再会
「なあ。曲もまだよく知らないんだけど、何を話せばいいんだ?」
「初めて来ました、でいいよ。こはるちゃんは天使だから優しく話してくれるし」
尾崎は列の最後尾に立ち、その後ろに自分も並ぶ。
「それだけでいいのか」
「一枚だと十秒くらいだからな。挨拶してるうちに終わるよ。そんなに構えなくて大丈夫」
俺は参加券をポケットにしまい、列の先に目を向けた。
日曜日の午後。駅ビル六階のイベントホールには、空調が利いているのに、少し汗ばむような熱気がこもっていた。天井のスピーカーから明るい曲が流れ、その合間を縫って、スタッフが参加券の確認を呼びかけている。
俺たちの前には、二十人ほどが並んでいた。同じ名前の入ったタオルを肩に掛けた人。小さな鏡で前髪を直す人。スマホに書いた文章を、声を出さずに読み返している人もいる。
列の先に、白いパーティションで仕切られたブースがあった。入口のポスターでは、五人の女の子が色違いの衣装で笑っている。
尾崎が指さしたのは、薄い黄色を着た女の子だった。
春野こはる。
半年ほど前から、尾崎の口から何度も聞かされている名前だ。今日は俺を連れてくるために昼飯まで奢った。帰りのラーメンも、という約束で、俺はようやく参加券を買った。
「お前は、何を話すつもりなんだ?」
「新曲の感想。こはるちゃんのソロがすごくよかったから、それを伝えたくて」
尾崎は参加券を確かめ、それから首に掛けた小さな名札の向きを直した。透明なケースの中に、「おざき」と平仮名で書いた紙が入っている。
「それ、付ける決まりなのか?」
「いや、俺が勝手に付けてる。前は緊張して、名乗るのを忘れたんだ。今日は名前も覚えてもらえたらと思って」
尾崎はスマホの画面に映して、名札の位置をもう一度確かめた。
列は、思っていたより速く進んだ。
ブースに入った尾崎が、もう反対側の出口から出てくる。こちらに気づくと、ほっとしたような顔で親指を立てた。
「次の方、どうぞ」
俺の番だった。
手の中で少し曲がった参加券をスタッフに渡し、パーティションの角を曲がる。
「こんにちは、初めまして!」
白いテーブルの向こうで、彼女が笑った。
写真よりも小柄だった。淡い黄色の袖口に細かなレースがついていて、肩にかかった髪が、お辞儀に合わせてさらりと前へ落ちた。
差し出された両手に、右手を預ける。
指先は少し冷たく、掌は温かかった。爪の端に、小さな白い花が描いてある。
「今日は来てくれて、ありがとう」
彼女が俺を見上げた。
笑うと、左の目だけ少し細くなる。
その顔に、覚えがあった。
小学校で隣の席だった子が、こんな笑い方をしていた。顔を確かめるつもりで、少し身を屈めた。
「……水瀬?」
彼女の指が止まった。
俺の顔を見て、もう一度、確かめるように目を見た。
「……瀬尾くん?」
さっきの挨拶より低い声だった。彼女は俺の手を握り直し、テーブルのほうへ半歩出た。さっきよりも近くで、懐かしい顔が、目を大きくしている。
「う、うん。久しぶりだな。」
「お時間です」
すぐ横から声がした。スタッフが出口を示したので、俺は彼女に軽く会釈して、手を離す。まさか、そんな。
後ろを引かれる思いもしながら、仕方なく出口へ向かう。
「こんにちは。来てくれてありがとう」
彼女の明るい声を背中で聞きながら、出口を抜けた。
*
尾崎は出口の少し先で待っていた。俺を見ると一歩近づき、ブースのほうに目を向けた。
「今、名前呼ばれてたよな」
「うん。小学校の同級生だった。水瀬小春っていう子で、五年のとき、隣の席だったんだ」
人の流れを避けて壁際へ移った。尾崎はそこまでついてきてから、改めて俺の顔を見た。
「名前、教えたのか?」
「いや。俺が水瀬って呼んだら、向こうも思い出してくれたみたいだ」
尾崎は胸元の名札に触れ、少しの間ブースのほうを見ていた。
「昔は、よく話してた?」
「席が隣だったからな。日直も一緒だったし」
そう答えて、五年生の教室を思い出した。窓際から二列目の席に、水瀬が座っていた。
*
十二年前の秋、水瀬は俺の隣に座っていた。
