21話、闇夜に潜む忍びと、湯そば庵の罠。
ーー夜七時、月明かり照らす『湯そば庵』のテラス席。
大人たちが焼き鳥を片手にお酒を飲み交わし、賑やかに笑い合っているその頭上……。
物置の屋根の影に、漆黒の衣装を身に付けけた者が息を潜めてへばりついていた。
隠密「(心の声:おのれ遠藤家……武田の末端の貧乏領主のはずが、この賑わいは一体何事だ。見た事もない大浴場、夜風の中で光る謎の行灯、そしてこの鼻腔を狂わせる芳しい匂いは……)」
遠藤家の裏庭から漂う焼き鳥と出汁の匂いは、冷徹な忍びの五臓六腑を激しくゆさぶっていた。
じっと耐えていた隠密だったが、テラス席の頼重たちの会話が耳に飛び込んで来る。
頼重「ぷはぁーー! 権三、この『やきとり』のタレの美味さ、そして喉が凍るほど冷たい『さけ』の組み合わせは、まさに天下一品じゃな!」
権三「応よ! この一杯のために、過酷な訓練に耐えていると言っても過言ではござらん!」
隠密「(心の声:……冷たい酒だと? この初夏の夜に、氷のように冷えた酒など、甲府のお館様(信玄公)とて口にできぬ贅沢。おのれ、遠藤め、織田や徳川から南蛮の秘術でも貰い受けて反逆の狼煙を上げようと企んでおるのでは……お腹の虫が鳴きそうだ。いかん、まずはあの小窓の裏を探らねば……)」
ーースサッ、と風のように屋根から飛び降りた隠密は、巧みな体術でテラス席の闇に紛れ、テイクアウト用の小窓の横へと忍び寄る。
しかし、その時……。
松千代「あっ、お外に、お顔が真っ黒のひとが、いるのぉ!」
隠密「(ギクッとして硬直する)」
お初「えっ? お顔が真っ黒って……? ひゃあ! 松千代様! 泥棒、それと忍びの者ですか!?」
松千代「ちがうよぉ、お腹ペコペコで、おめめがきらきらしてるのぉ! おじさん、お外さむいでしょう? ろくもん持っていたら、あの箱にぽいして『かけそば』たべるのぉー」
隠密「(心の声:ば、馬鹿な……! 3歳児に一瞬で気配をさとられただと!? この私が! いや待て、怪しまれては任務に支障が起きる。ここは一般の旅人を装って……)」
隠密「お、おぅ。……銭ならある。この鉄の箱に、こうか? (懐から六文を取り出す)」
券売機「ガチャガラ! ……ゴト、チャリン。ピピッ♪」
松千代「おじさん、その緑色のボタンをポチッとするのぉ」
隠密「お、押すぞ……えい! あっ、紙切れ(食券)が出た」
松千代「お札ちょーだい! ……よし、いくよー。ふんっ! (湯切り網をぎゅっと握る)」
隠密「(小窓から松千代の手元を見て)……っ!? (3歳児の無駄のない、鋭い眼光に武芸の達人の気配を感じて身構える)」
松千代「ちゃっ! えっしょ、ちゃっ!」
隠密「(心の声:な、なんとキレのある湯切り……!! 小気味よくお尻をふりふりされて……くっ、可愛い! いや、恐るべき体幹の強さ、何者なんだこの子供は!)」
松千代「できたぁ! かけそば、どうじょ! お汁、ごっくんしてねぇ!」
ーー隠密、出されてしまった熱々のかけ蕎麦のどんぶりを両手で受け取る。
琥珀色のスープから暴力的な旨味の香りが鼻腔を直撃した。
隠密「(心の声:毒味だ……遠藤の謀反の証拠を掴むため、まずは毒味を……ずずっ、ずずずっ……っ!?)」
松千代「おじさん、おいちい?」
隠密「(どんぶりをガタガタ震わせ、涙をポロポロと流しながら)……う、美味い、美味すぎる! 毎日毎日、闇の中に潜んで干し飯ばかり齧っていた私の乾いた体に、この神の出汁が……温かい汁が染み渡っていく……!!」
お初「まぁ、お顔が真っ黒な忍びの方が、お蕎麦を食べて大号泣なさっていますよ。松千代様!」
松千代「あはは、おじさん、お汁もぜんぶごっくんして、お風呂もタダだから入っていくといいよぉー」
隠密「(ずるずると蕎麦を貪り食い、汁を飲み干しながら)……お、お風呂もタダだと……? 私はもう、任務などどうでも良くなってきた……今直ぐあの暖簾の奥に行きたい……」
武田信玄が送り込んだ冷徹な忍びは、松千代の可愛い湯切りと一杯の完璧な『かけ蕎麦』の前に、一瞬で骨抜きにされてしまうのでした。




