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友人の推しアイドル握手会に強制連行された結果。そこにいたのはかつていじめから助けた同級生だった件  作者: 午前の緑茶


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8/14

失念

 店内へ移る前に、朝倉さんは次の仕事へ向かうことになった。


 鞄を手にしたところで、彼女は高野さんのそばへ戻った。


「最後に、撮影終わったところまでの映像見てもいいですか」


 差し出された画面を覗く。水瀬が服を褒められて笑ったところで、朝倉さんの口元も少し緩んだ。


「……かわいい」


 すぐには、次の言葉が続かなかった。画面が止まっても、まだ覗き込んでいる。


「莉央?」


 水瀬に呼ばれて、ようやく顔を上げた。


「ちょっと。途中で何回も止まったって言ってたじゃん」

「うん。止まったよ」

「じゃあ、なんでこんないい顔、撮れてるの」


 水瀬が返事に困ったように笑うと、朝倉さんは両手で自分の頬を挟んだ。


「ああもう、その顔! ずるい!」

「ずるいって言われても」


 朝倉さんは口を尖らせたまま、もう一度画面へ目を落とした。


「……高野さん、ここ使うんですよね」

「ええ。候補にしています」

「ですよね。私でも使う」


 小さく息を吐いてから、ぱっと顔を上げる。


「でも、私のもよかったですよね?」

「はい。莉央さんのほうも、いい場面が撮れていますよ」

「……ですよね」


 肩が少し下がった。それから、確かめたところを見られたのが気になったのか、すぐに水瀬へ向き直る。


「言っとくけど、絶対負けないからね!」

「うん。私も」

「その余裕、当日まで覚えててよ」

「さっきまで、莉央のほうが余裕だったよ?」

「今もある!」


 言ってから、もう一度画面を見そうになって、やめた。


「……あとで、続きも送ってください」


 片桐さんへ頼む声は、さっきより小さかった。


 彼女が出ていくと、店の中が少し静かになった。


 窓際の二人掛けの席へ、水瀬が座る。向かい側にカメラが置かれ、俺は高野さんの横へ椅子を寄せた。


 テーブルは、二人でメニューを広げれば埋まるくらいの大きさだった。窓からの光が水瀬の髪の端を明るくしている。椅子を止めると、彼女が上体を少し引いた。


「さっきより、ちょっと近いね」

「このくらいでいいんですよね」


 高野さんに確かめると、大丈夫ですと返ってきた。


「……うん。そうだね」


 水瀬はメニューを開いた。


 服の場面は、続きを決めてから撮り直したら最後までいけた。さっきの返事も褒めてもらえたし、俺も少し調子が出てきた。


「ここは、何を話す予定?」

「一緒に食べるものを決めるところ。ちゃんと、カメラに話しかけるね」


 水瀬はメニューを置き、椅子に座り直した。両手を膝へ戻して、一度深く息を吐く。それから顔を上げると、さっきまで困ったように下がっていた眉が、少し持ち上がっていた。


 撮影が始まる。


「どっちがいいと思う?」


