動画撮影
撮影の日、指定された店へ着くと、入口の札が準備中になっていた。
窓の向こうで、片桐さんが手を上げる。扉を開けると、コーヒーの匂いがした。昼と夜の営業の間を借りている、と事前に聞いていた店だった。
「今日はありがとうございます。奥へどうぞ」
窓際では、グレーのシャツを着た女性がカメラの高さを調整していた。
「撮影の高野です。相手役の瀬尾さんですね」
「はい。よろしくお願いします」
「分からないことがあったら、途中でも聞いてください」
高野さんの隣で機材のケースを閉めていた男性も、顔を上げた。
「撮影補助の三浦です。今日は莉央さんの相手役もやります。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
俺が頭を下げると、三浦さんは、こちらも慣れていないので、と少し笑った。
挨拶をしていると、奥の席から水瀬が立ち上がった。
薄い青のワンピースに、白いカーディガンを合わせている。髪の片側を留めた小さな飾りが、窓の光を受けた。
「来てくれてありがとう」
「うん。遅くなかった?」
「大丈夫。まだ準備してるところ」
彼女の横から、もう一人が立ち上がった。高い位置で結んだ髪を揺らし、テーブルを回ってこちらへ来る。
「瀬尾くん?」
「はい」
「朝倉莉央です。こはるから聞いた。こはるの相手役やるんだってね。ずいぶんやる気だって聞いたよ?」
「せっかくの勝負なら勝ちたいですから」
「ふっふっふー。負けないよー?」
笑顔のまま言って、彼女は窓際の椅子を一脚引いた。
「荷物、ここに置けるよ。私の先に撮るから、よく見てて」
「見てていいんですか」
「もちろん。よかったら、ちゃんと褒めてね」
「莉央、瀬尾くんは私の相手役だよ」
「感想聞くくらい、いいじゃん。昨日、けっこう頑張って考えてきたんだし」
最後だけ少し声が小さくなった。俺のほうを見る目には、さっきまでより期待がこもっていた。
「分かりました。楽しみにしてます」
答えると、朝倉さんは満足そうに頷いた。
水瀬が俺の隣へ来る間に、朝倉さんはテーブルから紙を取っていた。
「はい。今日、こんな順番。分からないところある?」
会ってまだ一分も経っていない気がしたが、俺はもう、朝倉さんと一緒に撮影の順番を確認していた。
紙には、送ってもらった企画書よりずっと多くの書き込みがあった。
「それ、全部台詞ですか?」
「ううん。相手が何て答えるか分からないから、何個か考えてきたの。あと、ここのプリン、数量限定だから先に頼むこともメモしてる」
「最後のは撮影と関係ある?」
「ある。私のやる気に、すごく」
朝倉さんは真顔で答えてから、ちらりと店の奥を見た。
「……まだ残ってるかな。さっき聞けばよかった」
紙を俺たちに預けると、店の人へ小走りに近づいていく。
「すみません。プリン、一個お願いしてもいいですか」
ありますよ、と返されると、肩が目に見えて下がった。こちらを振り返り、口の動きだけで「あった」と教えてくれる。
水瀬が笑って頷くと、朝倉さんも嬉しそうに笑った。
高野さんが、まず店先で待ち合わせの場面を撮ると説明した。三浦さんがカメラのすぐ横に立ち、俺は水瀬と、その後ろへ回った。
扉の脇に立った朝倉さんは、片手で小さく手を振った。
「お待たせ。待った?」
レンズの横にいる三浦さんが、少し、と返す。
「少しって、どのくらい?」
「十分くらい」
「それ、けっこう待ってるじゃん」
朝倉さんは眉を下げたあと、ガラス越しに店内を指した。
「じゃあ、ケーキは先に選んで。私は違うのにする」
「俺が選んだほうを、莉央さんも食べたくなったら?」
朝倉さんは少し考える顔をしてから、カメラへ半歩近づいた。レンズに目を向けたまま、いたずらっぽく笑う。
「そのときは、一口ちょうだい?」
さっきまでより声を落とし、くりりとした快活な瞳向けて首を傾けた。
目線はレンズに向いている。それでも、そのすぐ後ろに立つ俺は、つい頷きかけた。
高野さんがカメラを下ろした。
「いいですね。店に入るところだけ、もう一度お願いします」
「一口のところは?」
「使えます」
「よし。三浦くん、私もそっちを食べたくなったらって聞いてくれたの、助かった」
「違うのにするって言っても、食べたいほうを我慢することになるかもしれないと思ったので」
