第16話「崩壊」
登場人物
蓮実凛/売れない作曲家
長瀬結衣/家出お嬢様
真里奈/歌い手人妻
「ただいま」と「おかえり」が交わった夜からほどなくして。
最初は、ちょっと変わった風邪が流行っているんだと思った。
普段からあまり外に出ない自分達には、あまり関係ない話だとも。
だが、やがて学校が、仕事が、そして社会が止まった。
明らかな異常事態。
その未知のウイルスの猛威は止まることなく、むしろ被害は拡大する一方だった。
そして、音楽業界も止まった。
結衣と心を結び、これからもう一度、音楽で戦っていこうと思った俺は、まさに出鼻を挫かれた格好になった。
いや、出鼻どころか……。
「え、閉店……?」
「びっくりだよね……私もあそこで何回かイベントやらせてもらったし、ショックだよ……」
真里奈さんから電話で聞かされたのは、
馴染みのライブハウスが閉店するとの知らせだった。
「音楽業界、結構やばいね……凛くんは大丈夫?」
「そうですね、だんだん印税は減ると思います」
「そっか……結衣ちゃんの動画の収益はまた、月末に振り込むから~~」
「ありがとうございます」
通話を切ったあとの静寂が、肌寒い。
閉店、か……。
密集を避ける風潮の中で、その真逆をいくライブハウスやライブイベントに向けられる視線は厳しかった。
SNSでは『ライブハウスを潰せ!』なんていうハッシュタグすら見かける。
当然、営業などできるわけがない。
よく足を運んだ場所が、
こうもあっさりとなくなってしまうことに恐怖を覚えた。
沙織の件以降、
関わりがなくなったイベンターの原口さんも恐らく、相当厳しい状況だろう。
今後どれくらい、今の社会停止状態が続くのか。
全く予想できない。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
「お昼ご飯できましたよ~~今日は生姜焼きです!」
ピンクのエプロンをつけた結衣が、
作業デスクに向かう俺に声をかけた。
最近はもっぱら、料理は彼女の担当になっている。
最初は包丁を震えながら両手で持ち、腰は引け、
まるで追い詰められた殺人犯のようだったが、
今ではすっかり、エプロン姿が板についた。
「ありがとう。うわ、美味しそうだな」
豚肉の生姜焼きは俺の好物でもあるので、割と頻繁に出てくる。
「いただきます」
二人で手を合わせ、箸を握る。
早速、生姜焼きを一切れパクリ。
「うん、美味しい」
メイン料理を一口食べた後は、必ず『美味しい』と言うようにしている。
料理に自信がつくようにと思って言い始めたのだが、
最近はお世辞抜きに美味い。
今日の生姜焼きも、肉の焼き加減、味付けの塩梅、文句なしだ。
特に、ほんのり焦げ目がつき、旨みとタレが染み込んだ玉ねぎが素晴らしい。
ちなみに、毎回「美味しい」と言う理由はもう一つある。
「~~~~♡」
俺が褒めると結衣が、満面の笑みで振り子のように左右に揺れるのだ。
その動きはフラワーロックという、昔流行ったらしいオモチャの動きにちょっと似ている。
若干不気味だがクセになる可愛さで、つい褒めてしまう。
そんなこんなで、社会全体は混乱の一途を辿っている中、俺たちはつつましくも幸せに暮らしていた。
だからこそ、この暮らしを守りたい。
そのためには……。
「妻さん」
「なんでしょう?」
「俺、働こうかと思って」
「お仕事、ですか?」
「うん。作曲以外の仕事で」
「なるほど……」
結衣はお茶碗を置いた。
次の印税はまだ、マトモな額が入ると思う。ただ、それ以降はわからない。
現在の俺は、過去の提供作品の印税が主な収入源。
その中でも大部分を占めるのは、ライブのDVDやBDの売り上げだった。
つまり現在のようにライブやイベントが全て中止になり、再開の見通しさえ立たないということは、俺の印税収入が長期的に激減することを意味していた。
さらには、新規リリース曲のためのコンペ案内すらもストップし、音楽業界は完全に窒息状態に陥っていた。
「作曲をやめる訳じゃなくて、何か他に収入源を確保しようと思ってさ」
「素晴らしいです!」
「あ、ありがとう……」
全力で肯定してもらったので、軽い思いつきだったが前向きに考えてみることにした。
食後の洗い物は俺の担当なので、
シンクに置かれた皿たちに軽く水をかけ、スポンジに洗剤をつける。
どうして、今なんだろう。
ふと、そんなことを考えた。
さあこれから頑張ろうと思った、その矢先。
世界規模で未知のウイルスが蔓延し、
社会がストップするなんて、どうやったら予測できる?
