初参加
「先輩。結局、どうだったんですか」
休憩室で弁当の蓋を閉めたところへ、藤崎がやってきた。
向かいの椅子にバッグを置き、紙コップを持って座る。昼休みの半ばで、窓際の席には俺たちしかいなかった。電子レンジの前で、別の部署の人が温め終わった容器を取り出している。
「午前中の確認なら、返事来たよ。あの内容で大丈夫だって」
「そっちは私にも届いてます。四人でごはんに行くって言ってたでしょう」
「ああ。ひばりか」
「どうなったか教えてくださいって、お願いしましたよね」
忘れていた。
俺が箸をしまって向き直ると、藤崎はコップを両手で包んだ。
「その顔なら、そんなに悪いことにはならなかったんですね」
「うん。楽しかったよ。店も昔のままだったし」
「真帆さんとも、普通に話せました?」
「話せた。昔のこと、向こうにばっかり答えさせないようにしたし」
藤崎の口元が緩んだ。
「ちゃんと覚えてたんですね」
「助かったよ。何も聞いてなかったら、もっと黙ってたと思う」
「そうでしょう」
少しだけ顎が上がった。
「相手だって、先輩がどう思ってるか気になるんですから。先輩が普通に話してくれれば、それだけで安心できるんです」
「うん。尾崎もいてくれたしな」
「ああ、お友達。事情は話したんですか?」
「帰りに。俺と真帆が付き合ってたって」
「帰り……まあ、話したならよかったです」
藤崎は頷いてから、コーヒーをひと口飲んだ。
「また四人で行くことになってるんだ」
「いいじゃないですか。前より気楽に行けそうですね」
「そうだな。そのあとも、水瀬とは撮影で会ったし」
「撮影?」
コップが、テーブルへ着く手前で止まった。
「生誕イベントで流す動画を撮ったんだよ。別のグループの子と、どっちの動画がいいかって対決することになって」
「先輩、そういうお手伝いもしてるんですか」
「そのときだけ。相手がいたほうが、水瀬も話しやすいって」
「インタビューみたいな?」
「いや。デートしてるところを撮る動画で、俺は彼氏役」
紙コップの底が、こつんと鳴った。
藤崎は手を離さなかった。
「……何役ですか?」
「彼氏。画面には映らないんだけど」
「そこ、今は大丈夫です。えっと、先輩が、水瀬さんの彼氏になって?」
「役な。カメラの横に立って、話しかけるだけ」
「どんなことを」
「待ち合わせして、服を褒めたり。喫茶店で一緒に食べたり」
「一緒に食べるんですか」
「そこは座るから」
「立つか座るかの確認はしてないです」
藤崎が椅子を寄せた。さっきまでコップを包んでいた両手が、テーブルの上で組み合わされる。
「待ってください。先輩が彼氏役をするのは、水瀬さんから頼まれたんですか」
「うん。知ってる相手のほうが自然に喋れるからって。撮る人からも説明を聞いて、俺でよければって」
「……そうですか」
「初めは難しかったけど、途中からは普通に話せたよ」
「普通に、って。彼氏としてですよね?」
「まあ、そういう設定だから」
藤崎は一度、目を閉じた。
俺も初めは、役に立つか心配だった。けれど、撮影が進むにつれて、水瀬もよく笑ってくれるようになった。
「水瀬の動画、勝ったし」
「それは、よかったですね」
「だろ」
「はい。動画は」
最後の二文字だけ、少し強かった。
「先輩、服を褒めるとき、何て言ったんですか」
「似合うな、とか。見つけたとき、かわいいなって思ったから、そのまま言った」
「そのまま」
「そのほうが言いやすかったんだよ。水瀬も喜んでくれたし」
藤崎の口が開いた。
しばらく待ったが、続きは来なかった。
「……藤崎?」
「聞いてます。今の、水瀬さんも喜んでくれたってところまで、ちゃんと聞いてます」
「そうか」
「そこで安心しないでください」
なぜだ。
藤崎は額へ指を当て、ゆっくり息を吐いた。
「水瀬さん、それを先輩から言ってもらって嬉しかったんじゃないですか」
「うん。衣装、自分で選んだって言ってたから」
「……衣装も、あるでしょうけど」
小さな声だった。
それから藤崎は、何かを立て直すように背筋を伸ばした。
「分かりました。撮影は、ちゃんとできたんですね。イベントでも好評だったと」
「うん。上映したあとに、撮影の話をする時間もあってさ」
「そういうの、ありますよね」
「進行もうまくやってくれて、助かったよ」
「慣れてる人がやってくれたんですね」
「真帆が」
藤崎が動かなくなった。
入り口のほうで、電子レンジが鳴った。