机の横には、いつも黄色い給食袋が掛かっていた。授業中に当てられると、彼女は立ち上がる前に、開いた教科書を両手で一度押さえるのが、癖だった。
水瀬は、声がよく通る子だった。
音楽室で初めてその歌を聞いたとき、俺は歌詞を追うのをやめて、隣の列を見た。ほかの声と混じっていても、水瀬がどこを歌っているのか分かった。
何人かの男子が、それを真似して笑った。
最初は音楽の時間だけだった。そのうち、国語で教科書を読んでも、朝の出席で返事をしても、誰かが甲高い声で繰り返すようになった。
水瀬は手を挙げなくなった。
当てられると、口元へ髪を寄せるように俯いて、小さな声で答えた。聞こえない、と先生に言われるたび、俺の隣で肩が縮んだ。
あの日は、算数が始まる前の休み時間だった。
担任が忘れ物を取りに職員室へ戻ると、後ろの席の男子が椅子を傾けて言った。
「水瀬、なんか歌ってよ」
別の男子が、伴奏のつもりなのか、机の天板を指で叩き始めた。近くの席から笑い声が上がる。
水瀬は俯いたまま、小さく首を横に振った。
最初に歌うように言った男子は、それを見てもやめなかった。教室の後ろに貼られた「将来の夢」の作文を指さす。水瀬が、歌手になりたいと書いた作文だった。
「歌手になりたいんだろ? だったら、ここで一曲歌ってみろよ」
そう言って、その男子は周りの顔を見回して笑った。机を叩く音が大きくなる。
水瀬は何も答えなかった。開いたノートの端を握り、紙が折れても手を緩めようとしなかった。
俺は立ち上がった。
椅子の脚が床を擦った。思っていたより大きな音がして、前のほうの席まで振り返った。
「先生、呼んでくる」
俺が言うと、作文を指さしていた男子が手を下ろした。
「は? 冗談じゃん」
「じゃあ先生の前でもやれば」
言ってしまってから、膝が震えた。
誰かが舌打ちした。背中に消しゴムでも飛んできそうな気がして、振り返れなかった。
廊下に出ると、開いた窓から風が吹き込んでいた。半袖の腕が冷えた。それでも職員室に着くまで、握った手の中は汗で湿っていた。
担任に話すとき、うまく説明できなくて、同じことを二回言った。先生は最後まで聞いてから、机の上の出席簿を閉じ、一緒に教室へ戻ってくれた。
それで何もかもが解決したわけではなかった。しばらく俺は「水瀬の彼氏」と呼ばれたし、彼女はそれを聞くたび、申し訳なさそうに俯いた。
彼女の歌声を真似する声は減った。それでも音楽の時間、水瀬は前ほど大きな声では歌わなかった。
それから一週間ほどたった放課後、俺たちは日直の仕事で教室に残っていた。
机の列にはもう誰もいなかった。校庭から、ボールを蹴る音と、遠くで誰かを呼ぶ声が聞こえていた。
俺が窓際で黒板消しを叩いていると、日誌を閉じた水瀬がそばに来た。
「この前、先生に言ってくれてありがとう。……でも、ごめんね。瀬尾くんまで、からかわれるようになっちゃって」
俺は黒板消しを叩く手を止めた。
「水瀬が謝ることじゃないだろ。あいつらが勝手に言ってるだけなんだから」
「でも、私をかばったからだし」
「それでも、水瀬のせいじゃないよ」
彼女は日誌の角を指で撫でながら、小さく頷いた。まだ何か言いたそうだったので、俺は黒板消しを窓枠に置いた。
「今も、何か言われる?」
「最近は、あんまり。先生が気にしてくれてるから」
「そっか。でも、音楽の時間、前より歌わなくなったよな」
水瀬は少し迷ってから答えた。
「また笑われるかもって思うと、大きい声が出なくて」
西日が窓枠の形に床を照らしていた。さっき舞い上がったチョークの粉が、光の中をゆっくり落ちていった。
「俺は、水瀬の歌、好きだけど」
彼女が顔を上げた。
「……あんな声でも?」
「うん。音楽の時間、うまいなって思って聞いてた。だから、また歌ってほしい」
「歌っても、笑わない?」
「笑わないよ。もう一回聞きたい」
水瀬は俺の顔を見たまま、しばらく動かなかった。それから日誌を胸元へ抱き直し、ようやく少し笑った。
左の目だけ、少し細くなった。
六年生でクラスが離れて、卒業後は違う中学に進んだ。
