第15話「結衣」
登場人物
蓮実凛/売れない作曲家
長瀬結衣/家出お嬢様
長瀬征一/結衣の父
九条/征一の秘書
「どうして、初対面の僕にそんな話を?」
長瀬征一の突然のED告白に動揺する中、なんとか言葉を絞り出す。
「もしかすると、君も同じようになるかもしれないからだ」
いや、実はもうなっているんだよな……。
「私も君も、保証や安定といったもののない道を歩もうとする人間だ。それも、自分以外の誰かの人生も背負いながら。その重みは時に、何倍にもなってのしかかって来る」
保証も安定もない。
それも長瀬結衣に教えていた、不幸になる条件そのものじゃないか。
なるほど、娘には自分と同じ道を、いや、
踏み外して路頭に迷わせたくないと思ったのか。
「私の場合、結衣が産まれる前後の時期はまだまだ事業も前途多難、プレッシャーで夜もろくに眠れなかった。そんな日々が続くと体は常に寒気を感じ、萎縮し、性的な行為を欲さなくなってしまった。すると、いざとなっても反応も鈍く、持続力も弱くなってしまったのだ」
「それでは結衣さんは?」
「EDの治療薬を使った。薬に頼るのは癪だったがな」
「なるほど……」
聞いたことがある。
EDは治療薬によって、高確率で改善を見込める、と。
「君が歩む道も険しく、厳しい。この先も常に、予期せぬ困難や障害が立ち塞がるだろう。だが、希望を捨てずにもがき続ければ、辿り着けることもある。奇跡へ通じる道へと。それを私に教えてくれたのは、他ならぬ結衣なのだ」
「それを僕に伝えたかったのですね」
「ああ。それともう一つ」
「なんでしょう?」
「君は先ほど、人生に悔いはない、こんなものかと思ったと、そう言ったな?」
「はい」
その目は、力強く俺を捉える。
「君が思うほどこの世界は狭くも、窮屈でも、融通の利かないものでもないぞ?」
「……」
「断言する。君が咲かせるであろう本当の花は、まだ咲いてはない。もしその傍に……」
そこまで言うと、長瀬征一は立ち上がった。
「行こう、結衣のところへ」
「……はい」
「その服」
「?」
「私が着ていたものだ」
思わず、ジャケットの内側を見た。
Seiichi Nagase――
ちゃんと、刺繍までしてある。
「よく、勝負のかかった交渉の席に着ていったよ。良かったら、君にあげよう」
長瀬征一は俺の返事を待たず、部屋の外へと向かっていった。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
豪華絢爛なロビーの片隅で、長瀬結衣は九条と並び、窓の外を眺めていた。
これまで緊迫した時間が続いたせいか、その姿を見ただけで胸の奥がほっと緩む。
九条がこちらに気づき、長瀬結衣に声をかける。
振り向くその心配顔に、軽く微笑み手を振った。
やがて足音が、静かなロビーにカツカツと響く。
「夫さん……!」
「お待たせ、妻さん」
俺の前に来るなり、瞳にみるみる涙を溜め、
そして……
「ぶえええええ!!!」
ガシイイッッッッ!!!
