後輩ちゃん
昼休みの終わりまで、あと二十分ほどあった。
休憩室の窓際でスマホを見ていると、向かいに紙コップが置かれた。
「先輩、さっきの一覧、直しておきました」
藤崎が椅子を引いた。俺より一年あとに入社した、同じ営業事務の後輩だった。
「ありがとう。午後、確認する」
「お願いします。で、何をそんなに悩んでるんですか」
「そんな顔してた?」
「さっきから画面が変わってないです」
スマホには、今週の予定が表示されていた。土曜日の昼に、四人でひばりへ行く。
水瀬が店の営業を調べ、尾崎が休みを確認してくれた。日程を決めるために四人のLINEグループもできた。ここ数日は、待ち合わせ場所や食べたいものの話が流れている。
「藤崎、ちょっと聞いてもいい?」
「はい。仕事ですか」
「いや。プライベートの話。実は今度、元カノと飯に行くことになったんだけどさ」
藤崎はコーヒーをひと口飲み、ゆっくりコップを置いた。
「……なるほど。私の出番ですね」
「そうなの?」
「まず、事情を聞きましょう」
椅子をこちらへ寄せ、膝の上で手を組む。さっきまで俺が見ていたスマホへ目をやってから、どうぞ、と続きを促された。
「共通の知り合いに誘われて。高校のときの同級生でもあるから、久しぶりに話そうって」
「二人きりで?」
「四人。その知り合いと、俺の友達も来る」
「先輩は、また付き合いたいんですか」
「そういう話じゃないよ。普通に飯を食えたらいいんだけど、どうも気まずくて」
「向こうとは、もう会ってるんですよね」
「うん。一度。話してる間は、普通だったんだけど」
藤崎は二度、頷いた。
「分かりました。じゃあ、まず先輩が構えすぎないことです」
「それが難しいんだよな」
「元カノだからって、昔の話が出るたびに黙ったりしてません?」
「……してたかもしれない」
「ほら」
藤崎が、待っていましたという顔をした。
「それだと向こうが一人で答えることになるんですよ。先輩の反応も気になるし、どこまで話していいか分からないし。元カノさんも困ります」
真帆がこちらを見て、俺の返事を待っていた顔が浮かんだ。
あのときは、俺も向こうに何とかしてほしいと思っていた。
「そうか。自分のことばっかり考えてたな」
「気づけたなら大丈夫です。二人とも知ってる話なら、先輩も普通に答えてあげてください。相手を一人で困らせない。それだけでも、だいぶ違いますから」
「なるほど」
思わず頷くと、藤崎は少し顎を上げた。
「どうです?」
「頼もしいな」
「今、気づきました?」
口元が緩んでいる。隠す気はなさそうだった。
「仕事ではいつも教えてもらってますけど、こういう相談なら私だって役に立つんです」
「もっと早く聞けばよかった」
「そうですよ。ひとりで予定表を睨んでないで、まず私に相談してください」
藤崎は満足そうにコップを取った。
「ちなみに、誘ってくれた人って男性ですか、女性ですか」
「女性。小学校の同級生で、水瀬っていうんだけど」
「その人と元カノさんが友達なんですか?」
「うん。同じグループでアイドルをやってて。俺は、再会するまで知らなかった」
「……アイドル?」
「尾崎にライブへ連れていかれて、握手会で気づいたんだ。小学校のとき同じクラスだったって」
藤崎は口元まで上げたコップを止めた。
「ちょっと、思ってた再会とは違いましたけど……。それで、個人的にも連絡を取るようになったんですか」
「連絡先を渡してくれたから。ときどき話してたら、真帆とも高校が一緒だったって分かって」
「真帆さんが、元カノさんですね」
「そう」
「連絡先は、水瀬さんのほうから?」
「うん。握手のとき、手にメモを」
藤崎の眉が上がった。それから、俺の顔をじっと見た。
「先輩。それ、さらっと言ってますけど」
「うん?」
「水瀬さん、先輩ともっと仲よくなりたいんじゃないですか」
「昔の同級生だから、懐かしいんだと思う」
「それは、きっかけでしょう。そのあとも連絡は来るんですよね」
「うん。次のライブに来るか聞かれたり。終演後にも、もう少し話したいって時間を作ってくれたし」
「ほら、また」
藤崎はコップを置き、テーブルに軽く身を乗り出した。さっきよりも、笑みが深くなっている。
「少なくとも、ただ懐かしいだけの相手よりは、気になってるように聞こえますけど」
「そうなのかな」
「そこは私より、実際に会ってる先輩に気づいてほしいんですけどね」
言いながら、藤崎は楽しそうだった。
「まあ、好意があると決まったわけじゃないです。でも、その可能性は頭に置いておいたほうがいいです。水瀬さんには、元カノさんとのこと、どう説明してるんですか」
「してないよ。知らないから」
藤崎の笑みが、そのまま止まった。
「……何を?」
「俺と真帆が付き合ってたこと」
「知らないんですか\!?」
思ったより大きな声だった。