確かに、収入源は増やす必要がある。
だが一方で、再び芽生えた音楽へのモチベーション、
作曲家としての自分は失いたくない。
それはクリエイターを気取っていたいとかじゃなくて、
自分が自分でいる意味を、手放したくないと思った。
そしていつか、このパンデミックは収まり、
再び音楽が鳴り始める。
そんな期待をどこかで抱いてもいた。
しかし……。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
「じゅ、10万円……?」
振り込まれた金額を見て、動けなかった。
3ヶ月に一度、振り込まれる印税。
これまで毎回50万円を切ったことがなかったが、今回はたった10万円だというのだ。
予想はしていたが、いざ現実を突きつけられると堪える。
心に重りがズッシリとぶら下がり、
耐えきれず吐いた息は鉛臭い気がした。
今回10万円だったということは、単純計算をすれば一年で40万円。
それでは年間の家賃さえ払えない。
しかも今後さらに減るかもしれない。
とてもじゃないが暮らしていけない。
貯金を切り崩していったとしても、いつまで続くかどうか。
ネットのニュースを見ても、
ウイルスの感染者数は無限に右肩上がりを続けている。
何でもいい、ひとまず、
手っ取り早く収入源を増やさないと……。
『結衣ちゃんの動画の収益はまた、月末に振り込むから~~』
真里奈さんの言葉が脳裏をよぎる。
結衣のコスプレ動画は今も伸び続けている……が、
「踊れない」と言った時の、あの涙が忘れられない。
結衣に負担はかけたくない。
以前やっていたハウスクリーニングは……。
できればもう、戻りたくはない。
選り好みしている場合じゃないかもしれないが、
あそこに戻ったら自分が壊れてしまう気がする。
結局、右耳の耳鳴りは未だ治っていないのだから。
そうやって悩むうちに、一日、また一日と過ぎていったある日。
ポストに入っていたチラシの束を整理していると、
「ポスティングスタッフ募集?」
ふと、一枚のチラシが目に留まった。
『未経験でもすぐ稼げる!』『セカンドワークに最適!』『運動不足解消にも!』
キャッチーなキーワードが並ぶ。
なるほどポスティング、つまりチラシ配りか。
これなら仕事的にも比較的簡単で、働く時間も自由だ。
作曲作業にも支障は少ない。
早速、チラシの裏に書かれた収入例を見ながら、
電卓アプリに数字を打ち込んでいった。
「ポスティング! なんだかかっこいい響きです!」
業務の説明をすると、洗濯物を畳んでいた結衣は、
なぜか瞳をキラキラさせて拍手した。
「いや、単にチラシを配るだけだよ……」
「夫さんがやることなら何でも応援します!」
「ありがとう。これなら作曲も続けられそうかなって」
「はい! 私は夫さんが作る曲と、曲を作っている夫さんが何より……」
「何より?」
「……その、す、す……」
「す?」
「す、すすすす……」
「酢? 煤?」
「すき……です……」
そこまで言うと、
茹でダコのように真っ赤になった結衣は、
パーカーのフードを被り、どこかへと立ち去った。
嬉しいよ、妻さん。
ありがとう。
忘れ去られた洗濯物を代わりに畳みながら、
心の中で感謝を述べる。
無事に了承を得られたようなので、
その日のうちにポスティング会社に連絡した。
ほんの小さな一歩だが、何もしないよりはマシだ。
後日。
ビデオ通話で簡単な研修を受けた後、
早速仕事を委託されたのだが――。
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