電話
家に着いたのは、九時を少し過ぎた頃だった。
玄関で靴を脱ぎ、尾崎に借りたペンライトをテーブルに置く。駅前で買った弁当を温めようとして、上着のポケットに入れた紙を思い出した。
四つに折られたメモを開くと、LINEのIDと、その下に「こはる」と書いてあった。
検索すると、海の写真をアイコンにしたアカウントが出てきた。表示されている名前も、こはるだった。
友だちに追加して、メッセージを送る。
『瀬尾です。今日はありがとう。教えてもらった連絡先、これで合ってる?』
弁当を電子レンジに入れ、冷蔵庫からお茶を出したところで、スマホが鳴った。
『合ってるよ。連絡ありがとう!』
続けて、もう一通届いた。
『もう家に着いた?』
『着いた。これから晩飯』
『じゃあ、食べ終わったら少し電話できる?』
台所の時計を見る。いつも寝る時間までは、まだ余裕があった。
『大丈夫。食べ終わったら連絡する』
『うん。待ってるね』
俺はメモを畳み直し、ペンライトの横に置いた。
*
弁当の空き箱を片づけて、電話できると送ると、一分もしないうちに着信があった。
ソファに腰を下ろして通話を取る。
「もしもし、瀬尾くん?」
「うん。今日はお疲れさま」
「ありがとう。初めてのライブ、疲れなかった?」
「少し。ずっと立ってるのには慣れてないから。でも、尾崎がいろいろ教えてくれてたから助かった」
「どんなこと?」
「荷物はロッカーに預けろとか、水を買っておけとか。ペンライトの振り方も教わったけど、そこまでは覚えきれなかった」
電話の向こうで、水瀬が笑った。
「振ってくれてたよ。後ろのほうで、ちゃんと見えた」
「あれ、尾崎に借りたんだ。次までに自分のを買おうと思ってる」
「そっか。じゃあ、今度はそれを持って来てね」
会場で聞いた声より、ゆっくりしていた。ときどき、向こうで食器の触れ合う小さな音がする。
「水瀬も、もう帰ったのか?」
「うん。今、寮のリビングにいるの」
「寮があるんだな」
「事務所が借りてるマンションだよ。同じグループの子と二人で住んでる。部屋は別々で、台所とリビングが一緒なの」
彼女はそこで一度言葉を切った。
「瀬尾くんは? 今も実家に住んでるの?」
「実家は出た。そんなに離れてないけど、駅の近くで一人暮らししてる」
「じゃあ、家のことも全部自分でやってるんだ」
「まあ、弁当で済ませる日もあるけどな」
「私もあるよ。帰る時間がばらばらだから、寮でも一緒に食べられない日が多くて」
水瀬は、俺が今どんな仕事をしているのか、休日は何をしているのかを聞いた。
大学を出てから地元の会社で営業事務をしていること。休みは家にいる日も多いこと。尾崎とは大学で知り合ったことを話すと、彼女は一つずつ相槌を打った。
「尾崎くんとは、長い付き合いなんだね」
「一年のとき、同じ授業を取ってたんだ。それから、卒業しても何となく会ってる」
「そういう友達、いいね。私、小学校の子とはほとんど連絡が切れちゃってるから」
「俺も、小学校の同級生とは会ってないな」
「じゃあ、私だけ?」
「今、連絡を取ってるのは水瀬だけだと思う」
「……そっか」
少し間が空いて、コップを置くような音がした。
俺は背もたれに身体を預けた。換気のために開けた窓から、通りを走る車の音が入ってくる。
「瀬尾くん。今日、連絡先を渡したの、迷惑じゃなかった?」
水瀬の声が、さっきより小さくなった。
「迷惑? どうして?」
「久しぶりに会ったのに、私のほうから連絡先まで渡したから。断りにくかったんじゃないかなって」
「そんなことないよ。俺も、卒業してからどうしてたのか聞きたかったし」
「ほんとに?」
「今日も話せる時間が短かっただろ。だから、連絡できてよかったと思ってる」
向こうで小さく息を吐く音がした。
「よかった。渡すときは平気だったんだけど、帰ってきたら急に気になって」
「俺、帰りに買い物して、家に着いてから送ったんだ。待たせたなら、ごめん」
「ううん。今、話せてるから大丈夫」