入り口の近くにいた社員が、こちらを振り返った。藤崎は慌てて頭を下げ、それから椅子ごと身を寄せてきた。
「待って。ちょっと待ってください。水瀬さんは、二人が元恋人だって知らないんですか」
「高校の同級生だとは知ってるけど」
「そこじゃなくて……あ、知らないんですよね。はい。ええと」
藤崎は片手を上げた。何か言いかけて口を閉じ、今度は両手をテーブルに置く。
「じゃあ、水瀬さんは先輩と仲よくなりたくて、自分から連絡して……その先輩を、元カノと……」
途中で言葉が止まった。
俺の顔を見てから、もう一度止まった。
「自分で会わせようとしてるんですか?」
「結果的には、そうなるな」
「結果的には、じゃないです。え、何でそんなことに……。先輩、二人が付き合ってたって、ひと言伝えておけばよかったんじゃないですか」
「それも考えたんだけど。水瀬は、昔の同級生に会えて嬉しいだけかもしれないだろ」
「それは、まだ分かりませんけど」
「なのに、こっちから急に『真帆とは付き合ってたけど、今は別れてるから』って説明するのも、何か違う気がして」
水瀬は俺と真帆が知り合いだと分かったときも、嬉しそうだった。
あの声を聞きながら、実は元カノなんだ、と話を切り替える言葉が見つからなかった。
「聞かれたら答えるよ。でも、ただ再会を喜んでくれてる相手に、俺だけ恋愛の話を持ち出すのもなって」
「……ああ。水瀬さんに好かれてるつもりで、先に説明してるみたいになるのが嫌なんですね」
「うん。そういうつもりじゃなくても。真帆の話でもあるし、俺から軽く言っていいのかも迷った」
藤崎は少し口を尖らせたあと、頷いた。
「……それは、分かります。好意があるかもってだけで、先回りするのも難しいですね」
「いや。そう見えるって聞けたのは、助かった」
「でも……ああ、そうか。だから誰も言い出さないまま、食事の約束まで進んじゃったんですね」
「うん。真帆も水瀬には言ってないみたいで」
「その食事は、水瀬さんが誘ったんですよね?」
「うん。二人で昔の話をしてたら、水瀬がその店に行ってみたいって」
「その店?」
「高校の近くの喫茶店。俺と真帆がよく行ってたところ」
「思い出のお店まで\!?」
今度は言った直後に、自分で口を押さえた。
肩をすぼめて入り口を確かめ、声を落とす。
「ちょっと、待ってください。水瀬さん、自分が気になってるかもしれない人と、その元カノを、二人の思い出のお店に連れていくんですか。何も知らないまま?」
「そうなる」
「そこで昔の話を聞くんですよね?」
「楽しみにしてるみたい」
「楽しみに……」
藤崎は背もたれに戻りかけ、すぐに体を起こした。
「だめです。私、さっき、普通に昔話してあげてくださいって言いましたよね」
「うん」
「それ自体は間違ってないんですけど、その、二人で懐かしくなって、うっかり何か……ああ、でも、避けたら水瀬さんが変に思うし……」
「藤崎?」
「今、考えてます!」
コップを取ろうとした手が、縁に当たった。傾いたところを両手で押さえ、藤崎はゆっくりテーブルの中央へ戻した。
今度は、もう手をつけなかった。
「だから、尾崎にも来てもらうことにしたんだ」
「……ああ。そうでした。もう一人いるんでしたね」
藤崎が顔を上げた。
「その人には事情を話してあるんですよね。二人で気をつけておけば、まだ――」
「いや、尾崎も知らない」
「何でですか!」
藤崎は額に手を当てた。
「その人、ただごはん食べに来るだけじゃないですか!」
「真帆とはけっこう話せてたから。間に入ってくれるかなって」
「知らないのに、どこに入ればいいんですか。先輩と真帆さんの間ですか。水瀬さんの隣ですか。私だって今、どこから手をつけたらいいか分からないのに」
最後のほうは、一息だった。
藤崎は息を吐き、俺を見た。
「先輩は、何でそんなに普通なんですか」
「困ってるから相談したんだけど」
「……そうでした」
壁の時計を見て、藤崎が目を見開いた。
「もう時間じゃないですか」
「戻ろうか」
「待ってください。まだ、何もまとまってないです」
立ち上がりかけた俺を手で制して、彼女は早口で続けた。
「真帆さんが困ってたら、助けてあげる。そこは、そのままでいいです。ただし、二人だけで分かる話をして、水瀬さんを置いていかない。目配せだけで何とかしようとしない。あと――」
藤崎は口を開いたまま、少し考えた。
「……とりあえず、その二つです。絶対、覚えておいてください」
「分かった。ありがとう」
俺が頷くと、藤崎も頷いた。まだ何か考えている顔で、コップを持って立ち上がる。
「食事のあと、どうなったか教えてくださいね」
「また相談していいの?」
「いいです。いいですけど」
藤崎は俺へ向き直った。
「次は、最初に全部言ってください。私がドヤってバカみたいじゃないですか」