 水瀬が開いたメニューを、こちらへ傾けた。


「卵とベーコンのと、こっちのチキン。両方おいしそうで」

「水瀬は、卵のほうが気になってたんだよな」


 彼女が小さく頷いた。


「覚えててくれたんだ」

「この前、写真送ってくれたから」

「うん。……じゃあ、私はこっちにしようかな」


 メニューを指したあと、水瀬はすぐに手元へ引かなかった。


 テーブルへ少し身を乗り出す。こちらへ傾けたメニューの上から顔を覗かせると、頬の横の髪がさらりと前へ落ちた。


 彼女はそれを片手で耳へかけ、レンズのすぐ横にいる俺を見た。表情が隠れなくなったぶん、さっきより近く感じる。


「ねえ」


 さっきまでより、小さな声だった。聞き返すほどではない。向かいにいる俺にだけ、続きを待たせるような呼びかけだった。


「悠人くんのも食べたい。一口、いい?」


 ――今、悠人って。


 思わず水瀬を見ると、目が合った。


 さっきまで、ずっと瀬尾くんだった。自分の名前なのに、水瀬の柔らかい声で呼ばれると、妙にはっきり耳に残った。


 彼女は、こちらを見たまま少し首を傾けた。頬にかかりかけた髪が横へ流れ、返事を待つ顔が近くなる。


 俺が何も言えずにいると、唇の端がゆっくり上がった。目元を甘えるように緩めて、もう少しだけ顔を覗き込んでくる。


 名前のことを聞こうと思ったのに、その顔を見たら、聞く言葉まで出てこなかった。


 撮影だ。返事をすればいい。


 分かっているのに、口を開いても声にならない。水瀬は急かすこともせず、俺が答えるのを楽しみにしているように笑っていた。


 俺はようやくメニューへ目を落とした。


 卵とベーコン。チキン。


 ……そうだ。一口ほしいと、言われたんだった。


「……うん。いいよ」

「よかった。じゃあ、私のもあげる」


 水瀬は満足そうに笑った。左の目が少し細くなり、ようやく視線が外れる。


 メニューを閉じる音がして、俺は自分が浅くしか息をしていなかったことに気づいた。


 高野さんの、はい、という声が聞こえた。


 水瀬は椅子の背へ戻った。肩から力が抜け、さっきまでメニューを支えていた指が、表紙の端を軽く叩く。


 高野さんが画面を見るのを待ってから、彼女は俺へ顔を寄せた。


「今、ちょっと困った?」


 少し顎を上げ、俺の顔を確かめるように見ている。口元には、いたずらがうまくいった子みたいな笑みがあった。


「うん。今の、どきっとした」


 正直に答えると、その笑みが止まった。


 表紙を叩いていた指も止まる。少し開いた唇から声が出るまで、間があった。


「……え?」

「急に名前で呼ぶから。顔を見たら、あんなふうに笑ってるし。……俺、間が空きすぎませんでした?」

「いえ。あのくらいあったほうが、待っている表情も使えます」


 高野さんが画面を確認している。


 俺は水瀬へ向き直った。


「これなら、勝てそうかもしれないな」


 水瀬がメニューを持ち上げた。


 口元が隠れるところまで上げたのに、目はまだこちらを向いていた。さっきは俺がそらすまで見ていたのに、今度は目が合うとすぐ下へ逃げる。それでも、少しするとまた覗いてくる。