「そういうの、もっと言って。私が返せなくなったら、そのときは一緒に考えようね」
三浦さんが笑うと、朝倉さんはすぐにこちらへ向き直った。
「瀬尾くん、今のどうだった?」
「俺まで、返事しそうになりました」
「いいね。じゃあ当日も、私に一票」
「まだ水瀬のを見てないので」
ぱっと明るくなっていた顔が、そこで止まった。
「……そっか。今ならいけると思ったんだけどな」
「もう。最初から、私の手伝いに来てくれてるんだよ」
「分かってるよ。……でも、今のよかったっていうのは、覚えててね」
念を押され、俺は頷いた。朝倉さんはそれを見て、ようやく少し笑った。
水瀬は腕を組んでいた。ただ、口元は笑っている。
「あんなに考えてきたのに、三浦さんが返したら、違うこと言ってた」
「うん。昨日、あんなに悩んだのに。……よかったって言ってもらえたから、いいけど」
朝倉さんは紙へ何か書き足してから、俺へペンの先を向けた。
「瀬尾くんも、こはるに遠慮して返事しなくていいからね。言われたこと、ちゃんと返したほうが、こはるもやりやすいから」
「分かりました」
「莉央、私の相手に何教えてるの」
「だって、今、三浦くんの返事で助かったから」
「うん。ありがとう。私も、いいの撮れそう」
朝倉さんは嬉しそうに頷きかけて、途中で止まった。
「……待って。今、私、こはるが勝つための話してた?」
「してたね」
「参考になります」
俺も礼を言うと、彼女は少し困ったように笑った。
「うん。それはよかった。……でも、私のほうが、ちょっとだけよく撮れててほしい」
最後だけ小さな声で付け足して、扉の前へ戻っていった。
俺は水瀬に声を落とした。
「俺も、けっこう喋っていいんだな」
「え?」
「さっき、三浦さんが聞き返したから、一口の話になっただろ。ああいうの、俺もやっていいんだよな」
水瀬がこちらを見た。俺は少し声を弾ませた。
「水瀬が話しかけて、俺もそれっぽく返せば、ちゃんとデートになるわけだ」
「……うん。そう、なんだけど」
「分かった。何かセリフを考えるよ」
カメラの横で相槌を打つだけだと思っていたが、これは思っていたより楽しそうだった。朝倉さんに勝つために、俺にもできることがありそうだ。
水瀬は何か言いかけて、やめた。それから、小さく息を吸った。
朝倉さんは店内でも手際よく撮影を進めた。三浦さんに好みを聞き、その返事から注文の話へつなげていく。必要なところを撮り終えると、カメラを止めたあとでプリンをおいしそうに食べた。
「こはるのも、最初だけ見ていっていい?」
空の皿の横へスプーンを揃えながら、彼女が尋ねた。
*
三浦さんが機材のケースを壁際へ寄せ、俺に場所を空けてくれた。今度は俺が、高野さんのすぐ横に立つ。
水瀬には、基本はレンズを見てもらう。俺が離れすぎると目線も外れるので、このくらい、と位置を教えられた。
「瀬尾さんも、撮っている間は一緒に出かけているつもりで。聞かれたことに答えるだけじゃなくて、自分から話しかけても大丈夫です」
「分かりました」
水瀬は店の扉の前で、カーディガンの袖を直していた。
高野さんが声をかける。
「では、お願いします」
水瀬の顔が上がった。背筋が伸び、袖を触っていた手が自然に下りる。レンズを見つけた途端、口元に明るい笑みが浮かんだ。
「こんにちは、春野こはるです。今日は、前から気になっていたお店に来ました」
声がよく通った。店名を紹介し、ガラス越しに見える席を示してから、こちらへ笑いかける。白いカーディガンの袖が、手の動きに合わせてふわりと揺れた。
客席で見ていたときは、声と動きの大きさに目を引かれた。今は、話しかける直前に目元が和らぐところまで見える。返事をする場面ではないのに、俺はつい姿勢を正した。
「このあとも、いくつか撮っていきますね。いったん切ります」
高野さんの声で、水瀬が息を吐いた。
「今のは大丈夫ですか?」
「はい。では、待ち合わせのほうも」
同じ位置で、撮影が始まった。
水瀬は一度、店の看板へ目をやってから、俺たちに気づいたように顔を向けた。
「お待たせ。……待った?」
「少し。今日、楽しみだったから早く来すぎた」
せっかくなので、待っていたほうも楽しみにしていたことにした。笑って返すと、彼女の目が一瞬、レンズから俺へ動いた。
「……楽しみ?」
「うん。水瀬に会えるし」
さっきまでまっすぐだった視線がそこで止まった。笑みを残したまま、唇だけが小さく開く。