「もう二度と離れませんんんん!!!」
棒立ちになった俺に、長瀬結衣はセミのようにしがみついてきた。
「妻さん、ここ、高級ホテル……」
周囲の目線とクスクス笑いが痛い。
出禁にならないか心配だ。
「やれやれ。この様子じゃ、賭けも勝負も必要なかったな」
長瀬征一が、頬をかきながら歩み寄ってきた。
「お父様……お父様!」
「おっと!」
セミ、もとい長瀬結衣は俺から離れると、今度は父親に思い切り抱きついた。
長瀬征一の目が驚きで見開かれ、
「勝手に家出して、心配をかけて、本当にごめんなさい……!」
「まったくだ」
それでも、愛おしそうに娘の背中に手を添えた。
「でも大好きです、お父様を愛しています……」
「ああ」
「会いたかったです……!」
「……ああ」
それだけでもう、全て分かり合えたようだった。
じんわりと、愛情の波動が伝わってくる。
二人が培ってきた、時間の長さと重みが滲み出るように。
「さて」
長瀬征一は娘の肩を優しく抱き、その身から離す。
「聞くまでもないかもしれんが、結衣。お前はこれから、どうし」
「夫さんと一緒にいたいです!!」
早っ。
「そ、そうだろうな……」
苦笑いを浮かべた。
「お父様、私からもお話があります」
「なんだ?」
長瀬結衣の目が引き締まる。
「お父様は私に、学歴や収入、将来性がない方と結婚すると不幸になる。そう仰いました」
「ああ」
「夫さん、いえ凛さんは非常に不安定な収入形態で、将来の保証も一切ありません」
ぐ、ぐうの音も出ない……。
「でも……私は凛さんといると幸せなんです……!」
そう言い切る姿は、これまで見てきたポンコツお嬢様とは別人のようで、
強く、芯が一本通っているように見えた。
まるで運命を切り開く、物語の主人公のように。
「この幸せがずっと続くのか、終わってしまうのか。この先も、凛さんと検証し続けたい。幸せを、確かめあって生きていきたい。私はそう思います!」
「……」
長瀬征一はその場で何かを考え込んだ。
そして、俺の方に向き直る。
「凛くん」
「はい」
「もし結衣を悲しませるようなことがあれば……わかるな?」
優しい父親から一変し、ホテルの部屋で見せた圧倒的な威圧感を滲ませた。
「もちろんです」
「その時こそ、全力で君を叩き潰し、結衣を取り返す。なあ九条」
「ええ」
メガネの奥から、冷徹な目がのぞく。
今更ながら俺は、とんでもない女性と縁を持ってしまったらしい。
まあいいさ、もうとっくに腹は括っている。
「ところで、その服はどうする?」
「ありがたく、頂戴します」
「……わかった。結衣も、そのドレスは私からのプレゼントだ。時々、二人でお洒落をして出かけるといい」
「お父様、ありがとうございます……!」
「たまには私にも、連絡をよこしなさい。岡山にも、正月くらいは帰ってほしいものだな」
そう言うと長瀬征一は踵を返し、エレベーターの方へと歩き出す。
それはつまり、長瀬結衣の主張を受け入れた、ということだ。
「わかりました! お母様にもよろしくお伝え下さい!」
「ああ」
その背中を俺と長瀬結衣は、深々と頭を下げて見送った。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
「お二人とも、着きましたよ」
九条の声に目を開けると、そこは見慣れたアパートの前だった。
寝て……たのか?
ふと気づくと、俺の肩にもたれかかって長瀬結衣も眠っている。
おまけに……。
「妻さん、家に着いたみたいだよ」
「……ふぇぇぇ?」
「よだれ、垂れてるよ」
「……ふええええええ!!!」
そうそう、このノリだよやっぱり。
耳はキーンとしたがおかげで目も覚めたし、帰ってきたな~~と実感した。
帰り道、九条が気を利かせたのか、少し遠回りをしてくれた。
きっと、長瀬結衣に東京の風景を見せたかったのだろう。
東京タワーとレインボーブリッジ、湾岸線からスカイツリー。
途中まではしゃいでいたが、疲れもあったのか、
首都高を降りる頃にはすやすやと寝息を立てていた。
その寝顔を見ていたら、なんだか俺まで眠くなり……。
不覚だ。
「お忘れ物はございませんか?」
「はい、大丈夫そうです」
「それでは、私はこれで……」
「九条さん」
立ち去ろうとする九条に、長瀬結衣が歩み寄った。
「綺麗な景色を見せてくださって、ありがとうございました」
「……いえ、出過ぎた真似を、失礼いたしました」
「九条さんがいてくれたから、私はここまで来られました」
「結衣様……?」
「学校で友達ができなくても、九条さんがいてくれた。そのことにどれほど救われてきたか」
「……私は、社長の指示に従ったまでです」
「それでも、私には救いでした。ありがとうございました……!」
長瀬征一にしたのと同じように、深く、頭を下げた。
九条の動きが止まる。
秘書としての立場と、一人の人間としての感情。
その二つが彼の中でぶつかり合っているように見えた。
「おやめください結衣様、私にそのような……」
ポタッ......
