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友人の推しアイドル握手会に強制連行された結果。そこにいたのはかつていじめから助けた同級生だった件  作者: 午前の緑茶


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13/14

夫婦

 ひばりの扉を開けると、カウンターの奥から声が飛んできた。


「おう。お前か」


 白い髪を後ろへ撫でつけた店主が、皿を拭く手を止めていた。シャツの袖を肘までまくり、腰には濃い茶色のエプロンを巻いている。眉間の皺まで、高校の頃に見たままだった。


「こんにちは」


「この前も来たんだってな。俺が奥に引っ込んでる間に」


「うん。カレー、うまかったよ」


「また辛い辛い言って、水ばっかり飲んでたんだろ」


「うまいから食べに来てるんだって」


「じゃあ先にそっちを言え」


「先に言っただろ」


 背後で真帆が吹き出した。


「変わってないね、二人とも」


「お前も来たか。あっち、空いてるぞ」


 店主が顎で窓際を示す。おばさんが水のグラスを四つ、トレーへ並べながら笑っていた。


「いらっしゃい。この間と同じ席でいい?」


「はい。ありがとうございます」


 水瀬が答え、俺に続いて席へ向かった。


 今日も俺の隣に水瀬、向かいに真帆、その隣に尾崎が座る。窓から差し込んだ光が、テーブルの端に細長く落ちていた。カウンターでは、新聞を読んでいた客が店主に片手を上げ、空いたカップを指している。


