夫婦
ひばりの扉を開けると、カウンターの奥から声が飛んできた。
「おう。お前か」
白い髪を後ろへ撫でつけた店主が、皿を拭く手を止めていた。シャツの袖を肘までまくり、腰には濃い茶色のエプロンを巻いている。眉間の皺まで、高校の頃に見たままだった。
「こんにちは」
「この前も来たんだってな。俺が奥に引っ込んでる間に」
「うん。カレー、うまかったよ」
「また辛い辛い言って、水ばっかり飲んでたんだろ」
「うまいから食べに来てるんだって」
「じゃあ先にそっちを言え」
「先に言っただろ」
背後で真帆が吹き出した。
「変わってないね、二人とも」
「お前も来たか。あっち、空いてるぞ」
店主が顎で窓際を示す。おばさんが水のグラスを四つ、トレーへ並べながら笑っていた。
「いらっしゃい。この間と同じ席でいい?」
「はい。ありがとうございます」
水瀬が答え、俺に続いて席へ向かった。
今日も俺の隣に水瀬、向かいに真帆、その隣に尾崎が座る。窓から差し込んだ光が、テーブルの端に細長く落ちていた。カウンターでは、新聞を読んでいた客が店主に片手を上げ、空いたカップを指している。
「瀬尾くん、お店の人ともああいうふうに話すんだね」
水瀬がメニューを開きながら言った。
「昔から、あんな感じだから」
「怒ってるわけじゃないんだよ。声が大きいだけ」
真帆が付け足すと、奥から「聞こえとるぞ」と返ってきた。
「ほら」
真帆が笑う。尾崎も笑いかけ、カウンターを一度確かめてから、改めてメニューへ目を落とした。
「俺、今日も中辛にする」
「辛口、もういいのか」
「前にひと口で分かった」
「じゃあ俺は辛口」
「私はオムライス。今日は、最初から決めてきたんだ」
水瀬が嬉しそうに指を置いた。真帆はドリアを選び、おばさんが注文を伝える。
その声を聞いた店主が、今度はこちらまで出てきた。
「お前ら、飯のあとも少し時間あるか」
「あるけど」
「味を見てもらいたいものがある」
「何?」
「プリン」
水瀬の顔が上がった。
「プリンもあるんですか?」
「まだメニューにはない。できたばっかりだ」
「食べてみたいです」
「そうか。なら、腹に少し空けとけ」
店主は頷き、厨房へ戻った。
尾崎が閉じかけたメニューをもう一度開く。
「……カレー、大盛りにしなくてよかった」
俺も頷いた。今日は、食後まで楽しめそうだった。
*
「昨日、藤崎さんも楽しんでくれたんだね」
真帆が言うと、尾崎の表情が少し緩んだ。
「うん。気に入った曲があったみたいで、ライブ映像のリンクを送ったんだ。帰ってから見てくれたって」
「藤崎さん、私にも連絡くれたよ」
水瀬が話に加わった。
「おすすめの曲、教えてくれてありがとうって。また行ってみたいとも言ってくれて」
俺は二人の話を聞いて、少し嬉しくなった。
「それなら、誘ってよかったな。最後のほう、普通に手を振ってたし」
「うん。また一緒に行けたらいいね」
水瀬が尾崎にも顔を向けると、彼は背筋を伸ばした。
「はい。ぜひ」
返事のあと、尾崎は一度俺を見た。何か言いたそうだったので待ったが、結局、グラスを持ち上げただけだった。
「瀬尾は、莉央にいっぱい感想を聞かれたんでしょ」
真帆が尋ねた。
「歌がよかったって言ったら、ほかにはって。こっちが考えてる間も、ずっと待ってくれるんだよ」
「言ってほしいところ、まだ残ってたんだろうね」
「ああ。最後に、途中の客席とのやり取りも楽しかったって言ったら、そうでしょって喜んでた」
「先に聞いてくれればよかったのにね」
「生誕でも、そんな感じだったな。真帆が褒めたとき」
真帆は口元を緩めた。
「莉央、続きを待つ顔、分かりやすいでしょ」
「分かってて、途中で止めてたのか」
「そんなに長くは待たせてないよ」
その返しが、どうも怪しかった。
俺が真帆を見ると、彼女もこちらを見て、少しだけ眉を上げる。
「……あの、俺も、昨日のやり取りよかったと思った」