「……真帆さん?」
「うん」
「今の、別の真帆さんではないですよね」
「ほかにいたっけ」
「いないから聞いてるんです!」
藤崎は声を出した直後、肩をすぼめた。入り口を確かめてから、テーブルへ身を寄せてくる。
「先輩の元カノが、先輩が彼氏役をした動画について、水瀬さんに話を聞いたんですか?」
「そうなるな」
「先輩は、そのときどこに」
「客席」
「いたんですか!」
「見に行ったからな」
藤崎が、両手で口元を覆った。
俺も、始まる前は似たようなことを考えていた。
「気まずいのは気まずかったよ。でも、真帆はちゃんと進めてくれたし、客席も笑ってたから」
「先輩が座ってるところで、撮影の話を……」
「相手役の名前は出さなかったよ。動画も、男の返事は字幕になってて。俺の声も入ってなかった」
「字幕になったら、先輩が言ったことまでなくなるわけじゃないでしょう」
それは、そうだった。
俺が頷くと、藤崎は組んだ指をほどき、もう一度組み直した。
「水瀬さんは、真帆さんとのこと、まだ知らないんですよね」
「うん」
「ああ……」
さっきとは違う意味で、目を閉じられた。
「食事のあと、何もなかったのかと思ってました」
「何もないとは言ってないだろ」
「そうですけど。そんな、彼氏役から元カノの進行まで、まとめて出てくるとは思わないじゃないですか」
藤崎はコップを持ち上げたが、飲まずに戻した。何か聞こうとして俺を見て、そのまま口を結ぶ。
「次のごはんも、本当に大丈夫なんですか」
「四人だし。尾崎も来てくれるから」
「先輩、そのお友達がいると、ずいぶん安心するんですね」
「真帆とも普通に話せるし、気も利くんだよ。俺が最初にライブへ行ったときも、いろいろ教えてくれて」
藤崎は、ようやく少し肩を下げた。
「そういう方なら、助かりますね」
「今度のライブにも来るよ」
「次は、いつなんですか」
「今週末。今話した、動画で水瀬と対決した子のグループ」
スマホを出し、莉央から届いていた告知を開いた。
藤崎が画面を覗く。
「この子ですか?」
「朝倉莉央さん。水瀬の生誕にも出てくれたんだけど、客席まで楽しそうになるんだ。水瀬も、一緒に見に行く」
「……先輩、いつの間にか、いろんなところへ行くようになりましたね」
「自分でもそう思う」
初めて尾崎に誘われたときには、次のライブへ行くことさえ考えていなかった。
藤崎は、告知の下に書かれた出演時間を見ていた。
「こういうライブって、曲を知らなくても楽しめますか」
「俺は楽しかったよ。藤崎も来る?」
「私も?」
「興味があるなら。尾崎もいるし、分からないことは聞ける」
藤崎はスマホから顔を上げた。
「また尾崎さん」
「頼りになるから」
「……そうですか」
少し考えてから、彼女は自分のスマホを取り出した。
「その日、空いてます。せっかくだし、行ってみようかな」
「じゃあ、案内送る」
「お願いします。あ、見る場所とか、何か決まりがあるなら先に教えてくださいね」
「うん。尾崎にも――」
「先輩も教えてください」
言われて、笑ってしまった。
確かに、そろそろ俺も誰かを案内できていい頃だった。
*
ライブ当日、会場の階段を下りかけたところで、瀬尾先輩が片手を上げた。
「尾崎」
入口脇に立っていた男が、スマホから顔を上げる。肩に小さなバッグを掛け、もう片方の手には畳んだ上着を持っていた。
藤崎は瀬尾先輩の半歩後ろで足を止めた。
「会社の後輩の藤崎。こっちが、話してた尾崎」
「初めまして。藤崎です。今日はよろしくお願いします」
「尾崎です。こちらこそ。初めてなんですよね」
「はい。先輩から、尾崎さんに聞けば大丈夫だって」
尾崎さんが瀬尾先輩を見た。
「お前、何て説明したんだよ」
「分からないことがあったら聞けるって」
「お前も別に教えられるだろ」
藤崎は、こらえきれずに笑った。
「私も言いました、それ」
「ですよね」
二人の間で、初めて目が合った。
瀬尾先輩は少し困ったように笑い、スマホを確認してから階段の上を見た。
「水瀬、着いたって。迎えに行ってくる」
「分かった」
尾崎さんが頷き、入口を避けるように壁際へ寄った。藤崎もその隣へ移る。
開いた扉の向こうから低い音楽が流れていた。階段を下りてきた客が、受付で画面を見せて中へ入っていく。
「中、立って見るんですけど、大丈夫ですか」
「はい。靴は歩きやすいのにしてきました」
「よかった。今日は後ろのほうでも見やすいと思います。前に行ったほうが楽しいってわけでもないので」