「そ、っか」
水瀬は一度頷いた。もう一度頷いてから、袖をつまむ。次の台詞を待っていると、その指がカーディガンの縫い目を行ったり来たりした。
「今日、その……」
高野さんが、ゆっくりカメラを下ろした。
「一度、止めましょう。小春さん、続きは服の話でしたね」
「はい。すみません」
水瀬が両手で頬の横の髪を直してから、俺を見た。
「瀬尾くん、そういう返事するんだ」
「せっかくデートなんだし。こっちも楽しそうなほうがいいだろ」
「……うん。撮影、だもんね」
「そうそう。今の、けっこうそれっぽくなかった?」
水瀬は返事をせず、頬の横の髪をもう一度直した。左右とも、さっき直したばかりだった。
高野さんが頷いた。
「返事はよかったです。次は服の話も、瀬尾さんから気づいてあげると、やり取りしやすいかもしれません」
「あ、それも言っていいんですね」
「はい。せっかく相手がいるので」
水瀬が手を止めた。
「え、じゃあ、次は――」
「さっきの続きからやってみましょう。待ち合わせの返事のあとで」
高野さんがカメラを構え、俺も隣へ戻った。
水瀬が同じように呼びかける。返事をして、今度は次を待たずに口を開いた。
「その服、似合うな」
袖をつまんでいた指が、ぴたりと止まった。
水瀬の目が丸くなる。次に、自分のワンピースへ視線が落ちた。俺の言ったことを確かめるように青い生地を見てから、もう一度顔を上げる。
「……ほんと?」
「うん。その青、いいと思う。見つけたとき、かわいいなって思った」
褒めるなら、もう一言くらいあったほうがよさそうだった。水瀬の顔を見て、笑って付け足す。
水瀬の口元が、ゆっくりほころんだ。
笑ったあとで、それに気づいたように唇を結ぶ。けれど頬は上がったままで、隠しきれなかった。目が合うと、今度は顔まで少し下を向く。髪からのぞいていた耳が赤くなっていた。
上げかけた手が口元で止まり、そのままカーディガンの裾へ下りる。まっすぐだった裾を、指先で二度、伸ばした。
「あ、ありがとう。今日、これにしようかなって、思って」
「うん」
水瀬がそっと目を上げた。俺がまだ見ていると分かると、困ったように眉を下げる。それでも、口元の笑みは消えなかった。
あんなふうに嬉しそうにされると、こっちまで頬が緩む。似合っていると思ったことを、そのまま言ってよかった。
「……それで」
高野さんが止めた。
「今の笑ったところ、いいですね。続き、もう一度撮れます?」
「あ、はい」
水瀬は頷いてから、俺を見た。少し眉を寄せているが、頬にはまだ赤みが残っていた。
「瀬尾くん、急に言うから」
「服、褒めるんじゃなかったっけ」
「そうだけど。かわいい、とかまで言うと思ってなくて」
「そのほうが彼氏っぽいかなって。今の、どうだった?」
水瀬は口を開き、閉じた。
「……今、感想まで聞くの?」
後ろで朝倉さんが吹き出した。
「瀬尾くん、思ってたより乗り気じゃん」
「せっかくなら勝ちたいので」
「いいねえ。こはる、頼もしい味方だね」
「……うん。頼もしいんだけどね」
水瀬は最後だけ小さな声で言って、手の甲を頬に当てた。
高野さんが次の位置を示す。水瀬が扉の前へ戻るのを見て、俺は思いついたことを聞いてみた。
「高野さん、これ、褒めたあとに聞いたほうがいいですか。今日のために選んだの、とか」
「いいですね。それで相手の話を聞いてみてください」
「待って」
水瀬が片手を上げた。勢いがつきすぎたのか、指先が小さく震えている。
俺も高野さんも、彼女を見た。
「……どこまで話すのか、先に相談して」
「今、相談してたけど」
「私とも」
水瀬はそこで言葉を切った。頬は赤いままなのに、目だけは必死だった。
「分かってるよ。演技なのは。……でも、急にそういうこと言われると、次の台詞が飛ぶの」
「ああ、ごめん。じゃあ、次は服を褒めて、今日のために選んだのか聞く。それでいい?」
「……うん。それなら」
水瀬は袖を握り直し、一度頷いた。
「分かってれば、大丈夫だから」
「よし。じゃあ、今度こそ最後までいこう」
俺が頷くと、水瀬も頷いた。なぜか、俺よりずっと深く息を吸っていた。
後ろから、朝倉さんの声がした。
「こはる、頑張って」
「……誰のせいだと思ってるの」
「え、私? 今の、瀬尾くんの自主性だよ」
水瀬は言い返せず、もう一度袖を直した。




