失念
店内へ移る前に、朝倉さんは次の仕事へ向かうことになった。
鞄を手にしたところで、彼女は高野さんのそばへ戻った。
「最後に、撮影終わったところまでの映像見てもいいですか」
差し出された画面を覗く。水瀬が服を褒められて笑ったところで、朝倉さんの口元も少し緩んだ。
「……かわいい」
すぐには、次の言葉が続かなかった。画面が止まっても、まだ覗き込んでいる。
「莉央?」
水瀬に呼ばれて、ようやく顔を上げた。
「ちょっと。途中で何回も止まったって言ってたじゃん」
「うん。止まったよ」
「じゃあ、なんでこんないい顔、撮れてるの」
水瀬が返事に困ったように笑うと、朝倉さんは両手で自分の頬を挟んだ。
「ああもう、その顔! ずるい!」
「ずるいって言われても」
朝倉さんは口を尖らせたまま、もう一度画面へ目を落とした。
「……高野さん、ここ使うんですよね」
「ええ。候補にしています」
「ですよね。私でも使う」
小さく息を吐いてから、ぱっと顔を上げる。
「でも、私のもよかったですよね?」
「はい。莉央さんのほうも、いい場面が撮れていますよ」
「……ですよね」
肩が少し下がった。それから、確かめたところを見られたのが気になったのか、すぐに水瀬へ向き直る。
「言っとくけど、絶対負けないからね!」
「うん。私も」
「その余裕、当日まで覚えててよ」
「さっきまで、莉央のほうが余裕だったよ?」
「今もある!」
言ってから、もう一度画面を見そうになって、やめた。
「……あとで、続きも送ってください」
片桐さんへ頼む声は、さっきより小さかった。
彼女が出ていくと、店の中が少し静かになった。
窓際の二人掛けの席へ、水瀬が座る。向かい側にカメラが置かれ、俺は高野さんの横へ椅子を寄せた。
テーブルは、二人でメニューを広げれば埋まるくらいの大きさだった。窓からの光が水瀬の髪の端を明るくしている。椅子を止めると、彼女が上体を少し引いた。
「さっきより、ちょっと近いね」
「このくらいでいいんですよね」
高野さんに確かめると、大丈夫ですと返ってきた。
「……うん。そうだね」
水瀬はメニューを開いた。
服の場面は、続きを決めてから撮り直したら最後までいけた。さっきの返事も褒めてもらえたし、俺も少し調子が出てきた。
「ここは、何を話す予定?」
「一緒に食べるものを決めるところ。ちゃんと、カメラに話しかけるね」
水瀬はメニューを置き、椅子に座り直した。両手を膝へ戻して、一度深く息を吐く。それから顔を上げると、さっきまで困ったように下がっていた眉が、少し持ち上がっていた。
撮影が始まる。
「どっちがいいと思う?」
水瀬が開いたメニューを、こちらへ傾けた。
「卵とベーコンのと、こっちのチキン。両方おいしそうで」
「水瀬は、卵のほうが気になってたんだよな」
彼女が小さく頷いた。
「覚えててくれたんだ」
「この前、写真送ってくれたから」
「うん。……じゃあ、私はこっちにしようかな」
メニューを指したあと、水瀬はすぐに手元へ引かなかった。
テーブルへ少し身を乗り出す。こちらへ傾けたメニューの上から顔を覗かせると、頬の横の髪がさらりと前へ落ちた。
彼女はそれを片手で耳へかけ、レンズのすぐ横にいる俺を見た。表情が隠れなくなったぶん、さっきより近く感じる。
「ねえ」
さっきまでより、小さな声だった。聞き返すほどではない。向かいにいる俺にだけ、続きを待たせるような呼びかけだった。
「悠人くんのも食べたい。一口、いい?」
――今、悠人って。
思わず水瀬を見ると、目が合った。
さっきまで、ずっと瀬尾くんだった。自分の名前なのに、水瀬の柔らかい声で呼ばれると、妙にはっきり耳に残った。