顔を上げた長瀬結衣の瞳から、涙がこぼれ落ちる。
それを見た九条は一瞬だけ表情が固まったが、
すぐさまハンカチを取り出し、優しく拭う。
「九条さんありがとう、ありがとう……!」
「そのお言葉だけでもう十分です。さあ、凛様がお待ちですよ」
「……はい」
くしゃくしゃになった顔で、長瀬結衣は俺の元へ帰ってきた。
「お二人とも、今日は長々とお疲れ様でした。ゆっくりおやすみください」
冷静沈着な秘書の顔に戻った九条は、俺たちに軽く頭を下げ、車に乗り込んだ。
見送った後もしばらく、俺たちは立ち尽くす。
そして、
「家に入るか」
「はい! あ……」
自然と、長瀬結衣の手を握った。
ぎこちなく握り返すその手の温もりがなんだか初々しくて、
胸がときめく。
見上げた夜空には、美しい月が輝いていた。
その夜。
俺は一つ提案をした。
「なあ、妻さん」
「なんでしょう夫さん」
「今日から、枕を並べて寝ないか?」
「そっそそそそれはその、一緒のふふふ布団で寝るということですかあああ!!??」
「あ、そうする?」
「あばばばば」
「よくわからないけど、まだ無理ってことかな?」
コクコク
「俺が言いたかったのは、枕を同じ向きにしてみないかってこと」
「あ」
そう、俺たちは未だに、枕をお互い逆の位置にして寝ている。
つまり、俺の頭の横には長瀬結衣の足先がある。
「まあ、妻さんが嫌ならやめ……」
「いい、です……」
本当に微かな声でそう言うと、パーカーのフードを思い切り引っ張って、ヤドカリのように顔を隠した。
そしてカラ、もといフードから少しだけ、
頬を真っ赤に染めた顔を出し、上目遣いで俺を見る。
「枕、同じ向きにしますです……」
「よし、決まり。じゃあ早速布団敷こう」
お互い、敷布団にシーツをかけるところまでは同じ。
だが今日は、枕を並べてみる。
それを見た時なんだか、本当に「夫婦」になった気がした。
「電気消すよ?」
「はい」
エモスマイルパジャマに着替え、布団に収まった長瀬結衣は、
ポニちゃんが窒息しそうなほど強く抱きしめ、必要以上に目をぎゅっと瞑っている。
恥ずかしいのか?
布団を並べて寝るだけで?
思わず吹き出しそうになるのをこらえ、俺は部屋の明かりを消した。
「妻さん」
「なんでしょう夫さん」
「今日、色々あったね」
「ありました」
「疲れたね」
「はい、疲れました……」
「色々あって疲れたけどさ、その中で一つ気づいたことがあるんだ」
「なんでしょう?」
「俺、妻さんのことが好きだ」
返事は、ない。
だが「ぎゅうううっ」と、何かが潰れそうな音が聞こえる。
ポニちゃん、無事か……?
……
……
……
……
……
……
沈黙が、長い。
……
……
……
……
……
……
これだけ反応がないと、こっちもどんどん気まずくなるというか、
恥ずかしく……
「……m」
「エム?」
「……e」
「……?」
なんだ、暗号か?
「ティー、オー、オー……」
……?
m e t o o、メトオ?
いや、
「me too?」
ガサガサガサ!
暗闇の中だけど、長瀬結衣が布団にくるまったのがわかる。
なるほど、me tooで合っていたらしい。
私も同じ、ってことか。
「良かった。両想いってことだな、俺たち」
ガサガサガサ!
再び、長瀬結衣が動く。
こちらを見ているようだ。
「……どれくらい?」
「ん?」
「どれくらい、私のこと好きですか……?」
「そうだな……」
「すっごく?」
「うん、すっごく」
「むちゃくちゃ?」
「むちゃくちゃ」
「だいだい?」
「大好きだよ」
ガサガサガサ……
手が一本、俺の布団の中に伸びてきて、何かを探り出した。
ああ、なるほど。
「これでいい?」
指を絡ませ、その手をぎゅっと握る。
「手、温かいです……」
「緊張してるからかな」
「じゃあ、私もです。ふふ」
思わず、頬が緩む。
「そうだ」
「ん?」
「私も、ここに帰ってきてから、言い忘れていたことがあります」
「なんだろう?」
その時、見えないけどそれでも確かに、
長瀬結衣がにっこりと笑った気がした。
「……ただいま」
「……おかえり、結衣」
繋いだ手の温もりを、大切に育てていこう。
壊れないように、守っていこう。
そう誓った矢先。
俺たちの日常を、世界はあまりにも簡単に奪っていった。
お読みいただきありがとうございます!
次回もどうぞよろしくお願いします♪
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