第17話「焦燥」
登場人物
蓮実凛/売れない作曲家
長瀬結衣/家出お嬢様
自宅から少し離れたところにあるマンション群に、
宅配寿司のチラシを1000枚ほど配布する。
これが、初めてのポスティングの仕事だ。
自転車を持っていないため、徒歩での配布になる。
配るチラシは一種類のみとはいえ、1000枚ともなるとなかなかの量だ。
「よっと……うわ、結構重いな」
チラシをパンパンに詰めたリュックを背負うと、ストラップが肩に食い込んだ。
「これから激戦地に向かう戦士のようで、逞しいです……!」
「だからチラシ撒くだけだって。じゃあ、いってくる」
「はい、いってらっしゃいませ!」
普段あまり運動をしていないせいか、重い荷物を持って歩くだけで既にキツい。
一棟目のマンションに着いた頃には、背中にじんわりと汗が滲んでいた。
配布ルート記録用のGPSをオンにして、リュックからチラシを束で取り出し、ずらっと並ぶポストに入れていく。
簡単な作業のようだが、ポストによっては「チラシ禁止」のシールやプレートを貼っているものもあり、そうしたポストには絶対に投函しないよう、研修時に念を押されている。
初めての仕事ということもあり、ミスのないよう確認しながら配布していくと、一棟だけでやたらと時間がかかってしまった。
先が思いやられるが、ひとまず次の棟に向かう。
チラシ禁止、か。
思えば、自分だって家に届くチラシのほとんどはゴミになる。
宅配もほとんど頼まないし、ジムや美容にも通っていない。
子供もいないので、習い事や学習塾のチラシをもらっても仕方がない。
煩わしさを感じたことだってある。
だが今は、自分がそれを撒いているのだ。
……。
考えても仕方がない、与えられた仕事をこなすだけだ。
淡々と、一棟、また一棟と配布していくうちに、
バッグは少しずつ軽くなっていった。
ちょっとした「成果」を感じることで、モチベーション的なものが出だした頃。
「ん? なんだこれ?」
リュックの中に、一枚の紙切れが入ってることに気づいた。
手に取ってみると、ニコニコ笑った桃? が、
バンザイをしている絵が描かれていた。
その上に、
『夫さん、ファイトです!』
と、桃がエールを送ってくれている。
「おいおい、この紙もポストに入れるところだったぞ」
思わずクスッと笑ってしまった。
でも、結衣なりに応援してくれてるってことだ。
その気持ちにじんわり、心が温まった。
心なしか足取りも軽く向かった次の棟では、郵便配達員がポストに郵便物を入れていた。
軽く会釈をし、俺も自分のチラシを配布していく。
冬でもないのにお互いマスク同士、今が異常事態なんだと再確認する。
全体の三分の一ほど撒いた時だった。
一人の住人が、ポストを見にやってきた。
高齢の女性住人は、チラシを手にした俺をじろりと一瞥すると、
「ああ、郵便屋さん、いつもご苦労様」
郵便配達員の方へ向き直り、愛想良く声をかけた。
「ありがとうね、大事な書類を届けてくれて」
配達員は最初、対応に戸惑ったようだが、
軽く頭を下げた後、再び郵便をポストに入れ始めた。
そりゃ、郵便配達だって大事な仕事だけど、
わざわざそんなこと言うものなのか?