彼女は、こちらを見たまま少し首を傾けた。頬にかかりかけた髪が横へ流れ、返事を待つ顔が近くなる。
俺が何も言えずにいると、唇の端がゆっくり上がった。目元を甘えるように緩めて、もう少しだけ顔を覗き込んでくる。
名前のことを聞こうと思ったのに、その顔を見たら、聞く言葉まで出てこなかった。
撮影だ。返事をすればいい。
分かっているのに、口を開いても声にならない。水瀬は急かすこともせず、俺が答えるのを楽しみにしているように笑っていた。
俺はようやくメニューへ目を落とした。
卵とベーコン。チキン。
……そうだ。一口ほしいと、言われたんだった。
「……うん。いいよ」
「よかった。じゃあ、私のもあげる」
水瀬は満足そうに笑った。左の目が少し細くなり、ようやく視線が外れる。
メニューを閉じる音がして、俺は自分が浅くしか息をしていなかったことに気づいた。
高野さんの、はい、という声が聞こえた。
水瀬は椅子の背へ戻った。肩から力が抜け、さっきまでメニューを支えていた指が、表紙の端を軽く叩く。
高野さんが画面を見るのを待ってから、彼女は俺へ顔を寄せた。
「今、ちょっと困った?」
少し顎を上げ、俺の顔を確かめるように見ている。口元には、いたずらがうまくいった子みたいな笑みがあった。
「うん。今の、どきっとした」
正直に答えると、その笑みが止まった。
表紙を叩いていた指も止まる。少し開いた唇から声が出るまで、間があった。
「……え?」
「急に名前で呼ぶから。顔を見たら、あんなふうに笑ってるし。……俺、間が空きすぎませんでした?」
「いえ。あのくらいあったほうが、待っている表情も使えます」
高野さんが画面を確認している。
俺は水瀬へ向き直った。
「これなら、勝てそうかもしれないな」
水瀬がメニューを持ち上げた。
口元が隠れるところまで上げたのに、目はまだこちらを向いていた。さっきは俺がそらすまで見ていたのに、今度は目が合うとすぐ下へ逃げる。それでも、少しするとまた覗いてくる。
紙の端を持つ両手が、頬のそばまで寄っていた。
「……そんなに、よかった?」
「うん。見てる人、嬉しいと思う」
水瀬は何か答えかけて、メニューへ視線を下げた。目を伏せたまま、ゆっくり息を吐く。
それから少しだけメニューが下がり、隠していた口元が見えた。唇を結ぼうとしているのに、端がどうしても上がってしまうらしかった。
さっきまで、けっこう彼氏役ができているつもりだった。一言であれだけ返事に詰まらされるとは思わなかった。
やっぱり、水瀬はすごい。俺も次は、もう少し気の利いたことを返したい。
しばらくして、彼女は小さく頷いた。
「じゃあ、次も頑張る」
声は少しくぐもっていた。
*
料理が来ると、水瀬はカメラが回っているのを確かめてから、サンドイッチを持ち上げた。
ひと口食べた水瀬の目が、ぱっと大きくなった。
すぐこちらへ顔を向け、何か言おうとする。まだ食べている途中だと気づいたのか、口元に手を添えた。けれど、目だけは嬉しそうなまま、何度も小さく頷いている。
俺は、飲み込むまで待った。
「……おいしい」
「うん」
「卵、まだ温かい」
ようやく言えた、という顔で笑う。サンドイッチの断面をもう一度見て、俺にも見えるように少し傾けた。
撮影を始める前から楽しみにしていたのは、この顔だったのかもしれない。俺も自分の分をひと口食べた。
チキンのほうもうまかったので、自分の皿を彼女に見せる。
「こっちもいいよ」
「あ、本当?」
「うん。交換する?」
小さく切って、それぞれの皿へ移した。水瀬はチキンのほうも食べ、少し困った顔になった。
「……こっちも好き」
「選べなくなるな」
「次、どうしよう」