連絡先を交換する習慣も、わざわざ会う口実を作る知恵も、当時の俺にはなかった。
*
「もう一回、並ぶんだろ?」
尾崎の声で、顔を上げた。
目の前には白いパーティションがあり、天井のスピーカーでは、さっきと同じ曲がまた流れていた。列の先で、スタッフが残り時間を案内している。
「さっき、こはるちゃんも呼んでたし。参加券なら、まだあそこで売ってるから」
尾崎が入口脇の販売カウンターを指す。
「そうする。悪いけど、もう少し待っててもらっていいか」
「いいよ。俺、あっちでグッズ見てる」
礼を言って、財布を取り出した。さっきは昼飯に釣られて買った券を、今度は自分から買いに行った。
十分ほどして、俺はまた同じ列に並んでいた。
参加券をまとめて出せば、その分長く話せるとスタッフに教わった。買い足した券を持って、順番を待つ。
さっきまで気にも留めなかった「お時間です」が、パーティションの向こうから何度も聞こえた。
アイドルになったのは、いつなのだろう。卒業してから、どこで何をしていたのだろう。
聞きたいことを考えているうちに、前にいた人が呼ばれた。その背中が見えなくなると、すぐに俺の番が来た。
ブースに入ると、彼女が小さく息を吐いた。
「戻ってきてくれたんだ。よかった。さっき、ほとんど話せなかったから」
「久しぶりだし、少し話してから帰ろうと思って」
差し出された手を、もう一度握る。
近くで見ると、目元に細かいラメが光っていた。黄色い衣装も、白い花を描いた爪も、俺の知っている水瀬にはなかった。
けれど、返事を待つときに少し首を傾ける仕草は、同じだった。
「ここでは、春野って呼ぶほうがいいのか?」
「水瀬でいいよ。瀬尾くんに春野って呼ばれると、ちょっと変な感じがする」
彼女は笑って、首を横に振った。俺も頷いた。
「今日は友達に誘われて来たんだ。アイドルをやってるなんて、知らなくて」
「そうだったんだ。じゃあ、本当に偶然だったんだね」
彼女は一度繋いだ手に目を落とし、また俺を見た。
「このグループに入ったのは去年なの。それまでもオーディションは受けてたんだけど、なかなか決まらなくて」
「そうだったんだ。歌、ずっと続けてたんだな」
「うん。……あの頃は、もう人前で歌うのをやめようと思ってたけど」
彼女の声が、少し静かになった。
「先生を呼びに行ってくれたことも、歌が好きだって言ってくれたことも、覚えてる。あのときは、ありがとう」
窓際で日誌を抱えていた姿を思い出した。
「覚えててくれたんだな。俺も、あの日のことはよく覚えてる」
「もう一回聞きたいって、言ってくれたでしょ。それが嬉しかったの。私の歌を聴きたい人もいるんだって思えて」
水瀬は照れたように笑った。
「そのあとも、すぐには大きな声で歌えなかったけどね。中学で合唱部に入って、少しずつ平気になったの」
俺の知らない制服を着て、知らない教室で歌っていた水瀬を想像した。彼女がここに立つまでに、俺の知らない時間がずいぶんあるのだと思った。
「今の歌も、聴いてみたいな。今日は握手会だけなんだよな?」
「うん。ライブは再来週。私のソロがある曲も歌うから、よかったら来て」
「行くよ。あとで日程、調べる」
「お時間です」
スタッフに声を掛けられ、彼女は手を緩めた。
「ありがとう。待ってるね」
俺も頷いて、手を離した。ブースを出て、グッズ売り場にいる尾崎を探した。
その日の帰り道、駅のホームでグループの名前を検索した。
二週間後の日曜日に、隣町のライブハウスで公演があった。
電車が来ても、俺は一本見送って、チケットの購入画面を開いていた。
*
二週間後の日曜日。夕方五時を少し過ぎた頃、俺は雑居ビルの地下へ続く階段を下りた。
壁には何枚ものライブのポスターが貼られていた。下の階から低い音が響いていて、一段下りるごとに、靴の裏にまで振動が伝わってくる。
尾崎は仕事で来られなかった。その代わり、初心者向けだという長いメッセージを送ってきた。持ち物の説明だけでスマホの画面三枚分あった。
受付でチケットを見せ、重い扉を押す。