藤崎が受付の先へ目を向けると、尾崎さんはそちらを指した。
「荷物を減らしたかったら、入って右にロッカーがあります」
「ありがとうございます。どこに何があるか分からないの、ちょっと不安だったので」
「俺も最初はそうでした。分からなかったら、そのとき聞いてください」
一度に何もかも覚えなくてよいらしい。
藤崎が頷いたところで、階段から足音がした。
「お待たせ。もう集まってたんだね」
瀬尾先輩と並んで、小柄な女性が下りてきた。薄い色のブラウスに、肩から小さなバッグを掛けている。瀬尾先輩に教えてもらって見た写真より、ずっと近くで目が合った。
この人が、水瀬さん。
あの相談の相手が目の前にいると思うと、藤崎まで背筋が伸びた。
「会社の後輩の藤崎さん」
瀬尾先輩に紹介され、藤崎が頭を下げると、水瀬さんは一歩近づいた。
「初めまして。水瀬です。今日は一緒に見られて嬉しいです」
「藤崎です。こちらこそ、よろしくお願いします」
「瀬尾くんから、来てくれるって聞いてたんだ。こういうライブは初めて?」
「はい。さっき尾崎さんに、いろいろ教えてもらってました」
藤崎が隣を見ると、尾崎さんはいつの間にか上着を畳み直していた。バッグの紐まで、肩の真ん中に収まっている。
「尾崎くん、案内してくれてたんだね」
「はい。あ、でも、場所とか、そのくらいで」
「ありがとう。私もこの会場、客席に入るのは初めてなんだ」
「そうなんですか」
返事が速い。
さっき自分には、俺も最初は、と気軽に話していた人だった。
水瀬さんが瀬尾先輩へ顔を向ける。
「送った曲、聴けた?」
「聴いた。二曲目に送ってくれたやつ、よかった」
「あれ、私も好き。今日やってくれるといいな」
笑い合う二人を見て、藤崎は視線を戻した。
尾崎さんは今度、チケットの画面を開いていた。入口はすぐそこなのに、少し離れた場所からでも見せられそうな持ち方になっている。
「……緊張するんですね」
藤崎が小さく言うと、尾崎さんは顔を向けた。
「分かります?」
「さっき、私にはもっと普通に話してくれたので」
「すみません。話しにくかったですか」
「逆です。そっちのほうが話しやすかったです」
尾崎さんは少し笑った。その顔は、さっきのものに戻っていた。
「じゃあ、藤崎さんには普通にします」
「はい。ぜひ」
入口へ進みながら、藤崎は前を歩く瀬尾先輩を見た。
水瀬さんが話しかけるたび、瀬尾先輩はごく普通に返事をしている。
これをいつも隣で見ているのかと思うと、尾崎さんには、すでに少し親しみが湧いた。
*
フロアの後方には、床が一段高くなった場所があった。
藤崎たちは、その端に並んだ。左隣に尾崎さん、その向こうに瀬尾先輩と水瀬さんがいる。前の人の肩越しに、まだ誰もいないステージと、奥に並ぶ照明が見えた。
客席の明かりが落ちた。
思ったより深い暗さだった。藤崎が一度足元を見た瞬間、音楽と一緒に正面の照明が点いた。
明るい場所へ、女の子たちが駆け出してくる。
告知で見た莉央さんを見つけるより先に、その声が聞こえた。
「後ろまで、準備できてる?」
前から声が返った。隣で尾崎さんも手を上げる。
莉央さんは客席の奥を見たまま、口元へ手を添えた。
「んー? 後ろ、まだ余裕ありそうだなあ」
照明の中で、目が細くなる。返事を待っている顔だった。
藤崎も、つられて手を上げた。
「よし! そのままいくよ!」
莉央さんの腕が高く伸びた。音が一つ強く鳴り、並んだ足が同時に動き出す。
最初は、誰を見ればいいのか迷った。
中央で歌っていた子が横へ移り、その後ろから莉央さんが出てくる。声が重なるところで、隣のメンバーと顔を合わせて笑う。振り付けの途中なのに、その笑顔だけは、今ここで楽しくなって出たものに見えた。
サビに入ると、客席で腕が揃った。
藤崎は半拍遅れて手を動かし、すぐに下ろしかけた。
「合ってなくても、大丈夫です」
耳元ではなく、隣から届く程度の声だった。
尾崎さんは正面を向いたまま、拍子に合わせて手を叩いている。
「俺も、この曲はまだ覚えてないので」
そう言った直後、尾崎さんが上げた手と、前の人の手が逆に動いた。
藤崎が笑うと、尾崎さんも少し笑った。
それからは、間違えても気にならなくなった。
二曲目の終わりで、莉央さんが片手を腰に当て、肩で息を整えた。
「今日は初めて来てくれた人もいるよね」
何本か手が上がる。藤崎も胸の高さで、そっと手を出した。