水瀬は二つの皿を見比べたあと、俺と目が合って笑った。左の目だけが少し細くなる。迷っているわりに、ずいぶん幸せそうだった。
高野さんが、もう少しそのまま食べていてくださいと言った。
デザートを撮るころには、水瀬もカメラに向かって、自分から話を続けるようになっていた。俺が返すと、笑ったり、言い返したりする。高野さんが止める回数も減った。
途中で、水瀬が俺の皿を見た。
「瀬尾くんも、食べてね。返事ばっかりしてると、なくならないよ」
「水瀬と話してるほうが楽しくて」
フォークを持ったまま、彼女へ笑いかける。こういう返事をするのも、だんだん楽しくなってきた。
水瀬のフォークが、皿の上で止まった。
「……そ、っか」
視線が俺からカメラへ動き、また俺へ戻る。何か言いかけた口元を一度きゅっと結んで、水瀬は自分のフォークを置いた。
「じゃあ、いったん静かにするから。食べて」
どうぞ、と俺の皿へ手を向ける。頬が赤い。今の返しも、なかなかよかったらしい。
食べている間、本当に黙って待っている。視線だけは、こちらを向いていた。
「それはそれで、食べにくいな」
言うと、水瀬はこらえきれないように笑った。
俺も笑って、フォークを置いた。
カメラの後ろで、片桐さんが小さく頷いているのが見えた。
*
店での撮影を終え、最後は近くの遊歩道へ移った。
建物の影が、歩道の半分ほどまで伸びていた。高野さんが立つ位置を確かめ、俺もその隣へ並ぶ。
「ここは、帰り際です。楽しかったから、まだ帰りたくない。その感じでお願いします」
水瀬は頷いた。
「少しだけ、考えてもいいですか」
「もちろん」
彼女は道の先を見てから、自分のバッグの肩紐を持ち直した。風が通ると、ワンピースの裾が膝の近くで揺れた。片手で押さえ、今度は俺のほうを見る。
目が合うと、小さく笑った。ただ、その笑顔は長く続かず、彼女は唇を結んで、もう一度道の先を見た。
最初の服の話では何度も止まったが、食事の途中からはずいぶん自然に話せていた。最後も、その感じで返せばよさそうだった。
「大丈夫。心配しなくても水瀬なら上手にやれるよ」
俺が言うと、水瀬はこちらを見た。
「……そういう心配じゃ、ないんだけど」
「うん?」
彼女は首を振り、高野さんへ目を戻した。
「お願いします」
カメラが上がる。
水瀬は二歩ほど歩いてから、こちらへ向き直った。
「今日、来てくれてありがとう」
「うん。楽しかった」
返すと、水瀬の目元が和らいだ。返事を確かめるように、少し遅れて頷く。
「私も」
一度、道の先を見る。駅の方角を示す看板から、視線がゆっくり戻ってきた。バッグの紐を持つ指が、胸元で重なる。
「あのね。駅、そっちなんだけど」
「うん」
「……もう少しだけ、遠回りしていかない?」
水瀬が俺を見た。
言い終えたあと、少し笑おうとしたようだった。けれど、上がりかけた口角がそのまま止まる。バッグの紐を握る指に、もう片方の手が添えられた。
目は、そらさなかった。店では俺を困らせるように待っていた彼女が、今は自分の言葉への返事を、ただ待っている。
カメラが隣にあることは分かっていた。それでも、答えるのを待たせたくなかった。
「いいよ。あっちまで歩こうか」
遊歩道の先を指すと、水瀬の肩がふっと下がった。
俺の指したほうを見て、またこちらへ戻る。その間に、表情が変わっていた。目元から緊張が抜け、こらえきれないように、口元まで笑みが広がっていく。
「うん」
頷いた彼女が、こちらへ半歩近づく。バッグの紐から片手が離れた。さっきまでの慎重な動きと違って、返事をもらったら自然に足が出たように見えた。
「……もうちょっと、一緒にいたかったから」