中は薄暗く、思っていたより狭かった。黒い壁に囲まれたフロアの先に、腰ほどの高さのステージがある。人の間を抜ける勇気が出ず、俺は入口に近い後方で足を止めた。
借りたペンライトを点ける。黄色に変えるのに、ボタンを三回押し間違えた。
やがて客席の照明が落ちた。
周りの話し声が途切れ、いくつもの小さな光が持ち上がる。胸の奥に響く音と一緒に、ステージへ白い照明が走った。
五人が出てきた。
彼女は端から二番目にいた。
握手会では目の前にいた顔が、今日は人の肩越しに小さく見える。音に合わせてターンするたび、黄色いスカートの裾がふわりと広がった。
一曲目は、追いかけるだけで精一杯だった。隣の人を真似して手を動かし、振りを間違え、彼女を見失っては探した。
二曲目の途中、ほかの四人が少し下がった。
彼女が前に出る。
照明が一つ、彼女の顔を照らした。マイクを持ち直し、息を吸うのが見えた。
音楽の授業で聞いた声より、低く、強かった。
高い音へ上がるところに、知っている声があった。
俺はペンライトを振る手を止めた。
教室では、途中で笑い声が重なった。あれから水瀬は声を小さくして、俺は、もう一回聞きたいと言ったまま卒業した。
目の前の彼女は、まっすぐ客席を見ていた。
語尾を伸ばした声が、伴奏の上に残った。揺れずに続いて、最後に静かに消えた。
俺はペンライトを脇に挟んで、拍手をした。
まだ伴奏が残っていたので、少し早かった。
隣の人がちらりとこちらを見て、それから一緒に叩いてくれた。
ステージでは、彼女が次の立ち位置へ戻っていくところだった。耳にかかった髪を払い、小さく笑うのが見えた。
*
終演から三十分ほどたつと、客席の前方に長机が運び込まれた。
天井の照明がついたフロアは、さっきよりずっと狭く見えた。床には立ち位置を示す色テープがあり、スタッフがメンバーごとの列へ人を誘導している。
耳の奥には、まだ低い音が残っていた。
俺は買っておいた参加券を持ち、黄色い札の前に並んだ。
「瀬尾くん。今日はありがとう。二曲目、どうだった?」
順番が来ると、彼女は俺の顔を見るなり言った。
額に細かな汗が残っていた。片側の髪を耳に掛けていて、握手会のときには隠れていた、小さなイヤリングが見えた。
差し出された手に右手を預けると、水瀬は両手で軽く包んだ。
「一人で歌うところが特によかった。高い声を出したとき、あ、水瀬の声だって思った」
「昔と似てた?」
「うん。特に、高い音に上がるところ。でも、昔よりずっとうまくなってた」
彼女はほっとしたように笑った。
「よかった。来るって言ってくれてから、どんな感想を言ってくれるかなって、気になってたの」
彼女は俺の後ろへ目を向けた。
「今日は、この前のお友達も一緒?」
「いや、仕事で来られなくて。今日は一人なんだ」
「そうなんだ。初めての場所で、一人だと入りにくくなかった?」
「少し。どこに立てばいいか分からなくて、入口の近くにいた」
「うん。後ろのほうにいたよね。二曲目の前に見つけた」
「あそこまで見えるんだな」
「来るって言ってたから、探しちゃった」
彼女は髪を耳に掛け直して、俺を見た。
「それなら、次はもう少し前にいるよ」
「次も来てくれる?」
「うん。尾崎も誘ってみる」
水瀬は頷き、それから少し身を寄せた。
「瀬尾くんの話も、もっと聞かせて。今どうしてるのか、まだ全然聞けてないから」
「俺の話でよければ」
彼女は俺の手を包んでいた片方の手を、いったんテーブルの下へ引いた。戻ってきた指の間に、小さく折り畳んだ紙があった。
握っていた手が緩み、掌に紙の角が触れる。水瀬はその小さなメモを隠すように、俺の指をそっと閉じさせた。
「これは?」
握らされた紙に目を落とすと、彼女は声を落とした。
「私の連絡先。ここだと、ゆっくり話せないから。あとでメッセージしてね」
「わかった」
頷いた俺を見て、水瀬は口元に笑みを浮かべた。
「……秘密だよ?」
水瀬は唇に人差し指を当てた。しーっ、と小さく息を漏らして、俺の顔を覗き込むように笑った。