 紙の端を持つ両手が、頬のそばまで寄っていた。


「……そんなに、よかった?」

「うん。見てる人、嬉しいと思う」


 水瀬は何か答えかけて、メニューへ視線を下げた。目を伏せたまま、ゆっくり息を吐く。


 それから少しだけメニューが下がり、隠していた口元が見えた。唇を結ぼうとしているのに、端がどうしても上がってしまうらしかった。


 さっきまで、けっこう彼氏役ができているつもりだった。一言であれだけ返事に詰まらされるとは思わなかった。


 やっぱり、水瀬はすごい。俺も次は、もう少し気の利いたことを返したい。


 しばらくして、彼女は小さく頷いた。


「じゃあ、次も頑張る」


 声は少しくぐもっていた。


 *


 料理が来ると、水瀬はカメラが回っているのを確かめてから、サンドイッチを持ち上げた。


 ひと口食べた水瀬の目が、ぱっと大きくなった。


 すぐこちらへ顔を向け、何か言おうとする。まだ食べている途中だと気づいたのか、口元に手を添えた。けれど、目だけは嬉しそうなまま、何度も小さく頷いている。


 俺は、飲み込むまで待った。


「……おいしい」

「うん」

「卵、まだ温かい」


 ようやく言えた、という顔で笑う。サンドイッチの断面をもう一度見て、俺にも見えるように少し傾けた。


 撮影を始める前から楽しみにしていたのは、この顔だったのかもしれない。俺も自分の分をひと口食べた。


 チキンのほうもうまかったので、自分の皿を彼女に見せる。


「こっちもいいよ」

「あ、本当?」

「うん。交換する?」


 小さく切って、それぞれの皿へ移した。水瀬はチキンのほうも食べ、少し困った顔になった。


「……こっちも好き」

「選べなくなるな」

「次、どうしよう」


 水瀬は二つの皿を見比べたあと、俺と目が合って笑った。左の目だけが少し細くなる。迷っているわりに、ずいぶん幸せそうだった。


 高野さんが、もう少しそのまま食べていてくださいと言った。


 デザートを撮るころには、水瀬もカメラに向かって、自分から話を続けるようになっていた。俺が返すと、笑ったり、言い返したりする。高野さんが止める回数も減った。


 途中で、水瀬が俺の皿を見た。


「瀬尾くんも、食べてね。返事ばっかりしてると、なくならないよ」

「水瀬と話してるほうが楽しくて」


 フォークを持ったまま、彼女へ笑いかける。こういう返事をするのも、だんだん楽しくなってきた。


 水瀬のフォークが、皿の上で止まった。


「……そ、っか」


 視線が俺からカメラへ動き、また俺へ戻る。何か言いかけた口元を一度きゅっと結んで、水瀬は自分のフォークを置いた。


「じゃあ、いったん静かにするから。食べて」


 どうぞ、と俺の皿へ手を向ける。頬が赤い。今の返しも、なかなかよかったらしい。


 食べている間、本当に黙って待っている。視線だけは、こちらを向いていた。


「それはそれで、食べにくいな」


 言うと、水瀬はこらえきれないように笑った。


 俺も笑って、フォークを置いた。


 カメラの後ろで、片桐さんが小さく頷いているのが見えた。


 *


 店での撮影を終え、最後は近くの遊歩道へ移った。


 建物の影が、歩道の半分ほどまで伸びていた。高野さんが立つ位置を確かめ、俺もその隣へ並ぶ。


「ここは、帰り際です。楽しかったから、まだ帰りたくない。その感じでお願いします」


 水瀬は頷いた。


「少しだけ、考えてもいいですか」

「もちろん」


 彼女は道の先を見てから、自分のバッグの肩紐を持ち直した。風が通ると、ワンピースの裾が膝の近くで揺れた。片手で押さえ、今度は俺のほうを見る。


 目が合うと、小さく笑った。ただ、その笑顔は長く続かず、彼女は唇を結んで、もう一度道の先を見た。


 最初の服の話では何度も止まったが、食事の途中からはずいぶん自然に話せていた。最後も、その感じで返せばよさそうだった。


「大丈夫。心配しなくても水瀬なら上手にやれるよ」


 俺が言うと、水瀬はこちらを見た。


「……そういう心配じゃ、ないんだけど」

「うん?」


 彼女は首を振り、高野さんへ目を戻した。


「お願いします」


 カメラが上がる。


 水瀬は二歩ほど歩いてから、こちらへ向き直った。


「今日、来てくれてありがとう」

「うん。楽しかった」