「瀬尾くん、お店の人ともああいうふうに話すんだね」


 水瀬がメニューを開きながら言った。


「昔から、あんな感じだから」


「怒ってるわけじゃないんだよ。声が大きいだけ」


 真帆が付け足すと、奥から「聞こえとるぞ」と返ってきた。


「ほら」


 真帆が笑う。尾崎も笑いかけ、カウンターを一度確かめてから、改めてメニューへ目を落とした。


「俺、今日も中辛にする」


「辛口、もういいのか」


「前にひと口で分かった」


「じゃあ俺は辛口」


「私はオムライス。今日は、最初から決めてきたんだ」


 水瀬が嬉しそうに指を置いた。真帆はドリアを選び、おばさんが注文を伝える。


 その声を聞いた店主が、今度はこちらまで出てきた。


「お前ら、飯のあとも少し時間あるか」


「あるけど」


「味を見てもらいたいものがある」


「何?」


「プリン」


 水瀬の顔が上がった。


「プリンもあるんですか?」


「まだメニューにはない。できたばっかりだ」


「食べてみたいです」


「そうか。なら、腹に少し空けとけ」


 店主は頷き、厨房へ戻った。


 尾崎が閉じかけたメニューをもう一度開く。


「……カレー、大盛りにしなくてよかった」


 俺も頷いた。今日は、食後まで楽しめそうだった。


 *


「昨日、藤崎さんも楽しんでくれたんだね」


 真帆が言うと、尾崎の表情が少し緩んだ。


「うん。気に入った曲があったみたいで、ライブ映像のリンクを送ったんだ。帰ってから見てくれたって」


「藤崎さん、私にも連絡くれたよ」


 水瀬が話に加わった。


「おすすめの曲、教えてくれてありがとうって。また行ってみたいとも言ってくれて」


 俺は二人の話を聞いて、少し嬉しくなった。


「それなら、誘ってよかったな。最後のほう、普通に手を振ってたし」


「うん。また一緒に行けたらいいね」


 水瀬が尾崎にも顔を向けると、彼は背筋を伸ばした。


「はい。ぜひ」


 返事のあと、尾崎は一度俺を見た。何か言いたそうだったので待ったが、結局、グラスを持ち上げただけだった。


「瀬尾は、莉央にいっぱい感想を聞かれたんでしょ」


 真帆が尋ねた。


「歌がよかったって言ったら、ほかにはって。こっちが考えてる間も、ずっと待ってくれるんだよ」


「言ってほしいところ、まだ残ってたんだろうね」


「ああ。最後に、途中の客席とのやり取りも楽しかったって言ったら、そうでしょって喜んでた」


「先に聞いてくれればよかったのにね」


「生誕でも、そんな感じだったな。真帆が褒めたとき」


 真帆は口元を緩めた。


「莉央、続きを待つ顔、分かりやすいでしょ」


「分かってて、途中で止めてたのか」


「そんなに長くは待たせてないよ」


 その返しが、どうも怪しかった。


 俺が真帆を見ると、彼女もこちらを見て、少しだけ眉を上げる。


「……あの、俺も、昨日のやり取りよかったと思った」


 尾崎が、なぜか真帆の顔を確かめてから口を挟んだ。


「いつものお客さんから声が飛んできて、ちゃんと返してたじゃん。初めて見た人も、一緒に笑える感じで」


「そうそう。藤崎も笑ってたな」


「莉央、ああいうの上手なんだよね」


 真帆も頷いた。尾崎はそこで一度、彼女のほうへ体を向けた。


「ごめん。話、途中だった?」


「ううん。大丈夫だよ」


 真帆が笑うと、尾崎の肩が少し下がった。


 その横顔へ、水瀬が笑いかける。


「尾崎くん、そういうところも見てくれてるんだね」


「あ、はい。普通に、楽しかったので」


 下がったばかりの肩が、また上がった。尾崎は背筋を伸ばし、水瀬へ笑い返す。


 やっぱり、尾崎がいてくれると話しやすい。真帆とも、変に構えずに話せている。


「お前がいてくれて、助かるよ」


 俺が言うと、尾崎の笑顔が止まった。


「……そうか」


 水瀬へ戻れば、嬉しそうに頷かれる。真帆を見れば、彼女も微笑んでいる。


 最後に俺へ視線が戻ってきたときには、尾崎の眉がずいぶん下がっていた。


「……何?」


「いや。カレー、そろそろかなって」


「そんなに腹減った?」


「減ってはいる」


 尾崎はグラスへ手を伸ばしかけ、途中で下ろした。テーブルの下で、片手がみぞおちのあたりを押さえている。


「大丈夫か?」


「……うん。とりあえず、食べるほうに集中したい」


「そうだな。来たら食おう」


 俺が頷くと、尾崎も頷いた。


 カレーが来れば、少し落ち着くだろう。


 厨房から、皿を置く音がした。


 尾崎が、誰よりも早くそちらを向いた。


 *


 カレーが運ばれてくると、香辛料の匂いがテーブルに広がった。


 水瀬のオムライスは、薄い卵で丸く包んだ昔ながらの形だった。赤いソースが中央を横切り、隣には小さなサラダが添えられている。


「わあ。きれい」


 水瀬がスプーンを入れ、黄色い卵の下から出てきたライスを覗いた。


「食べたかったんだよね、これ」


「前は、メニュー見てるだけだったもんな」


「うん。今日は最初から最後まで食べる」


「前も最後までは食べてたよ」


 真帆が笑いながら言ったところへ、店主がドリアを持ってきた。


「熱いぞ。すぐ口へ入れるなよ」


「分かってる」


「お前は、分かってても食うから言っとる」


「もう高校生じゃないんだけど」


「じゃあ、ちゃんと冷ませるな」


 真帆は言い返しかけて、皿へ目を落とした。


 縁のチーズが、濃いきつね色に焼けている。彼女はそこの少し手前へスプーンを入れ、小さく笑った。


「ここ、好きなんだよね」


「焦げ目、前より多くない?」


 俺が言うと、店主は皿を一度見た。


「たまたまだ」


「あら。さっき、その子のはもう少し焼くって――」


「おい。カウンター、コーヒー待ってるぞ」


 店主は、おばさんの言葉の途中で向きを変えた。


 真帆がその背中に「ありがとう」と声をかける。片手が、肩の高さまで上がった。


 水瀬が俺のほうへ顔を寄せた。


「覚えててくれたんだね」


「忘れたみたいな顔、するけどな」


 俺が答えると、真帆が笑った。


 しばらく、四人とも料理を食べていた。


 水瀬はオムライスをひと口食べるたび、次はソースを多めにしたり、卵を大きくすくったりしている。真帆のドリアからはまだ湯気が立ち、尾崎のスプーンは、さっきよりずっと休まずに動いていた。