思ったより小さな声だった。
言い終えると、水瀬は少し俯いた。風で頬にかかった髪を払う。その指が下りると、笑ったままの横顔が見えた。
返事をしようとしたところで、高野さんの声がした。
「はい。撮れました」
カメラが下がった。
水瀬は立ち止まり、俺から少し離れた。
「最後、声、小さくなっちゃったんですけど」
「入っています。今のところ、そのまま使いたいです」
高野さんが画面を見せると、水瀬は覗き込みかけて、途中で止まった。自分の声が再生された途端、片手を頬に当てる。
「……あとで、見ます」
俺も画面を見た。さっきの水瀬が、こちらへ近づいてくる。俺の返事のあとで、嬉しそうに顔を緩めるところまで映っていた。
自分の返事で、こんなふうに笑ったのか。
すぐ隣に本人がいるのに、映像が終わるまで目を離せなかった。
「今の、よかったね」
水瀬がゆっくりこちらを向いた。
「……うん」
俺は頷いた。
これなら、朝倉さんの動画のあとに流れても、ちゃんと見てもらえそうだった。
*
店へ戻ると、高野さんが機材を片づけ始めた。
片桐さんは、撮れた一部分を朝倉さんへ送っていた。ほどなく電話がかかってきて、水瀬もいると伝えると、声を聞かせてほしいと言われたらしい。
「スピーカーにしてもいいですか。瀬尾さんもいます」
片桐さんが確かめ、スマホをテーブルの中央へ置いた。
『こはる。ちょっと、何あれ!』
「もう見たの?」
『見た。一口ちょうだい、のところ。あの顔!』
水瀬が俺を見た。俺も、どの場面か分かって頷いた。
『返事待ってるだけなのに、なんであんなにかわいいの。反則でしょ』
「……そんな顔、してた?」
『してた。三回見た。三回ともかわいかった。ずるいよ、あんな表情!』
水瀬が目を丸くした。
「そんなに何回も見たの?」
『一回目より二回目のほうが悔しかったんだもん』
「三回目は?」
『もっと悔しかった!』
片桐さんが、少しだけスマホの音量を下げた。
「莉央、さっきまで、勝つって言ってなかった?」
『勝つよ! 絶対負けないから!』
言い切ったあと、電話の向こうが静かになった。
『……でもさ。こはるの生誕でしょ。こはるのお客さん、多いよね』
「莉央が対決しようって言ったんだよ?」
『分かってる! 今、急に気になっただけ!』
水瀬は口元へ手を当てた。肩が小さく揺れている。
『こはる、今、笑ってるでしょ』
「……うん」
『正直に言わなくていいから』
声が少し拗ねた。しばらくして、深く息を吐く音が聞こえる。
『高野さん、私の店に入る前のところ、二つ撮ったでしょ。あとで両方見てもいいですか』
「送りますね」
『ありがとうございます。ちゃんと見直す。まだ、どっちを使うか決めてないし』
「莉央、それ、見直す時間あるの?」
『帰りの電車。明日の配信のこと考えるつもりだったけど、そっちは帰ってからやる』
「寝るの遅くなるよ」
『誰のせいだと思ってるの』
「……ごめん?」
『謝らないで。別に悔しくなんてないし』
水瀬が笑った。
「私も、今日、けっこう頑張ったから」
『……うん。見たら分かる』
今度の返事は小さかった。それから、少し間を置いて、いつもの声に戻る。
『じゃあ、当日ね。私の動画のときも、ちゃんと見ててよ』
そこで電話が終わるのかと思ったが、朝倉さんが、あ、と続けた。
『瀬尾くん。最後に、一個だけ聞いていい?』
「はい」
『今日、両方見てたでしょ。私とこはるの動画、どっちがよかった?』
向かいで、水瀬が顔を上げた。
「甲乙つけがたいくらい、どっちもよかったです。朝倉さんのは、見てるだけで一緒に遊んでる気分になりましたし」
『うん、うん。それで?』
「でも、選ぶなら水瀬ですね」
