23話、お館様の来訪と絶対に起こしてはならない二時間。
ーー午後一時、太陽が真上にある『湯そば庵』のテラス席。
お忍び姿の巨漢・武田信玄が、隠密の案内でついに物置の裏へと姿を現した。
信玄「ふむ、ここが噂の庵か。……むっ? 隠密よ、小窓が閉まっておるではないか。美味い酒の匂いもせん、織田の忍びを警戒しての偽装か?」
隠密「(顔を真っ青にして)ひ、ひぇえ! し、仕損じました! お館様! 今はいけませぬ! 今の時間は松千代様の『お昼寝タイム(絶対閉店)』にございます!」
信玄「おひるね……? 儂を甲府から3日もかけてここまでは連れて来て、3歳児が寝ているから待てと言うのか? 儂は武田の総大将・信玄であるぞ。直ぐに叩き起こして蕎麦を茹でさせろ!」
ーーそこへ、異変に気付いたお父さん(頼重)とじい(作左衛門)が血相を変えて飛び込んで来る。
頼重「お、お館様ーーーっ!? お忍びとは言え、このような末端の領地へ、なぜ予告もなく!」
信玄「おぉ、頼重か。堅苦しい挨拶は抜きだ。儂は胸が焼けて腹が減っておる。今直ぐその神童とやらに蕎麦を作らせい」
作左衛門「(ガタガタ震えながら平伏して)お、お館様! 滅相もございません、しかし、それだけは……それだけはなりませぬ! 庵の絶対のルールにより、午後一時から三時の間は松千代様を起こしてはならんのです!」
信玄「ふん、儂が命じてもか? 三歳の子供一人、起こして料理をさせるのがそんなに恐ろしいか?」
頼重「恐ろしいのです! 以前、頼武がうっかりお昼寝中の庵の戸を叩い際、松千代が『うにゃむにゃ……もう、おみせしまっちゃうのぉ……』とぐずり、その日は男女別の大浴場のお湯がピタリと止まり、水しかでなくなりました! 領民全員が風邪を引く手前までいったのです!」
作左衛門「左様でござる! 松千代がしっかりお眠りになり、ご機嫌で起きられて初めて、あの鉄の箱(券売機)も湯殿のキセル(蛇口)も神の力を発揮するのです! もし今お館様が無理に起こされ、松千代様のご機嫌を損ねれば、万病を癒す神の湯は、ただの冷水へと変わってしまいまする!」
信玄「(ただの冷水になる、と言う言葉にビクッとして)ぬ、ぬう……。湯が、水に.…? 儂のこのボロボロの五臓六腑を癒す湯が出なくなるのは困るな……」
隠密「お館様、ココは忍耐でございます! このテラス席の杉の長椅子は、座っているだけで夜風のような心地よい風が通り抜けます。松千代様がお起きになる午後三時まで、ここで静かにお待ちくだされ!」
信玄「う、うむ……天下を狙うこの武田信玄が、3歳児のお昼寝のために草むらの板の上で二時間も待たされるとはな……。致し方なし、ここで待つとしよう。頼重、音を立てるなよ」
頼重「は、ははっ! 息をひそめてお待ちいたします」
ーーそれから二時間、静まり返るテラス席。
戦国最強と恐れられる武田信玄が大きな体を杉の椅子に小さく縮め、お腹の虫を「ぐぅ〜……」っと鳴らしながらジッと時計の針が三時になるのを待っている。
お父さんもじいも隠密も、信玄が痺れを切らして暴れ出さないか、ダラダラと冷や汗を流しながら調理場の奥から聞こえる松千代の「すー、すー……zzZ」という天使のような寝息を聞きながら、祈るように静寂を守る。
遠藤領で一番長く、緊張感に満ちた二時間がこうしてゆっくりと過ぎて行くのでした。