 俺もカレーを食べ、水を飲んだ。


「今日も辛い?」


 真帆に聞かれ、頷く。


「でも、うまい」


「それ、本人に言ってあげたら?」


「入ったときに言った」


「何回でも嬉しいんじゃない」


 真帆はそう言い、自分のドリアへ息を吹きかけた。


 *


「そういえば、莉央と生誕祭の時に話してたポーズの練習はしたの?」


 俺が尋ねると、真帆はスプーンを置いた。


「少しだけね。莉央、真面目だから、やるってなったら何回もやるんだよ」


「本番のあとも?」


「うん。あの表紙の写真、また見ながら」


「白石紗月ちゃんの?」


 水瀬が顔を上げた。


「そう。髪を上げてるやつ」


「私、あの号も持ってる。真帆が見てたから、一緒に見直したんだ」


「二人とも、好きなんだな」


 俺が言うと、水瀬は大きく頷いた。


「うん。笑ってる写真も好きなんだけど、ああいう顔もできるんだって、びっくりして。服まで違って見えるの」


「顔だけ真似しても、同じにならないんだよね」


 真帆は肩へ指を添え、少し引いてみせた。


「肩とか、手の置き方とか。私は、服の線がきれいに見える立ち方をよく見てる」


「だから、あのとき教えられたのか」


「見てるのと、自分でできるのは別だけどね」


「あれ、客席もすごかったですよ。声、上がってたし」


 尾崎が言った。


 真帆は礼を言ってから、少し照れたように笑った。


「でも、本人が同じことをしたら、もっと違うと思う。見てみたいな、近くで」


「分かる。もし仕事で会えたら、私、お礼言いたいんだ」


 水瀬が両手を膝へ置いた。


「いつも参考にしてますって。撮影の服も、あのページがあったから決められたし」


「その話、全部するの?」


「長いかな」


「今の調子だと、どの号のどのページかまで説明しそう」


「……言いたいことは、いっぱいあるけど」


 水瀬はそこで、少し肩をすぼめた。


「目の前にいたら、たぶん、こんにちはって言うだけで緊張すると思う」


「二人も、そうなるんだな」


 思わず言うと、水瀬がこちらを見た。


「なるよ。ずっと見てた人が、本当に目の前にいるんだよ?」


「そういうの、あるよな」


 尾崎が深く頷いた。水瀬と目が合うと、すぐにグラスへ手を伸ばす。


 真帆がその様子を見て、口元を緩めた。


「真帆ちゃんは、普通に話せそうだけど」


 尾崎に言われ、今度は彼女も考える顔になった。


「話せるとは思うよ。そのあと、何を話したか覚えてるかは分からないけど」


「真帆もじゃん」


「一緒に写真を撮ってもらえたら嬉しいな、とは思ってる」


「私も! あ、でも、頼めるかな」


 水瀬が嬉しそうに身を乗り出し、すぐに考え込んだ。真帆も、その頼み方について真剣に考え始める。


 俺たちと会うときには、二人とも自分から話しかけてくれた。


 そういう二人が、挨拶と写真のお願いで迷っている。まだ会うと決まったわけでもないのに、少しおかしかった。


「今から考えておけば、大丈夫なんじゃない?」


 俺が言うと、尾崎が顔を向けた。


「考えたことが、そのまま言えるとは限らないんだよ」


 ずいぶん実感のこもった声だった。


 *


 食事の皿が下がるころには、カウンターの客も帰っていた。


 奥の席にいた二人連れが会計を済ませ、おばさんに声をかけて出ていく。扉のベルが鳴り終わると、厨房からトレーを持った店主が現れた。


「腹、残ってるな」


「プリンの分は」


 俺が答えると、店主は四人の前へ、小さなガラスの器を二つずつ並べた。


 片方には薄い琥珀色のカラメル、もう片方には、それより濃い茶色のカラメルがかかっている。どちらも試食用なのか、普通の半分ほどの大きさだった。


「二種類も?」


「そっちは、うちのが作った。こっちは俺だ」


 店主が濃いほうを指した。おばさんが小さなスプーンを配りながら、横から覗く。


「比べたいっていうから、私も作ったのよ」


「同じ材料でも、作り方で変わるからな」


 店主は腕を組んだ。


「どっちがいい。遠慮はいらんぞ」


「じゃあ、いただきます」


 水瀬がスプーンを取った。


 最初はおばさんのほうだった。すくうと、切り口がゆっくり沈む。ひと口食べた水瀬の目が細くなり、今度はじいちゃんのほうへスプーンが移った。


 こちらは、すくった形がしっかり残っている。水瀬は少し考え、二つを交互に見た。