尾崎が、なぜか真帆の顔を確かめてから口を挟んだ。
「いつものお客さんから声が飛んできて、ちゃんと返してたじゃん。初めて見た人も、一緒に笑える感じで」
「そうそう。藤崎も笑ってたな」
「莉央、ああいうの上手なんだよね」
真帆も頷いた。尾崎はそこで一度、彼女のほうへ体を向けた。
「ごめん。話、途中だった?」
「ううん。大丈夫だよ」
真帆が笑うと、尾崎の肩が少し下がった。
その横顔へ、水瀬が笑いかける。
「尾崎くん、そういうところも見てくれてるんだね」
「あ、はい。普通に、楽しかったので」
下がったばかりの肩が、また上がった。尾崎は背筋を伸ばし、水瀬へ笑い返す。
やっぱり、尾崎がいてくれると話しやすい。真帆とも、変に構えずに話せている。
「お前がいてくれて、助かるよ」
俺が言うと、尾崎の笑顔が止まった。
「……そうか」
水瀬へ戻れば、嬉しそうに頷かれる。真帆を見れば、彼女も微笑んでいる。
最後に俺へ視線が戻ってきたときには、尾崎の眉がずいぶん下がっていた。
「……何?」
「いや。カレー、そろそろかなって」
「そんなに腹減った?」
「減ってはいる」
尾崎はグラスへ手を伸ばしかけ、途中で下ろした。テーブルの下で、片手がみぞおちのあたりを押さえている。
「大丈夫か?」
「……うん。とりあえず、食べるほうに集中したい」
「そうだな。来たら食おう」
俺が頷くと、尾崎も頷いた。
カレーが来れば、少し落ち着くだろう。
厨房から、皿を置く音がした。
尾崎が、誰よりも早くそちらを向いた。
*
カレーが運ばれてくると、香辛料の匂いがテーブルに広がった。
水瀬のオムライスは、薄い卵で丸く包んだ昔ながらの形だった。赤いソースが中央を横切り、隣には小さなサラダが添えられている。
「わあ。きれい」
水瀬がスプーンを入れ、黄色い卵の下から出てきたライスを覗いた。
「食べたかったんだよね、これ」
「前は、メニュー見てるだけだったもんな」
「うん。今日は最初から最後まで食べる」
「前も最後までは食べてたよ」
真帆が笑いながら言ったところへ、店主がドリアを持ってきた。
「熱いぞ。すぐ口へ入れるなよ」
「分かってる」
「お前は、分かってても食うから言っとる」
「もう高校生じゃないんだけど」
「じゃあ、ちゃんと冷ませるな」
真帆は言い返しかけて、皿へ目を落とした。
縁のチーズが、濃いきつね色に焼けている。彼女はそこの少し手前へスプーンを入れ、小さく笑った。
「ここ、好きなんだよね」
「焦げ目、前より多くない?」
俺が言うと、店主は皿を一度見た。
「たまたまだ」
「あら。さっき、その子のはもう少し焼くって――」
「おい。カウンター、コーヒー待ってるぞ」
店主は、おばさんの言葉の途中で向きを変えた。
真帆がその背中に「ありがとう」と声をかける。片手が、肩の高さまで上がった。
水瀬が俺のほうへ顔を寄せた。
「覚えててくれたんだね」
「忘れたみたいな顔、するけどな」
俺が答えると、真帆が笑った。
しばらく、四人とも料理を食べていた。
水瀬はオムライスをひと口食べるたび、次はソースを多めにしたり、卵を大きくすくったりしている。真帆のドリアからはまだ湯気が立ち、尾崎のスプーンは、さっきよりずっと休まずに動いていた。
俺もカレーを食べ、水を飲んだ。
「今日も辛い?」
真帆に聞かれ、頷く。
「でも、うまい」
「それ、本人に言ってあげたら?」
「入ったときに言った」
「何回でも嬉しいんじゃない」
真帆はそう言い、自分のドリアへ息を吹きかけた。
*
「そういえば、莉央と生誕祭の時に話してたポーズの練習はしたの?」
俺が尋ねると、真帆はスプーンを置いた。
「少しだけね。莉央、真面目だから、やるってなったら何回もやるんだよ」
「本番のあとも?」
「うん。あの表紙の写真、また見ながら」
「白石紗月ちゃんの?」
水瀬が顔を上げた。
「そう。髪を上げてるやつ」
「私、あの号も持ってる。真帆が見てたから、一緒に見直したんだ」