電話の向こうが、ぴたりと静かになった。
『……今、どっちもよかったって言ったよね?』
「はい。だから、最後は好みになるんですけど。俺、水瀬がアイドルになる前からファンなので」
水瀬の指が、バッグの上で止まった。
少し開いた口から声が出るまで、間があった。
「……なる前、から?」
「うん。小学校のころ、水瀬が歌ってたの、好きだったから」
水瀬は俺を見たまま、唇を結んだ。頬の赤みが、ゆっくり濃くなる。
「……そっか」
俯きかけて、また目が合う。口元が緩んだ途端、水瀬は片手でそこを隠した。でも、指の上から見える頬は上がったままで、左の目がいつもより細くなっていた。
『小学校って……何年分あるの、それ』
スマホから、低い声がした。
『ずるい。そんなの、今日だけじゃ追いつけないじゃん……』
「でも、朝倉さんのも、本当によかったですよ」
『今、慰めないで。余計つらいから』
俺は口を閉じた。
しばらくして、電話の向こうで息を吸う音がした。
『……でも、ライブはまだ見てないよね。私たちの』
「はい。今日の撮影だけです」
『そっか。……よし。まだいける』
声が、少しずつ大きくなった。
『次は、うちのライブに来ての。こはるも一緒に。私のステージ見たあとで、もう一回、同じこと聞くから!』
「それは見てみたいです」
水瀬がこちらを向いた。
『よし、言った! 日程は片桐さんに送るね。こはる、客席で見てて。瀬尾くんにも、私のこと応援してもらうから』
「莉央、まだ予定も――」
『これから合わせる! じゃあ今日はお疲れさまでした!』
一息に言ってから、朝倉さんは、もう一度水瀬を呼んだ。
『こはる。待ってなさい。絶対負けないから!』
「ちょっと、莉央――」
通話が切れた。
水瀬の手が、テーブルの真ん中まで伸びたところで止まっていた。指先をゆっくり引っ込めて、画面の暗くなったスマホを見る。
片桐さんがそれを手に取った。
「……まず、日程を送ってもらいましょうか」
水瀬は小さく頷いたが、俺のほうを一度見てから、何か言いかけた。
そのとき高野さんに呼ばれ、片桐さんと一緒に撮影の確認へ戻っていった。
*
片桐さんたちが機材を確かめている間、俺と水瀬は店先のベンチに座っていた。
店の人からもらった水のボトルは、少しぬるくなっていた。蓋を開けると、思っていたより喉が渇いていたことに気づいた。
「あの、瀬尾くん」
水瀬はボトルを両手で持ち、俺のほうへ少し体を向けた。
「さっきの、断っても全然いいんだよ?」
「ライブ?」
「うん。莉央、いつもああいう感じだから。もう決まったみたいに言ってたけど、瀬尾くんにも予定があるし」
蓋を閉めたあとも、彼女の指はそこから離れなかった。親指で蓋の縁をなぞりながら、俺の返事を待っている。
「でも、面白そうだよな。あれだけ言うんだから、ライブも見てみたいし」
「……行きたいんだ」
水瀬の指が止まった。
俺が頷くと、彼女はすぐに笑った。ただ、目が合うより先に、視線がボトルへ落ちた。
「そっか。うん。瀬尾くんが行きたいなら、いいんだけど」
「水瀬は、見たことある?」
「あるよ。一緒のライブに出たこともあるし」
「どうだった?」
水瀬が、少し困ったようにこちらを見た。
「……ライブは、本当にいいよ。莉央が出てくると、後ろのお客さんまで楽しそうになるの」
「それ、見てみたいな」
「うん。……そうだよね」
頷いてから、水瀬は唇を結んだ。自分の説明で、俺が余計に行きたくなったことを確かめるように、もう一度こちらを見る。
「おすすめの曲とか、ある?」
「……私に聞くの?」
「詳しそうだから」
水瀬は何か言いかけて、小さく息を吐いた。
「あとで送るね」