 返すと、水瀬の目元が和らいだ。返事を確かめるように、少し遅れて頷く。


「私も」


 一度、道の先を見る。駅の方角を示す看板から、視線がゆっくり戻ってきた。バッグの紐を持つ指が、胸元で重なる。


「あのね。駅、そっちなんだけど」

「うん」

「……もう少しだけ、遠回りしていかない?」


 水瀬が俺を見た。


 言い終えたあと、少し笑おうとしたようだった。けれど、上がりかけた口角がそのまま止まる。バッグの紐を握る指に、もう片方の手が添えられた。


 目は、そらさなかった。店では俺を困らせるように待っていた彼女が、今は自分の言葉への返事を、ただ待っている。


 カメラが隣にあることは分かっていた。それでも、答えるのを待たせたくなかった。


「いいよ。あっちまで歩こうか」


 遊歩道の先を指すと、水瀬の肩がふっと下がった。


 俺の指したほうを見て、またこちらへ戻る。その間に、表情が変わっていた。目元から緊張が抜け、こらえきれないように、口元まで笑みが広がっていく。


「うん」


 頷いた彼女が、こちらへ半歩近づく。バッグの紐から片手が離れた。さっきまでの慎重な動きと違って、返事をもらったら自然に足が出たように見えた。


「……もうちょっと、一緒にいたかったから」


 思ったより小さな声だった。


 言い終えると、水瀬は少し俯いた。風で頬にかかった髪を払う。その指が下りると、笑ったままの横顔が見えた。


 返事をしようとしたところで、高野さんの声がした。


「はい。撮れました」


 カメラが下がった。


 水瀬は立ち止まり、俺から少し離れた。


「最後、声、小さくなっちゃったんですけど」

「入っています。今のところ、そのまま使いたいです」


 高野さんが画面を見せると、水瀬は覗き込みかけて、途中で止まった。自分の声が再生された途端、片手を頬に当てる。


「……あとで、見ます」


 俺も画面を見た。さっきの水瀬が、こちらへ近づいてくる。俺の返事のあとで、嬉しそうに顔を緩めるところまで映っていた。


 自分の返事で、こんなふうに笑ったのか。


 すぐ隣に本人がいるのに、映像が終わるまで目を離せなかった。


「今の、よかったね」


 水瀬がゆっくりこちらを向いた。


「……うん」


 俺は頷いた。


 これなら、朝倉さんの動画のあとに流れても、ちゃんと見てもらえそうだった。


 *


 店へ戻ると、高野さんが機材を片づけ始めた。


 片桐さんは、撮れた一部分を朝倉さんへ送っていた。ほどなく電話がかかってきて、水瀬もいると伝えると、声を聞かせてほしいと言われたらしい。


「スピーカーにしてもいいですか。瀬尾さんもいます」


 片桐さんが確かめ、スマホをテーブルの中央へ置いた。


『こはる。ちょっと、何あれ!』

「もう見たの?」

『見た。一口ちょうだい、のところ。あの顔!』


 水瀬が俺を見た。俺も、どの場面か分かって頷いた。


『返事待ってるだけなのに、なんであんなにかわいいの。反則でしょ』

「……そんな顔、してた?」

『してた。三回見た。三回ともかわいかった。ずるいよ、あんな表情!』


 水瀬が目を丸くした。


「そんなに何回も見たの?」

『一回目より二回目のほうが悔しかったんだもん』

「三回目は?」

『もっと悔しかった!』


 片桐さんが、少しだけスマホの音量を下げた。


「莉央、さっきまで、勝つって言ってなかった?」

『勝つよ! 絶対負けないから!』


 言い切ったあと、電話の向こうが静かになった。


『……でもさ。こはるの生誕でしょ。こはるのお客さん、多いよね』

「莉央が対決しようって言ったんだよ?」

『分かってる! 今、急に気になっただけ!』


 水瀬は口元へ手を当てた。肩が小さく揺れている。


『こはる、今、笑ってるでしょ』

「……うん」

『正直に言わなくていいから』


 声が少し拗ねた。しばらくして、深く息を吐く音が聞こえる。


『高野さん、私の店に入る前のところ、二つ撮ったでしょ。あとで両方見てもいいですか』

「送りますね」

『ありがとうございます。ちゃんと見直す。まだ、どっちを使うか決めてないし』


「莉央、それ、見直す時間あるの?」

『帰りの電車。明日の配信のこと考えるつもりだったけど、そっちは帰ってからやる』

「寝るの遅くなるよ」