「二人とも、好きなんだな」
俺が言うと、水瀬は大きく頷いた。
「うん。笑ってる写真も好きなんだけど、ああいう顔もできるんだって、びっくりして。服まで違って見えるの」
「顔だけ真似しても、同じにならないんだよね」
真帆は肩へ指を添え、少し引いてみせた。
「肩とか、手の置き方とか。私は、服の線がきれいに見える立ち方をよく見てる」
「だから、あのとき教えられたのか」
「見てるのと、自分でできるのは別だけどね」
「あれ、客席もすごかったですよ。声、上がってたし」
尾崎が言った。
真帆は礼を言ってから、少し照れたように笑った。
「でも、本人が同じことをしたら、もっと違うと思う。見てみたいな、近くで」
「分かる。もし仕事で会えたら、私、お礼言いたいんだ」
水瀬が両手を膝へ置いた。
「いつも参考にしてますって。撮影の服も、あのページがあったから決められたし」
「その話、全部するの?」
「長いかな」
「今の調子だと、どの号のどのページかまで説明しそう」
「……言いたいことは、いっぱいあるけど」
水瀬はそこで、少し肩をすぼめた。
「目の前にいたら、たぶん、こんにちはって言うだけで緊張すると思う」
「二人も、そうなるんだな」
思わず言うと、水瀬がこちらを見た。
「なるよ。ずっと見てた人が、本当に目の前にいるんだよ?」
「そういうの、あるよな」
尾崎が深く頷いた。水瀬と目が合うと、すぐにグラスへ手を伸ばす。
真帆がその様子を見て、口元を緩めた。
「真帆ちゃんは、普通に話せそうだけど」
尾崎に言われ、今度は彼女も考える顔になった。
「話せるとは思うよ。そのあと、何を話したか覚えてるかは分からないけど」
「真帆もじゃん」
「一緒に写真を撮ってもらえたら嬉しいな、とは思ってる」
「私も! あ、でも、頼めるかな」
水瀬が嬉しそうに身を乗り出し、すぐに考え込んだ。真帆も、その頼み方について真剣に考え始める。
俺たちと会うときには、二人とも自分から話しかけてくれた。
そういう二人が、挨拶と写真のお願いで迷っている。まだ会うと決まったわけでもないのに、少しおかしかった。
「今から考えておけば、大丈夫なんじゃない?」
俺が言うと、尾崎が顔を向けた。
「考えたことが、そのまま言えるとは限らないんだよ」
ずいぶん実感のこもった声だった。
*
食事の皿が下がるころには、カウンターの客も帰っていた。
奥の席にいた二人連れが会計を済ませ、おばさんに声をかけて出ていく。扉のベルが鳴り終わると、厨房からトレーを持った店主が現れた。
「腹、残ってるな」
「プリンの分は」
俺が答えると、店主は四人の前へ、小さなガラスの器を二つずつ並べた。
片方には薄い琥珀色のカラメル、もう片方には、それより濃い茶色のカラメルがかかっている。どちらも試食用なのか、普通の半分ほどの大きさだった。
「二種類も?」
「そっちは、うちのが作った。こっちは俺だ」
店主が濃いほうを指した。おばさんが小さなスプーンを配りながら、横から覗く。
「比べたいっていうから、私も作ったのよ」
「同じ材料でも、作り方で変わるからな」
店主は腕を組んだ。
「どっちがいい。遠慮はいらんぞ」
「じゃあ、いただきます」
水瀬がスプーンを取った。
最初はおばさんのほうだった。すくうと、切り口がゆっくり沈む。ひと口食べた水瀬の目が細くなり、今度はじいちゃんのほうへスプーンが移った。
こちらは、すくった形がしっかり残っている。水瀬は少し考え、二つを交互に見た。
「どうだ」
「どっちも、おいしいです」
「それは分かった。どっちが好きだ」
水瀬は迷ってから、薄い色のカラメルの器を指した。
「私は、こっちです。口に入れると、すぐ柔らかくなる感じが好きで」
「……そっちか」
店主は組んだ腕をほどき、また組み直した。
「まあ、好みはある。好みはな」
二度頷いてから、真帆へ向き直る。
「お前は?」
「私も、こっちかな」