水瀬はそう言って、少し笑った。
「私も、レッスン中とかはすぐ返せないことがあると思う。でも、あとでちゃんと読むから」
「俺も仕事中は返せないから、お互い、空いたときでいいんじゃないか」
「うん。そうしよう」
電話の向こうで椅子が小さく鳴った。水瀬が座り直したらしい。
「そういえば、瀬尾くん、高校はどこに行ったの?」
学校の名前を答えると、水瀬は「あ、知ってる」と声を上げた。通学の電車で、あそこの制服をよく見かけたという。
彼女は中学から高校まで合唱部を続けていた。朝練が早く、冬はまだ暗いうちに家を出ていたらしい。駅のホームで指先を擦り合わせながら、始発の次の電車を待っていたと話した。
俺は茶を飲みながら、あの小さな声で返事をしていた水瀬が、毎朝歌うために学校へ通っていた頃の話を聞いた。
*
電話を始めて二十分ほどたったとき、向こうで扉の開く音がした。
「小春。明日のスタジオ、九時半からになったって。連絡見た?」
水瀬とは違う、少し低い女の声だった。
「え、十時じゃなくて?」
水瀬が聞き返す。
「予約の都合で早まったみたい。あとで確認しておいて。……あ、ごめん。電話中だった?」
「うん。小学校の同級生。今日、ライブにも来てくれたんだ」
「そうなんだ。じゃあ、明日の連絡だけ確認しておいてね」
「あ、ちょっと待って。せっかくだから紹介するね。瀬尾くん、今の、真帆。同じグループで、一緒にここに住んでる子」
「ああ。さっき話してた子か」
「そう。スピーカーにしてもいい? 真帆にも挨拶してもらうから」
「いいよ」
スマホを置くような音がして、声に少し部屋の響きが混じった。
「初めまして、真帆です。今日はライブに来てくださって、ありがとうございました」
真帆、という名前に覚えがあった。さっき小春を呼んでいた、少し低い声にも。
「瀬尾です。こちらこそ、今日はありがとうございました」
返事がなかった。向こうで、冷蔵庫か何かの低い作動音が聞こえた。
「……瀬尾って、もしかして、東高の?」
「そうだけど。三枝か?」
「うん。三枝真帆」
そこで一度、短く息を吸う音がした。
「久しぶり」
「久しぶり。まさか、水瀬と同じグループだったとは……」
「え、二人、知り合いなの?」
水瀬の声が重なった。
「高校の同級生。同じクラスだったことがあるの」
真帆が答えた。
「ダンス、続けてたんだな」
「うん。今も毎日踊ってる」
「小学校の同級生と、高校の同級生が繋がるなんて、すごいね」
水瀬は嬉しそうだった。
「瀬尾くん、真帆は高校の頃からダンスうまかった?」
「うまかったよ。文化祭でも、真ん中で踊ってた」
「やっぱり。今も、分からない振りは真帆に教えてもらってるんだ」
「その代わり、歌は小春に見てもらってるけどね」
「真帆は青い衣装だったんだよ。瀬尾くん、分かった?」
水瀬に聞かれて、俺は今日のステージを思い出した。黄色いスカートを目で追っていて、ほかの四人の顔は、まだはっきり覚えていなかった。
「後ろのほうにいたから、顔までは分からなかったな」
「髪も短くしたからね。高校の頃とは、だいぶ違うと思う」
真帆が言った。
「それなら、次は前のほうで見てね。今度、初めてやる曲があるんだよ。真帆がメインで歌うの」
水瀬が続けた。
「真帆の歌、ちゃんと聴くのは初めてかもしれないな」
「高校のときは、ダンスばっかりだったからね。こんなに長く一人で歌うのは、今度が初めて。最初も、私から歌い始めるの」
真帆の声が少し弾んだ。
「ただ、踊りながらだと二番の入りが早くなっちゃって。今日も帰りの電車で、ずっと頭の中で数えてた」
「間奏の最後の振りから繋げてみようって、さっき話してたんだよね」
水瀬が応じた。
「うん。明日の練習の前に、もう一度だけ動画を見たい。小春のハモリが入ってくるところも、合わせたいし」
「いいよ。私も、そこ確認したかったから」
紙を広げるような音がした。