ふと、疑問を抱いていると。
「あ~~、またゴミが入ってる」
高齢女性は先ほどの愛想はどこへやら、
俺が配布したチラシに対し、露骨に嫌悪の声をあげた。
「もう本当迷惑なのよね、こういうゴミ入れられると」
はっきりと俺に聞こえるように言っている。さらに。
「ウイルスがついてたらどうしましょ」
感染源扱いまでしてきた。
こっちは指サックをつけて配布しているのに。
「もう、このマンション全体チラシ禁止にしてくれないかしら。今度、管理人さんに言わなきゃ」
『チラシ不要の方はこちらへ』と書かれた段ボール箱に、
チラシをビリビリと破ってから投げ入れ、
高齢女性はまだ何かブツブツ言いながら立ち去った。
郵便配達員もまた、気まずい空気から逃げるように、
マンションのポストを後にした。
俺は無意識のうちに、ポケットにしまった桃の紙切れを、
震える指先でなぞっていた。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
だんだんと軽くなっていくリュックに対して、
心には淀みが増殖していく。
「おかえり」がシャニエモのED曲になって、掴んだ栄光。
あの頃の輝きをもう一度取り戻したい。
そう思っていたのに、俺は何をやってるんだろう。
心に何度蓋をしても、そんな気持ちが溢れようとする。
結局、予定時間をかなりオーバーして初回の仕事は終わった。
GPSを切り、帰路に就く。
手っ取り早い収入源、ただそれだけのはずだ。
別にこの仕事に執着も愛着も、熱意もない。
これで金がもらえる、それでいいじゃないか。
『あ~~、またゴミが入ってる』
は、ゴミなんて何度言われたことか。
ゴミ、カス、クソ。
SNSで、掲示板で、数え切れないほど言われてきた。
だったらなぜ、こんなに動揺しているんだろう。
面と向かって言われたからか?
いや、違う。
もうずっと前から、動揺していたんだ。
このパンデミックが始まってから毎日毎日、
動揺、焦り、絶望。
ネガティブな感情がどんどん増殖していた。
抑えるのがやっとだった。
そして不安になった。この先の日々が。
俺は結衣を守れるんだろうか。
不幸にしてしまわないだろうか。
音楽以外は何の取り柄もない、
ゴミの、俺で。
結局、自分の中で答えを出せないまま、
気づけばアパートの前に着いていた。
ふーっと息をつき、鍵を開けて家に入る。
「ただいまー」
……静かだ。
ふと思い出す。沙織と暮らしていた時のことを。
疲れて帰ってきても、ゲームのボタンを連打する音だけがカチカチと響くだけ。
心にさらに、黒い影が覆いかけたが――
「これは……?」
あの頃とは違う『匂い』が、廊下の向こうからしてきた。
この匂い、もしかして?
部屋に入りもう一度、同じ言葉を繰り返してみた。
「ただいま……」
すると。
「ひょええええ!!!」
お玉で味見をする結衣が、キレのいい雄叫びをあげた。
「そんなに驚かなくても」
「集中して味見をしていたもので、つい……」
「うわ、すごいな!」
テーブルには料理がいくつも並べられていた。
豚肉の生姜焼き、鶏南蛮そば、鰹のタタキ、そして、
「そのシチューは……」
「はい、塩分過多のシチューです!」
味見をしていたのは、我が家に初めてやってきた時に食べた、
味噌入りのシチュー。
「破壊兵器」なんて呼んでた圧力鍋を、今ではちゃんと使いこなしている。
「すごいな、ご馳走の山だ」
「はい! 夫さんの初陣祝いです!」
「ど、どうも」
チラシ撒いてきただけなんだけどな……。
「しかも、お肉やお魚は全て3割引や半額です! 決して散財をしたわけではありません!」
「それはお得だ」
「お得です! さあさあ、食べましょう~!」
リュックを置き、洗面所で手洗いをして。
その間に結衣は白ごはんを山のように盛って。
向かい合って座る。
「いただきます」
いつも通り、二人手を合わせた。
シチューをすくって、一口味見をしてみる。
「うん、シチュー、美味しくできてる」
「ほんとですか! やりました~~♡」
フラワーロックが揺れる。
思わず笑ってしまった。
「??」
結衣が不思議そうな目で俺を見る。
「なんでもない。どれも美味しいよ」
再び揺れ始めたフラワーロックを見つつ、
マヨネーズがかかった鰹に箸を伸ばす。
「そういえば、お仕事はどうでしたか?」
「うーん、思ったより大変だったな」
「過酷なミッションだったのですね……」
「過酷というより、チラシ禁止にしてる世帯が結構多くて」
「なるほど」
「住人の人に、露骨にゴミ扱いされたしね」
その一言を口にした時、
心にずっと張っていた糸が、
プツッ……と切れた気がした。
そして俺は、結衣に全てを話した。
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