「お前もか!」
店主がのけぞった。すぐに身を乗り出し、真帆の前の器を交互に覗き込む。
「こっちも、ちゃんと食ったか?」
「食べたよ。卵の味がして、おいしかった。でも、また食べたいのはこっち」
「また食べたいのも!?」
声が大きくなった。
真帆がスプーンを持ったまま笑う。おばさんは、空いたトレーを胸の前に抱え直した。
「遠慮はいらないんでしょ」
「いらん。遠慮はいらんが、二人続けてそっちへ行かんでもいいだろう」
「じゃあ、一人に嘘ついてもらう?」
「それは駄目だ!」
即答してから、店主は口をへの字に曲げた。
真帆がとうとう声を立てて笑った。店主は何か言いかけたが、言う先がなくなったらしく、今度はプリンを睨んだ。
俺もひと口食べようとしたところで、その目がこちらへ向いた。
「瀬尾」
「何」
「お前は昔から、うちの味が分かるやつだったな」
「食べる前にそういうこと言うの、やめてくれ」
尾崎が、妙に深く頷いた。
「分かる」
「何が?」
「いや。先に頼りにされると、困るよなって」
じいちゃんと俺を見比べてから、尾崎も自分のプリンへ目を落とした。
食べてみると、確かにかなり違っていた。
おばさんのは、舌の上でほどけて、甘さが素直に広がる。じいちゃんのは少し固めで、噛むと卵の味がした。そのあとに、カラメルの苦さが残る。
「俺、こっち好きです」
先に尾崎が言った。指しているのは、じいちゃんのほうだった。
店主が、がばっと尾崎へ向き直った。
「どこがいい?」
「え。あ、カラメルがちょっと苦いのが、いいなって」
「そこだ!」
さっきまで組んでいた腕がほどけ、尾崎の前の器を指す。
「甘いだけじゃ、最後まで同じだろ」
尾崎が頷き終わる前に、次の言葉が出てきた。
「卵のほうにも、ちゃんと味がある。だから、ここで少し苦くしておくと――」
「瀬尾くんの感想、まだ聞いてないよ」
おばさんに言われ、じいちゃんが俺へ向き直る。
さっきより、明らかに期待されていた。
「俺も、今日はこっちかな。固いほうが好きだから」
「そうだろ」
店主が大きく頷いた。俺と尾崎を順に見てから、妻へ顔を戻す。
「二対二だ」
指まで二本立ててみせる。
「そうねえ」
「負けてはおらん」
「私、勝ったとも言ってないけど」
「念のためだ」
おばさんがカウンターへ戻ろうとすると、店主はその背中へもう一度、二本の指を突き出した。
「引き分けだからな!」
「聞こえてるよ」
真帆が俯き、水瀬が口元を押さえた。俺も、スプーンを置いてから笑った。
店主は自分で試食用の器を一つ持ってくると、カウンターの端でおばさんのプリンを食べ始めた。
ひと口食べ、器を見下ろす。
もうひと口食べてから、眉間に皺を寄せた。
「……柔らかいな」
「さっきから、そう言ってもらってるでしょう」
おばさんがコーヒーカップを並べる。
じいちゃんは返事をせず、残りも食べた。眉間の皺を深くしたまま、器の底に残ったカラメルまでスプーンでさらっている。
「どう? 私のもおいしいでしょ」
「まだ確かめとる」
「もう空っぽよ」
スプーンが止まった。
じいちゃんは器を台へ置き、俺たちのほうを見た。四人そろって見ていたせいで、今度は勢いよく厨房へ向き直った。
*
コーヒーが来ると、真帆は残していた濃いカラメルを、プリンに絡めてすくった。
「あ。やっぱり、これと合う」
ひと口飲んでから、じいちゃんの背中へ声をかける。
「ねえ。こっちのプリン、次に来たときも頼める?」
店主が振り返った。
「……俺のか?」
返事を待つ間に、もうテーブルの横まで来ていた。
「うん。今度はコーヒーと一緒に、ひとつ食べてみたい」
「お前、さっきは、そっちがまた食いたいって」
「それも食べたいよ。でも、こっちもおいしかったから」
真帆が自分の器を少し持ち上げた。
「両方、メニューに載せたら?」
店主は彼女の手元を見て、それから顔を見た。
「そうか! 次も食うか!」
俺はカップを口元から離した。