俺のテーブルには、弁当の袋と、お茶の入ったコップがある。同じ日曜の夜でも、向こうでは明日の練習の話が続いていた。
「これから確認するなら、俺はそろそろ切るよ。明日も早いんだろ」
「あ、ごめん。私が途中から入っちゃって」
真帆が言った。
「いや、俺も明日は仕事だから」
「あ、瀬尾くん。次のライブ、尾崎くんと来られそう?」
電話を切る前に、水瀬が聞いた。
「まだ予定は聞いてないけど、誘ってみるよ」
「じゃあ、そのとき真帆とも話していって。次の握手会、私と真帆はペアでやることになってるの」
「そうなのか」
「うん。だから、私のところに来てくれたら、真帆にも会えるよ」
水瀬は、ちょうどよかったね、と明るく言った。
「瀬尾も、友達と来るんでしょ。あんまり昔の話ばっかりになっても」
真帆が言うと、水瀬はすぐに答えた。
「尾崎くん、私たちのファンだから大丈夫だと思うよ。真帆と瀬尾くんが同級生だったって聞いたら、びっくりするだろうね」
「まあ、それは驚くだろうな」
「私も、高校の頃の瀬尾くんの話、聞きたいな。真帆、何か覚えてる?」
「急に言われても……」
「今じゃなくていいよ。次のライブまでに、思い出しておいて」
「……覚えてる範囲でよければ」
「うん。楽しみにしてる」
真帆はそれから、「小春、先に動画見てるね。電話は急がなくていいから」と言った。
椅子を引く音がして、足音が遠ざかった。
少しして、スマホを持ち上げる音がする。
「瀬尾くん?」
水瀬の声が、また耳元に戻った。
「聞こえてるよ」
「びっくりしたね。真帆とも知り合いだったなんて」
「俺も驚いた。卒業してからは会ってなかったから」
「じゃあ、今度は三人で昔話ができるね」
「そうだな」
向こうで、音楽が小さく流れ始めた。
「今の、新しい曲?」
「うん。真帆が動画をつけたみたい」
水瀬の声の後ろで、低めの歌声が二小節ほど続き、止まった。また同じところから、音楽が始まる。
「真帆の声、この曲にすごく合うんだよ。私、あの子が低いところを歌う声、好きなんだ」
彼女は、少し弾んだ声で言った。
「次、ちゃんと聴いてみるよ」
「うん。聴いてみて」
水瀬はそう答えてから、少し黙った。
「……今日は、連絡くれてありがとう。話せてよかった」
「俺も。また連絡するよ」
「うん。私からも送るね。仕事中だったら、あとで返してくれればいいから」
「分かった。じゃあ、練習頑張って」
「ありがとう。またね」
通話が切れた。
窓の外で、車が一台通り過ぎた。コップの茶を飲み切り、俺はスマホの画面を戻した。
*
電話をしている間に、尾崎からメッセージが届いていた。
『来月のライブ、告知出てた。新曲やるって。予定空いてる?』
添付された画像には、五人が並んでいた。
黄色い衣装の水瀬を見つけ、それから、青い衣装の真帆に目を移す。肩につかないくらいの髪を片側だけ耳に掛け、まっすぐ前を見て笑っていた。
高校の頃は、胸のあたりまである髪を後ろで一つに結んでいた。目元に引かれた青い線も、濃い色の口紅も、俺の知らないものだった。
尾崎に、次のライブも行くと返した。すぐに告知動画のリンクが送られてきた。
『今度、握手会がペアなんだって。こはるちゃんとまほちゃん、一緒のテーブルらしい』
続けて、もう一通。
『この二人のやり取り、面白いんだよ。配信も見とくといい』
動画を開くと、真帆がマイクを持っていた。
『新曲では、私がメインのパートを歌わせてもらいます。次のライブで初披露するので、楽しみにしていてください』
その隣で、水瀬が拍手をしている。
真帆が話し終えると、水瀬がその肩に手を置いた。何か声を掛けられた真帆が笑い、二人でカメラに手を振る。
動画が終わると、部屋が静かになった。
俺はスマホをテーブルに伏せた。背もたれに身体を預け、さっきの水瀬の声を思い出す。
ちょうどよかったね、と、ずいぶん俺と真帆が会うのを嬉しそうにしていた。
小さく息を吐いて、天井を見上げる。
「……元カノと会うのを、あんなに楽しみにされてもな」