「ありがとう。今日来てよかったって、思ってもらえるように頑張るから」
莉央さんが笑った。
「いつも来てくれる人には?」
隣のメンバーに聞かれ、莉央さんはすぐに振り向く。
「もちろん! みんなにも!」
「初めての人ばっかり見てない?」
「見てるよ、みんなも! 今も見てたじゃん!」
客席から笑いと声が返った。
莉央さんはそちらを指し、今のは聞こえた、と言って頬を膨らませる。けれど、名前を呼ばれると、すぐに口元が緩んだ。
「……うん。今日も来てくれて、ありがとう」
その一言は、さっきより少し素直な声だった。
藤崎の隣で、尾崎さんが楽しそうに笑っている。
ステージの彼女も、近くにいる客も、同じやり取りを楽しみに来ているのだと分かった。
次の曲は、出だしの手拍子がなく、歌声から始まった。
莉央さんが中央へ立つ。ひとつ前までの笑みを残したまま、マイクを口元へ寄せる。伸ばした音の終わりで目を上げると、隣のメンバーが続きを歌い出した。
さっきの冗談の声とは違った。
藤崎は手を止め、その声を追った。
重なるところでは二人を見比べ、莉央さんだけになると、またそちらを見た。誰を見たらよいかは、もう考えていなかった。
曲が終わってから、尾崎さんへ顔を寄せた。
「今の曲、何ていうんですか」
「あとで曲名、送りますね。俺もあれ、好きです」
押しつけるような説明はなく、それだけだった。
最後の曲では、莉央さんがステージの端まで来た。
こちらの一段高い場所へ目を向け、胸の前で手を振る。藤崎が小さく振り返すと、その目元が笑った気がした。
隣の尾崎さんも手を振っている。
自分に向けられたのか、そのあたり全体だったのかは分からない。
それでも、藤崎は曲が終わるまで手を下ろさなかった。
*
「思ってたより、ずっと近いんですね」
ロビーへ戻ると、藤崎はまだ耳に残っている音を聞きながら言った。
尾崎さんは上着を腕へ掛け直し、頷いた。
「表情まで見えるでしょう」
「はい。最初は大きい音にびっくりしましたけど、途中から全然気にならなくなりました」
「俺も初めてのとき、そんな感じでした」
少し離れたところで、スタッフと話していた水瀬さんが振り向いた。
「莉央に挨拶してきてもいい? 瀬尾くんにも、感想聞きたいって」
「うん」
瀬尾先輩が頷き、藤崎たちのほうを見る。
「ちょっと待っててもらっていい?」
「どうぞ。私、飲み物をもらってきます」
水瀬さんが、待っててね、と手を振った。
二人がスタッフに案内されて通路へ入っていくのを見送り、藤崎はドリンクカウンターへ向かった。
烏龍茶を受け取ると、尾崎さんもちょうど炭酸水のカップを手にしていた。
ロビーの片側では、物販の準備が始まっている。二人は列のでき始めた場所を避け、反対側の壁に沿った細いカウンターへ移った。フロアへ戻る扉からは、まだ客の話し声が流れていた。
「さっきの曲、これです」
尾崎さんがスマホを差し出した。藤崎は曲名を自分の画面に打ち込み、あとで聴けるように保存する。
「ありがとうございます。今日は、いろいろ教えてもらって」
「楽しめたならよかったです」
「先輩が、頼りになるって言ってたの、分かりました」
尾崎さんは少し照れたように、カップを置いた。
「あいつ、そんなことまで言ってたんですか」
「はい。何を聞いても、尾崎がいるからって」
「……ああ」
返事が、少しだけ沈んだ。
藤崎が顔を見ると、尾崎さんはスマホを消し、裏向きに置いた。
「そういえば、俺も聞いてました。藤崎さんのこと」
「私の?」
「会社に、相談するとちゃんと考えてくれる後輩がいるって。自分が気づかなかったところを、はっきり言ってくれるから助かったって」
藤崎は、ストローから口を離した。
「……そんなこと、言ってたんですか」
「はい。今、話してて思い出しました」
仕事の話ではないだろう。あの休憩室で、何度も声を上げてしまったときのことだ。
もう少しうまく話せたはずだと、あとから思っていた。
けれど、瀬尾先輩には、そういうふうに伝わっていたらしい。
藤崎はカップを置き、乱れてもいない袖口を直した。
「いつも仕事では教えてもらってますから。そのくらいは、私も」
「……少し、相談してもいいですか」
尾崎さんが聞いた。
さっきまでライブのことを教えてくれた人が、今度は返事を待っている。
「はい。もちろんです」
藤崎は尾崎さんへ体を向けた。
「私に分かることでしたら」