じいちゃんの口が大きく開き、歯が見えていた。さっきまで下がっていた眉も、頬も、まとめて持ち上がっている。
「おい、聞いたか。俺のも次に食いたいってよ!」
「聞こえてるよ。すぐそこにいるんだから」
それでもじいちゃんはカウンターまで行って、妻の顔を覗き込んだ。
「コーヒーと一緒に、一つ食いたいって!」
「そこも聞いたよ」
今度はこちらへ戻ってくる。真帆が笑いをこらえながら頷くと、じいちゃんも何度も頷いた。
「よし。今度は大きいので出してやる。これくらいあるやつだ」
両手で丸を作ってみせる。
真帆の笑顔が止まった。
「……一人分?」
「食えるだろ。好きなんだから」
「好きでも、それは大きいよ」
俺が言うと、おばさんもその丸を見た。
「あんた、その大きさじゃ私たち二人でも食べきれないよ」
じいちゃんは両手の間を狭めた。それでもまだ大きい。真帆が首を傾げると、もう少し狭くなった。
「……これならどうだ」
「うん。それなら食べたい」
「よし! じゃあ、上にクリームも――」
「また増やしてる」
おばさんに言われ、じいちゃんの手が止まった。
水瀬が口元を押さえた。尾崎はもう隠さず笑っている。
「そんなに喜んでくれるなら、また来ないとね」
真帆が言うと、じいちゃんは慌てて腕を組んだ。
「客が食いたいと言うなら、作る。それだけだ」
「そうね。大きいのにクリームまでつけてね」
「……お前は黙っとれ」
妻へ顔を向けた拍子に、緩んだ口元がまた見えた。じいちゃんは唇を結び直したが、真帆の「楽しみにしてる」で、すぐに歯が覗いた。
*
「その顔、撮ってもらえばいいのに」
おばさんが、カウンターから出てきながら言った。
「どの顔だ」
「今の嬉しそうな顔。お客さんに見せるの、珍しいんだから」
「いつもと同じだ」
「撮りましょうか?」
水瀬がスマホを手にした。
店主はそちらを見て、前掛けを両手でぴんと引っ張った。髪を撫でつけ、襟を直し、なぜか一度ほどいた腕をまた組む。
「どこに立てばいい」
「カウンターの前なら――」
「ここか」
水瀬が言い終わる前に、店主はカウンターへ戻って背筋を伸ばした。
撮られる気は、ずいぶんあるらしい。
水瀬は椅子を引き、テーブルの脇へ立った。カウンターの前にいる店主へスマホを向ける。
「ここなら、お店の中も入りますね。もうちょっと、こっちを向いてもらってもいいですか」
「こうか」
「はい。あとは、その……少し笑ってもらえると」
「笑っとる」
水瀬は画面から顔を上げた。
真帆も、じいちゃんを見る。
どちらも、すぐには何も言わなかった。
「何だ」
「さっきのほうが、よかったかなって」
水瀬が遠慮がちに答えた。
「俺はずっとこの顔だ」
「違ったよ」
真帆の返事は早かった。
「さっきは、もっと嬉しそうだった」
「そう言われたってな」
店主はぐっと口の両端を引き上げた。眉間の皺はそのままで、歯だけが見えた。
尾崎が咳をした。慌てて口を押さえたが、肩は上下し続けている。
「おい。今、笑ったな」
「すみません」
「笑えと言うから笑ったんだぞ」
「あんた、力を入れすぎなのよ」
おばさんが夫の肩をぽんと叩いた。店主の肩が下がり、同時に口元も元へ戻った。
「そのまま肩の力を抜いて、にっこりしてみてください」
水瀬に言われ、店主が口の両端を上げる。肩も一緒に持ち上がった。
今度は水瀬まで、スマホを下げて笑いだした。
「じゃあ、私も入ろう」
おばさんが、夫の隣へ立った。
「一人だから構えちゃうんでしょ。ほら、もう少し詰めて」
「十分入るだろ」
「二人で撮るんだから」
おばさんが、じいちゃんの腕へ自分の腕を通した。
「お、おい!」
じいちゃんの片足が横へ逃げた。おばさんも一歩ついていく。
「何?」
「くっつきすぎだ。若いのが見とるだろうが」
「写真を撮ってもらうんだから、見ててもらわないと」
腕を組み直され、じいちゃんの背筋がさっきより伸びた。