「ありがとう」
「でも、日程はちゃんと見てから決めてね。無理して合わせなくていいから」
「うん。そこは大丈夫」
答えると、水瀬はようやくボトルの蓋から手を離した。
少し間を置いてから、彼女が言った。
「……今日は、本当にありがとう。何回も撮り直しちゃって、ごめんね」
「俺も楽しかったよ。最後のほうは、もうちょっとやれそうなくらいだった」
「瀬尾くんは、そうだよね」
水瀬は小さく笑った。困ったような顔だったが、今度は俺のほうを向いていた。
「生誕のほうも、見に来てくれる?」
「もちろん。あの動画、会場で流れたらどうなるか気になるし」
「……うん」
彼女は頷き、ボトルをバッグの横へ置いた。
店の人が、入口の札を裏返していた。ガラスに、通りを行く人の姿が映る。
「そういえば、ひばりの予定も決めないとな」
水瀬が顔を上げた。
「今日の撮影が終わったら、少し予定、分かる?」
「うん。片桐さんに確認したから、あとでグループに送るね」
「今度はオムライスだっけ」
水瀬の指が、バッグの口で止まった。
「覚えてたんだ」
「食べたいって言ってたから」
「うん。食べたい」
返事は、さっきよりもはっきりしていた。
「瀬尾くんは、また辛口カレー?」
「たぶん」
「もっと色々選んだら?」
「ひばりに行くと、あれが食べたくなるんだよ」
水瀬が笑った。
バッグを膝に引き寄せると、水瀬はスマホを探した。
「真帆と尾崎の予定が合うといいな」
「うん」
水瀬はスマホを取り出し、四人のグループを開いた。候補の日をいくつか打って、俺に画面を見せる。
「このあたり、どう?」
「俺は大丈夫」
彼女が送信すると、膝の上の俺のスマホも震えた。
画面を開くより先に、隣を見た。
水瀬はまだ、自分の送った日付を見ていた。口元が、少し緩んでいる。
「楽しみだね」
「うん」
俺が返すと、彼女はようやくこちらを向いた。
その笑顔を撮るカメラは、もう片づけられていた。
*
帰宅して鞄を置くと、水瀬からメッセージが届いた。
『今日はありがとう。さっき、撮影のこと真帆にも話したよ』
『生誕で動画を流したあとのお話、真帆に進めてもらうことにした』
俺は、画面の最後の一行を読み直した。
『自分で進行しながら今日のこと話すの、どういう顔で話せばいいか分からなくて。お願いしたら、いいよって』
『これなら安心して話せそう。瀬尾くんも楽しみにしててね』
よかったな、と打ちかけて、指が止まった。
あの動画を、真帆が見る。
俺が張り切って彼氏役をやり、水瀬があんなふうに笑っていた、あの動画を。
そのうえ、当日は水瀬に撮影中の話を聞く役まで、真帆なのだ。
勝手に、当日の光景が頭に浮かんだ。
動画が終わり、ステージの照明が戻る。真帆が水瀬のほうへ体を向け、マイクを口元に上げる。
「撮影、どうだった? お相手の人も、けっこう積極的だったね」
「うん。私よりノリノリで、いろいろ返してくれて……」
「へえ。どんなこと言ってくれたの?」
待ってくれ。そこを詳しく聞くな。
頭の中の水瀬は照れながらも話し始め、真帆が笑顔で頷いている。
客席には、俺がいる。
元カノが、俺のやった彼氏役について話を広げている。そのすぐ隣で、水瀬が嬉しそうに撮影のことを説明している。
そこで俺は、どんな顔をしていればいいんだ。笑うのか。拍手するのか。
「……いや、気まずすぎるだろ」
ソファに座り込み、スマホを膝に置いて頭を抱えた。
客席で引きつった笑顔のまま拍手する自分まで浮かんできて、さらに深くうなだれる。はぁ。
膝の上の画面には、「安心して話せそう」の文字。
こっちは、客席に座るところからもう逃げ出したいんだけど。




