
尾崎が、少し笑った。
「よかったですね」
「よかった。君らも、ありがとうな」
「俺たちは、何も」
「そんなことない。一人で見るより、ずっと楽しかった」
男が俺へ顔を向けた。
「特に君。ああいう動画、またやるのかな」
「……どうでしょう」
「やるなら、一緒に見てくれ」
尾崎が今度は、はっきり笑った。
「瀬尾、指名だぞ」
「一人だと、どうしていいか分からん。君がいると、落ち着く」
あれで落ち着いていたのか。
けれど、握手でも求めるように差し出された手を見て、俺も笑ってしまった。
「予定が合えば、ぜひ」
男の手は大きく、温かかった。勢いよく握られたが、痛くはなかった。
「瀬尾くん、というのか」
「はい。瀬尾です」
「じゃあ、連絡先を交換しておこう」
男はスマートフォンを取り出し、連絡先の画面を開いた。
俺も画面を開く。表示された名前は、カタカナ二文字の『タカ』だった。
「タカさん、でいいですか」
「ああ。それでいい」
友達の一覧へ追加すると、すぐに乾杯している猫のスタンプが届いた。
「今度は飯でも食おう。今日は開演前に一杯飲んだきりで、何も食ってないんだ」
「ずっと忙しそうでしたもんね」
「分かったか」
分かりすぎるくらい、忙しそうだった。
タカさんは笑い、俺の肩を一度叩いた。
「いい店があるんだよ。安くて、魚がうまい。君、酒は飲める?」
「少しなら」
「十分だ。飲めるぶんでいい」
カップを捨てようと立ち上がったところで、タカさんのスマートフォンが震えた。
画面を確認し、通路の奥へ顔を向ける。
「俺は、ちょっと残っていく。君らは?」
「俺は、特典会まで。こはるちゃんに、おめでとうって言って帰ろうと思って」
尾崎が答えると、タカさんは嬉しそうに頷いた。
「うん。ぜひ、言ってやって」
俺はスマートフォンをポケットへしまった。
「俺は今日は、このまま帰ります」
「そうか。気をつけてな」
「タカさんも」
挨拶をすると、タカさんは空いたカップを高く持ち上げた。
「次は乾杯しよう」
「はい」
タカさんが通路の奥へ行くのを見送り、尾崎がこちらを見た。
「ずいぶん気に入られたな」
「いい人だった」
「途中、すごかったけど」
「昔からのファンなんだろ。水瀬が笑うたび、泣きそうになってたし」
尾崎は思い出したように笑った。
「お前、相手役のこと聞かれたとき、すごい顔してたぞ」
「……見てたのか」
「横にいたからな」
俺はスマートフォンへ目を落とした。
もう一つ、スタンプが届いている。さっきの猫が、今度は両手を大きく振っていた。
「言わなくてよかったかもな」
「何を」
「あの動画、俺も手伝ったって」
尾崎が笑い、俺も笑った。
「こはるちゃん、感想聞きたいと思うけど」
「あとで送っておく。今日は、たくさん人もいるし」
尾崎は頷いてから、舞台のほうを見た。
「分かった。じゃあ、またな」
「うん。楽しんで」
椅子を片づけ始めたスタッフを避け、出口へ向かった。
外へ出ると、会場の熱が背中から離れた。
遠くで、まだ拍手が聞こえた気がした。
*
客席から戻ってきた男を見つけ、片桐が通路の端へ寄った。
「お父様、お疲れさまでした。小春は特典会の準備中ですので、こちらで少々お待ちください」
「いえいえ。こっちは、座ってただけですから」
片桐は男の赤い目元を見て、口元を緩めた。
「タオル、お役に立ちましたね」
「ええ。持ってきてよかった」
「次回は、もう一枚あってもいいかもしれません」
男は真面目に頷いた。
楽屋の扉が開き、真帆が顔を出した。まだ青い衣装のままで、手には飲みかけの水を持っている。
「あ、お父さん。今日はありがとうございました」
「真帆ちゃん。こっちこそ。楽しかったよ」
「そうですか? よかった。小春、すごく気にしてたので」
「あとでしっかり本人にも伝えてるよ」
そこまで言ってから、男は少し眉を寄せた。
「……動画は、事前にもう少し教えて欲しかったなぁ」
真帆が笑った。
「でもいい顔でしたよね?」
「そうだけどさ」
首のタオルを畳み直しながら、思い出したように顔を上げた。
「そうだ。今日、隣にいた青年が、真帆ちゃんと同級生だったそうだよ」
真帆はペットボトルへ蓋を戻しかけ、顔を上げた。
「……同級生?」
「瀬尾くん。知ってるかい?」
「はい。同じ高校で」
「やっぱり。いや、よくしてもらってね。話も聞いてくれるし、こはるの歌も、ちゃんと聴いてくれる」
真帆は、男の顔を見ていた。
「瀬尾くん、いい青年だな」
男は、もう一度頷いた。
「ああいう子なら、付き合った相手も大事にしてくれそうだ」
真帆の手が止まった。
蓋は、まだ半分しか閉まっていなかった。
男は穏やかに笑っていた。真帆も同じことを思っていると、疑っていない顔だった。
真帆は親指で蓋の縁をなぞり、ゆっくり閉めた。
「……そうですね」