「瀬尾。お前、にやにやするな」
「だって、そんなに慌てるから」
「慌てとらん!」
声を張ったまま妻を見下ろす。おばさんがにっこり笑い返すと、じいちゃんは急いで正面を向いた。耳まで真っ赤だった。
「撮れ。今だ。早く撮れ」
「こっち見てくださいね」
水瀬が言った瞬間、おばさんが夫へ顔を寄せた。
「あなた、カメラはこっち」
「分かっとる!」
その声が、少し裏返った。
俺も、もう笑いをこらえられなかった。
水瀬が一枚撮った。
「はい、撮れました」
「よし。もういいな」
じいちゃんの肩から力が抜けた。隣でおばさんが楽しそうに笑っている。その顔を見て、じいちゃんも口を開きかけ、つられたように笑った。
水瀬がスマホを下ろしかけると、真帆が横から小さく声をかけた。
「もう一枚。今、いい顔してる」
「うん」
水瀬はすぐに撮った。
じいちゃんが何か言おうとしたときには、おばさんが「ありがとう」とこちらへ歩いてきていた。
「見せてもらっていい?」
「はい。二枚目、すごくいいと思います」
水瀬が画面を向ける。
俺も席から覗いた。
カウンターの前で、おばさんが晴れやかに笑っている。隣のじいちゃんも、歯を見せて笑っていた。あれだけカメラを見ろと言われたのに、二枚目では妻の顔しか見ていない。
さっき、一人で作ろうとしていた顔とは全然違った。
「あら。いいじゃない」
おばさんが言った。
「どれだ」
じいちゃんも寄ってきたが、画面を見た途端に足を止めた。
「……一枚目は」
水瀬が戻してみせる。
眉間に皺を寄せた店主が、正面を向いていた。
四人とも黙った。
「二枚目だな」と尾崎が言った。
「二枚目だね」と真帆が続けた。
俺も頷くと、じいちゃんは画面を覗き込み、すぐに顔を背けた。
「……好きにしろ」
「これ、私のにも送ってもらえる?」
「はい。二枚とも送りますね」
「一枚目はいい!」
じいちゃんがすかさず振り返った。
「二枚目だけでいい。こっちだ。間違えるなよ」
画面を指す手が、やけに真剣だった。
「好きにしていいんじゃなかったの?」
真帆が言うと、その手が引っ込んだ。
おばさんが笑いながらスマホを取りに戻る。じいちゃんはその背中を見送り、水瀬へ顔を寄せた。
「俺のにも送っといてくれ」
「はい。スマホ、お持ちですか?」
じいちゃんは胸のポケットを探り、腰のポケットを叩いた。どちらにもなかったらしい。厨房へ向かいかけ、途中で振り返る。
「待っとれ。消すなよ!」
「消しませんから、大丈夫ですよ」
水瀬の返事を聞く前に、じいちゃんはもう厨房へ入っていた。
「私から送るのにねえ」
戻ってきたおばさんの言葉で、四人ともまた笑ってしまった。
*
写真を渡し終え、水瀬が席へ戻った。
じいちゃんはカウンターの中で、さっき使ったプリンの器を洗っている。おばさんはスマホをしまい、入口のメニュー札を直しに行った。
「よかったね。いい写真が撮れて」
真帆が言うと、水瀬は椅子をテーブルへ寄せながら頷いた。
「うん。二人で並んだら、全然違う顔になったね」
「あの顔、俺も初めて見た」
俺が答えると、尾崎が笑った。
「また来たとき、思い出しそう」
「本人の前で笑うなよ」
「お前こそ」
俺はカップを持ち上げた。
まだ温かかった。ひと口飲み、窓の外を見る。通りを歩く人の影が、テーブルの端を横切った。
今日は、ずいぶん笑った。
真帆とも普通に話せたし、水瀬も楽しそうだった。尾崎も、プリンの話をしている間は気楽に笑っていた。
そろそろ帰る時間かなと思い、カップを置くと、水瀬がバッグから小さなポーチを取り出した。
「私、ちょっとお手洗いに行ってくるね」
「うん」
真帆が頷いた。水瀬の姿が店の奥へ消れるまで見送ってから、テーブルへ少し身を寄せる。
「瀬尾」
声が、さっきより小さかった。
「帰る前に、少し話せる?」
「……うん?」
「二人で。ちょっとだけ」
真帆が真剣な表情で視線を向けてきた。