「どうだ」


「どっちも、おいしいです」


「それは分かった。どっちが好きだ」


 水瀬は迷ってから、薄い色のカラメルの器を指した。


「私は、こっちです。口に入れると、すぐ柔らかくなる感じが好きで」


「……そっちか」


 店主は組んだ腕をほどき、また組み直した。


「まあ、好みはある。好みはな」


 二度頷いてから、真帆へ向き直る。


「お前は?」


「私も、こっちかな」


「お前もか!」


 店主がのけぞった。すぐに身を乗り出し、真帆の前の器を交互に覗き込む。


「こっちも、ちゃんと食ったか?」


「食べたよ。卵の味がして、おいしかった。でも、また食べたいのはこっち」


「また食べたいのも!?」


 声が大きくなった。


 真帆がスプーンを持ったまま笑う。おばさんは、空いたトレーを胸の前に抱え直した。


「遠慮はいらないんでしょ」


「いらん。遠慮はいらんが、二人続けてそっちへ行かんでもいいだろう」


「じゃあ、一人に嘘ついてもらう?」


「それは駄目だ!」


 即答してから、店主は口をへの字に曲げた。


 真帆がとうとう声を立てて笑った。店主は何か言いかけたが、言う先がなくなったらしく、今度はプリンを睨んだ。


 俺もひと口食べようとしたところで、その目がこちらへ向いた。


「瀬尾」


「何」


「お前は昔から、うちの味が分かるやつだったな」


「食べる前にそういうこと言うの、やめてくれ」


 尾崎が、妙に深く頷いた。


「分かる」


「何が?」


「いや。先に頼りにされると、困るよなって」


 じいちゃんと俺を見比べてから、尾崎も自分のプリンへ目を落とした。


 食べてみると、確かにかなり違っていた。


 おばさんのは、舌の上でほどけて、甘さが素直に広がる。じいちゃんのは少し固めで、噛むと卵の味がした。そのあとに、カラメルの苦さが残る。


「俺、こっち好きです」


 先に尾崎が言った。指しているのは、じいちゃんのほうだった。


 店主が、がばっと尾崎へ向き直った。


「どこがいい?」


「え。あ、カラメルがちょっと苦いのが、いいなって」


「そこだ!」


 さっきまで組んでいた腕がほどけ、尾崎の前の器を指す。


「甘いだけじゃ、最後まで同じだろ」


 尾崎が頷き終わる前に、次の言葉が出てきた。


「卵のほうにも、ちゃんと味がある。だから、ここで少し苦くしておくと――」


「瀬尾くんの感想、まだ聞いてないよ」


 おばさんに言われ、じいちゃんが俺へ向き直る。


 さっきより、明らかに期待されていた。


「俺も、今日はこっちかな。固いほうが好きだから」


「そうだろ」


 店主が大きく頷いた。俺と尾崎を順に見てから、妻へ顔を戻す。


「二対二だ」


 指まで二本立ててみせる。


「そうねえ」


「負けてはおらん」


「私、勝ったとも言ってないけど」


「念のためだ」


 おばさんがカウンターへ戻ろうとすると、店主はその背中へもう一度、二本の指を突き出した。


「引き分けだからな!」


「聞こえてるよ」


 真帆が俯き、水瀬が口元を押さえた。俺も、スプーンを置いてから笑った。


 店主は自分で試食用の器を一つ持ってくると、カウンターの端でおばさんのプリンを食べ始めた。


 ひと口食べ、器を見下ろす。


 もうひと口食べてから、眉間に皺を寄せた。


「……柔らかいな」


「さっきから、そう言ってもらってるでしょう」


 おばさんがコーヒーカップを並べる。


 じいちゃんは返事をせず、残りも食べた。眉間の皺を深くしたまま、器の底に残ったカラメルまでスプーンでさらっている。


「どう? 私のもおいしいでしょ」


「まだ確かめとる」


「もう空っぽよ」


 スプーンが止まった。


 じいちゃんは器を台へ置き、俺たちのほうを見た。四人そろって見ていたせいで、今度は勢いよく厨房へ向き直った。


 *


 コーヒーが来ると、真帆は残していた濃いカラメルを、プリンに絡めてすくった。


「あ。やっぱり、これと合う」


 ひと口飲んでから、じいちゃんの背中へ声をかける。


「ねえ。こっちのプリン、次に来たときも頼める?」


 店主が振り返った。


「……俺のか?」


 返事を待つ間に、もうテーブルの横まで来ていた。


「うん。今度はコーヒーと一緒に、ひとつ食べてみたい」


「お前、さっきは、そっちがまた食いたいって」