『誰のせいだと思ってるの』

「……ごめん?」

『謝らないで。別に悔しくなんてないし』


 水瀬が笑った。


「私も、今日、けっこう頑張ったから」

『……うん。見たら分かる』


 今度の返事は小さかった。それから、少し間を置いて、いつもの声に戻る。


『じゃあ、当日ね。私の動画のときも、ちゃんと見ててよ』


 そこで電話が終わるのかと思ったが、朝倉さんが、あ、と続けた。


『瀬尾くん。最後に、一個だけ聞いていい?』

「はい」

『今日、両方見てたでしょ。私とこはるの動画、どっちがよかった?』


 向かいで、水瀬が顔を上げた。


「甲乙つけがたいくらい、どっちもよかったです。朝倉さんのは、見てるだけで一緒に遊んでる気分になりましたし」

『うん、うん。それで?』

「でも、選ぶなら水瀬ですね」


 電話の向こうが、ぴたりと静かになった。


『……今、どっちもよかったって言ったよね?』

「はい。だから、最後は好みになるんですけど。俺、水瀬がアイドルになる前からファンなので」


 水瀬の指が、バッグの上で止まった。


 少し開いた口から声が出るまで、間があった。


「……なる前、から?」

「うん。小学校のころ、水瀬が歌ってたの、好きだったから」


 水瀬は俺を見たまま、唇を結んだ。頬の赤みが、ゆっくり濃くなる。


「……そっか」


 俯きかけて、また目が合う。口元が緩んだ途端、水瀬は片手でそこを隠した。でも、指の上から見える頬は上がったままで、左の目がいつもより細くなっていた。


『小学校って……何年分あるの、それ』


 スマホから、低い声がした。


『ずるい。そんなの、今日だけじゃ追いつけないじゃん……』

「でも、朝倉さんのも、本当によかったですよ」

『今、慰めないで。余計つらいから』


 俺は口を閉じた。


 しばらくして、電話の向こうで息を吸う音がした。


『……でも、ライブはまだ見てないよね。私たちの』

「はい。今日の撮影だけです」

『そっか。……よし。まだいける』


 声が、少しずつ大きくなった。


『次は、うちのライブに来ての。こはるも一緒に。私のステージ見たあとで、もう一回、同じこと聞くから!』

「それは見てみたいです」


 水瀬がこちらを向いた。


『よし、言った! 日程は片桐さんに送るね。こはる、客席で見てて。瀬尾くんにも、私のこと応援してもらうから』

「莉央、まだ予定も――」

『これから合わせる! じゃあ今日はお疲れさまでした!』


 一息に言ってから、朝倉さんは、もう一度水瀬を呼んだ。


『こはる。待ってなさい。絶対負けないから!』

「ちょっと、莉央――」


 通話が切れた。


 水瀬の手が、テーブルの真ん中まで伸びたところで止まっていた。指先をゆっくり引っ込めて、画面の暗くなったスマホを見る。


 片桐さんがそれを手に取った。


「……まず、日程を送ってもらいましょうか」


 水瀬は小さく頷いたが、俺のほうを一度見てから、何か言いかけた。


 そのとき高野さんに呼ばれ、片桐さんと一緒に撮影の確認へ戻っていった。


 *


 片桐さんたちが機材を確かめている間、俺と水瀬は店先のベンチに座っていた。


 店の人からもらった水のボトルは、少しぬるくなっていた。蓋を開けると、思っていたより喉が渇いていたことに気づいた。


「あの、瀬尾くん」


 水瀬はボトルを両手で持ち、俺のほうへ少し体を向けた。


「さっきの、断っても全然いいんだよ?」

「ライブ?」

「うん。莉央、いつもああいう感じだから。もう決まったみたいに言ってたけど、瀬尾くんにも予定があるし」


 蓋を閉めたあとも、彼女の指はそこから離れなかった。親指で蓋の縁をなぞりながら、俺の返事を待っている。


「でも、面白そうだよな。あれだけ言うんだから、ライブも見てみたいし」

「……行きたいんだ」


 水瀬の指が止まった。


 俺が頷くと、彼女はすぐに笑った。ただ、目が合うより先に、視線がボトルへ落ちた。


「そっか。うん。瀬尾くんが行きたいなら、いいんだけど」

「水瀬は、見たことある?」

「あるよ。一緒のライブに出たこともあるし」

「どうだった?」


 水瀬が、少し困ったようにこちらを見た。


「……ライブは、本当にいいよ。莉央が出てくると、後ろのお客さんまで楽しそうになるの」

「それ、見てみたいな」