「それも食べたいよ。でも、こっちもおいしかったから」


 真帆が自分の器を少し持ち上げた。


「両方、メニューに載せたら?」


 店主は彼女の手元を見て、それから顔を見た。


「そうか! 次も食うか!」


 俺はカップを口元から離した。


 じいちゃんの口が大きく開き、歯が見えていた。さっきまで下がっていた眉も、頬も、まとめて持ち上がっている。


「おい、聞いたか。俺のも次に食いたいってよ!」


「聞こえてるよ。すぐそこにいるんだから」


 それでもじいちゃんはカウンターまで行って、妻の顔を覗き込んだ。


「コーヒーと一緒に、一つ食いたいって!」


「そこも聞いたよ」


 今度はこちらへ戻ってくる。真帆が笑いをこらえながら頷くと、じいちゃんも何度も頷いた。


「よし。今度は大きいので出してやる。これくらいあるやつだ」


 両手で丸を作ってみせる。


 真帆の笑顔が止まった。


「……一人分?」


「食えるだろ。好きなんだから」


「好きでも、それは大きいよ」


 俺が言うと、おばさんもその丸を見た。


「あんた、その大きさじゃ私たち二人でも食べきれないよ」


 じいちゃんは両手の間を狭めた。それでもまだ大きい。真帆が首を傾げると、もう少し狭くなった。


「……これならどうだ」


「うん。それなら食べたい」


「よし! じゃあ、上にクリームも――」


「また増やしてる」


 おばさんに言われ、じいちゃんの手が止まった。


 水瀬が口元を押さえた。尾崎はもう隠さず笑っている。


「そんなに喜んでくれるなら、また来ないとね」


 真帆が言うと、じいちゃんは慌てて腕を組んだ。


「客が食いたいと言うなら、作る。それだけだ」


「そうね。大きいのにクリームまでつけてね」


「……お前は黙っとれ」


 妻へ顔を向けた拍子に、緩んだ口元がまた見えた。じいちゃんは唇を結び直したが、真帆の「楽しみにしてる」で、すぐに歯が覗いた。


 *


「その顔、撮ってもらえばいいのに」


 おばさんが、カウンターから出てきながら言った。


「どの顔だ」


「今の嬉しそうな顔。お客さんに見せるの、珍しいんだから」


「いつもと同じだ」


「撮りましょうか?」


 水瀬がスマホを手にした。


 店主はそちらを見て、前掛けを両手でぴんと引っ張った。髪を撫でつけ、襟を直し、なぜか一度ほどいた腕をまた組む。


「どこに立てばいい」


「カウンターの前なら――」


「ここか」


 水瀬が言い終わる前に、店主はカウンターへ戻って背筋を伸ばした。


 撮られる気は、ずいぶんあるらしい。


 水瀬は椅子を引き、テーブルの脇へ立った。カウンターの前にいる店主へスマホを向ける。


「ここなら、お店の中も入りますね。もうちょっと、こっちを向いてもらってもいいですか」


「こうか」


「はい。あとは、その……少し笑ってもらえると」


「笑っとる」


 水瀬は画面から顔を上げた。


 真帆も、じいちゃんを見る。


 どちらも、すぐには何も言わなかった。


「何だ」


「さっきのほうが、よかったかなって」


 水瀬が遠慮がちに答えた。


「俺はずっとこの顔だ」


「違ったよ」


 真帆の返事は早かった。


「さっきは、もっと嬉しそうだった」


「そう言われたってな」


 店主はぐっと口の両端を引き上げた。眉間の皺はそのままで、歯だけが見えた。


 尾崎が咳をした。慌てて口を押さえたが、肩は上下し続けている。


「おい。今、笑ったな」


「すみません」


「笑えと言うから笑ったんだぞ」


「あんた、力を入れすぎなのよ」


 おばさんが夫の肩をぽんと叩いた。店主の肩が下がり、同時に口元も元へ戻った。


「そのまま肩の力を抜いて、にっこりしてみてください」


 水瀬に言われ、店主が口の両端を上げる。肩も一緒に持ち上がった。


 今度は水瀬まで、スマホを下げて笑いだした。


「じゃあ、私も入ろう」


 おばさんが、夫の隣へ立った。


「一人だから構えちゃうんでしょ。ほら、もう少し詰めて」


「十分入るだろ」


「二人で撮るんだから」


 おばさんが、じいちゃんの腕へ自分の腕を通した。


「お、おい!」


 じいちゃんの片足が横へ逃げた。おばさんも一歩ついていく。


「何?」


「くっつきすぎだ。若いのが見とるだろうが」


「写真を撮ってもらうんだから、見ててもらわないと」