「うん。……そうだよね」


 頷いてから、水瀬は唇を結んだ。自分の説明で、俺が余計に行きたくなったことを確かめるように、もう一度こちらを見る。


「おすすめの曲とか、ある?」

「……私に聞くの?」

「詳しそうだから」


 水瀬は何か言いかけて、小さく息を吐いた。


「あとで送るね」

「ありがとう」

「でも、日程はちゃんと見てから決めてね。無理して合わせなくていいから」

「うん。そこは大丈夫」


 答えると、水瀬はようやくボトルの蓋から手を離した。


 少し間を置いてから、彼女が言った。


「……今日は、本当にありがとう。何回も撮り直しちゃって、ごめんね」

「俺も楽しかったよ。最後のほうは、もうちょっとやれそうなくらいだった」

「瀬尾くんは、そうだよね」


 水瀬は小さく笑った。困ったような顔だったが、今度は俺のほうを向いていた。


「生誕のほうも、見に来てくれる?」

「もちろん。あの動画、会場で流れたらどうなるか気になるし」

「……うん」


 彼女は頷き、ボトルをバッグの横へ置いた。


 店の人が、入口の札を裏返していた。ガラスに、通りを行く人の姿が映る。


「そういえば、ひばりの予定も決めないとな」


 水瀬が顔を上げた。


「今日の撮影が終わったら、少し予定、分かる?」

「うん。片桐さんに確認したから、あとでグループに送るね」

「今度はオムライスだっけ」


 水瀬の指が、バッグの口で止まった。


「覚えてたんだ」

「食べたいって言ってたから」

「うん。食べたい」


 返事は、さっきよりもはっきりしていた。


「瀬尾くんは、また辛口カレー?」

「たぶん」

「もっと色々選んだら?」

「ひばりに行くと、あれが食べたくなるんだよ」


 水瀬が笑った。


 バッグを膝に引き寄せると、水瀬はスマホを探した。


「真帆と尾崎の予定が合うといいな」

「うん」


 水瀬はスマホを取り出し、四人のグループを開いた。候補の日をいくつか打って、俺に画面を見せる。


「このあたり、どう?」

「俺は大丈夫」


 彼女が送信すると、膝の上の俺のスマホも震えた。


 画面を開くより先に、隣を見た。


 水瀬はまだ、自分の送った日付を見ていた。口元が、少し緩んでいる。


「楽しみだね」

「うん」


 俺が返すと、彼女はようやくこちらを向いた。


 その笑顔を撮るカメラは、もう片づけられていた。


 *


 帰宅して鞄を置くと、水瀬からメッセージが届いた。


『今日はありがとう。さっき、撮影のこと真帆にも話したよ』

『生誕で動画を流したあとのお話、真帆に進めてもらうことにした』


 俺は、画面の最後の一行を読み直した。


『自分で進行しながら今日のこと話すの、どういう顔で話せばいいか分からなくて。お願いしたら、いいよって』

『これなら安心して話せそう。瀬尾くんも楽しみにしててね』


 よかったな、と打ちかけて、指が止まった。


 あの動画を、真帆が見る。


 俺が張り切って彼氏役をやり、水瀬があんなふうに笑っていた、あの動画を。


 そのうえ、当日は水瀬に撮影中の話を聞く役まで、真帆なのだ。


 勝手に、当日の光景が頭に浮かんだ。


 動画が終わり、ステージの照明が戻る。真帆が水瀬のほうへ体を向け、マイクを口元に上げる。


「撮影、どうだった? お相手の人も、けっこう積極的だったね」

「うん。私よりノリノリで、いろいろ返してくれて……」

「へえ。どんなこと言ってくれたの?」


 待ってくれ。そこを詳しく聞くな。


 頭の中の水瀬は照れながらも話し始め、真帆が笑顔で頷いている。


 客席には、俺がいる。


 元カノが、俺のやった彼氏役について話を広げている。そのすぐ隣で、水瀬が嬉しそうに撮影のことを説明している。


 そこで俺は、どんな顔をしていればいいんだ。笑うのか。拍手するのか。


「……いや、気まずすぎるだろ」


 ソファに座り込み、スマホを膝に置いて頭を抱えた。


 客席で引きつった笑顔のまま拍手する自分まで浮かんできて、さらに深くうなだれる。はぁ。


 膝の上の画面には、「安心して話せそう」の文字。


 こっちは、客席に座るところからもう逃げ出したいんだけど。

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