 腕を組み直され、じいちゃんの背筋がさっきより伸びた。


「瀬尾。お前、にやにやするな」


「だって、そんなに慌てるから」


「慌てとらん!」


 声を張ったまま妻を見下ろす。おばさんがにっこり笑い返すと、じいちゃんは急いで正面を向いた。耳まで真っ赤だった。


「撮れ。今だ。早く撮れ」


「こっち見てくださいね」


 水瀬が言った瞬間、おばさんが夫へ顔を寄せた。


「あなた、カメラはこっち」


「分かっとる!」


 その声が、少し裏返った。


 俺も、もう笑いをこらえられなかった。


 水瀬が一枚撮った。


「はい、撮れました」


「よし。もういいな」


 じいちゃんの肩から力が抜けた。隣でおばさんが楽しそうに笑っている。その顔を見て、じいちゃんも口を開きかけ、つられたように笑った。


 水瀬がスマホを下ろしかけると、真帆が横から小さく声をかけた。


「もう一枚。今、いい顔してる」


「うん」


 水瀬はすぐに撮った。


 じいちゃんが何か言おうとしたときには、おばさんが「ありがとう」とこちらへ歩いてきていた。


「見せてもらっていい?」


「はい。二枚目、すごくいいと思います」


 水瀬が画面を向ける。


 俺も席から覗いた。


 カウンターの前で、おばさんが晴れやかに笑っている。隣のじいちゃんも、歯を見せて笑っていた。あれだけカメラを見ろと言われたのに、二枚目では妻の顔しか見ていない。


 さっき、一人で作ろうとしていた顔とは全然違った。


「あら。いいじゃない」


 おばさんが言った。


「どれだ」


 じいちゃんも寄ってきたが、画面を見た途端に足を止めた。


「……一枚目は」


 水瀬が戻してみせる。


 眉間に皺を寄せた店主が、正面を向いていた。


 四人とも黙った。


「二枚目だな」と尾崎が言った。


「二枚目だね」と真帆が続けた。


 俺も頷くと、じいちゃんは画面を覗き込み、すぐに顔を背けた。


「……好きにしろ」


「これ、私のにも送ってもらえる?」


「はい。二枚とも送りますね」


「一枚目はいい!」


 じいちゃんがすかさず振り返った。


「二枚目だけでいい。こっちだ。間違えるなよ」


 画面を指す手が、やけに真剣だった。


「好きにしていいんじゃなかったの?」


 真帆が言うと、その手が引っ込んだ。


 おばさんが笑いながらスマホを取りに戻る。じいちゃんはその背中を見送り、水瀬へ顔を寄せた。


「俺のにも送っといてくれ」


「はい。スマホ、お持ちですか?」


 じいちゃんは胸のポケットを探り、腰のポケットを叩いた。どちらにもなかったらしい。厨房へ向かいかけ、途中で振り返る。


「待っとれ。消すなよ!」


「消しませんから、大丈夫ですよ」


 水瀬の返事を聞く前に、じいちゃんはもう厨房へ入っていた。


「私から送るのにねえ」


 戻ってきたおばさんの言葉で、四人ともまた笑ってしまった。


 *


 写真を渡し終え、水瀬が席へ戻った。


 じいちゃんはカウンターの中で、さっき使ったプリンの器を洗っている。おばさんはスマホをしまい、入口のメニュー札を直しに行った。


「よかったね。いい写真が撮れて」


 真帆が言うと、水瀬は椅子をテーブルへ寄せながら頷いた。


「うん。二人で並んだら、全然違う顔になったね」


「あの顔、俺も初めて見た」


 俺が答えると、尾崎が笑った。


「また来たとき、思い出しそう」


「本人の前で笑うなよ」


「お前こそ」


 俺はカップを持ち上げた。


 まだ温かかった。ひと口飲み、窓の外を見る。通りを歩く人の影が、テーブルの端を横切った。


 今日は、ずいぶん笑った。


 真帆とも普通に話せたし、水瀬も楽しそうだった。尾崎も、プリンの話をしている間は気楽に笑っていた。


 そろそろ帰る時間かなと思い、カップを置くと、水瀬がバッグから小さなポーチを取り出した。


「私、ちょっとお手洗いに行ってくるね」


「うん」


 真帆が頷いた。水瀬の姿が店の奥へ消れるまで見送ってから、テーブルへ少し身を寄せる。


「瀬尾」


 声が、さっきより小さかった。


「帰る前に、少し話せる?」


「……うん?」


「二人で。ちょっとだけ」


 真帆が真剣な表情で視線を向けてきた。


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