棄憶 第4話「異変」
登場人物
蓮実凛/駆け出しの作曲家
葛城沙織/ニート
凛の両親
「親父、頼むよ。サインしてくれないか」
「よく考えろ、お前たちはそれでいいのか?」
テーブルを挟んで座る親父の言葉に、俺と沙織は沈黙した。
結婚を前提に付き合っているとは前から話してあったし、俺の実家に来て初めての挨拶。
沙織は明るく愛想よく振る舞い、印象も良かったはずだ。
だが、俺たちのこれまでや生活ぶりを一通り話してから頼んだ、婚姻届の証人欄へのサインを親父は拒んだ。
こちらも少々いきなりだったかもしれないが、書類に名前を書くくらいいいじゃないか……。
不満が顔に出ていたであろう俺に、親父はさらに問いかける。
「そもそも、この先も本当にやっていけるのか? 今の暮らしを」
「ああ。事務所も全面的にバックアップしてくれてる」
「そうですよお義父さん。しかもお話ししたように凛さんて、作曲家として有望なだけじゃなく家事も率先してやってくれるんです!」
「いいわねえ! 今どきの夫はね、家事も育児も協力的みたいだよ? 凛、やるねー!」
場を和まそうと、隣に座るお袋がにこやかに話すが、親父の厳しい表情は変わらない。
「沙織さん。あなたはどうなんだ?」
「どう、と言いますと……?」
「あなたは働かないのか?」
「え……?」
「ウチの凛が本当に有望なら、今は大事な時期のはずだ。そんな凛を支えようという気持ちはあるのか?と思ったのだ。話を聞く限りどうにも、凛を支えよう、負担を減らそう、共に乗り越えようという姿勢が伝わってこない。『今どきの夫』と言うが、単に凛に甘えているだけな気さえする。このままじゃ」
親父はテーブルの椅子から立ち上がり、リビングのソファへ腰を下ろす。
「今の暮らしは、長続きしないんじゃないか?」
視線だけ、こちらに向ける。テーブルの上に置かれた婚姻届へと。
「そういう訳だから、証人としてサインすることはまだできない。とりあえず、今日のところは帰ってくれ」
こうなるとテコでも動かない人なのは、昔からよく知っている。
悪くなった空気から逃げ出すように、俺たちは蓮実家を離れた。
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「とりあえず挨拶はできたことだし。証人を頼める人は親以外でも、他にたくさんいるからな」
「凛のお父さん……ちょっとウザいね」
「まあ、硬い人だよ昔から」
「こっちの事情もロクに知らないのにさ、あなたは働かないのか?だって。私には私のやることがあるってのに」
上野さんとの電話の後、沙織は結局、音楽を諦めた。
次に選んだのは……。
「おらおら、死ね死ね死ねー! yuくんナイスナイス!! いけいけー!!」
カチカチカチカチ!
いわゆるeスポーツ、プロゲーマーへの道だった。
ボイスチャットで仲間とやりとりしながら、オンライン協力プレイゲームに昼夜を問わず興じている。
最初は付き合いで一緒にやってみたが、仕事や日常生活にも支障をきたしそうだったのですぐにやめた。
これが「今どきの夫」なのかは知らないが、俺が収入の他、家事もほとんど負担する日々は続いていたからだ。ゲームなんてしている暇はない。
初めての印税はオリコン1位になっただけはあり、同年代サラリーマンの年収くらいは入った。
ただ喜びはあまりなく、代わりに危機感や焦りばかりが募る。
CDの売り上げは発売週を過ぎると激減するので、同じ額が今後もコンスタントに入るわけではないからだ。
次の採用を取らないと、いや、取り続けないとプロ作曲家としてはやっていけない。
だが結果はなかなかついてこなかった。
そして、次の採用を取れないまま数ヶ月が過ぎ……
「え、印税めっちゃ減ってるじゃん。やばくない?」
次に振り込まれた額は、初回の1/4以下に減っていた。
「ある程度はわかってたことだし、ゼロじゃないだろ。それより沙織こそどうなんだよ、ゲームで稼げそうなのか?」
「そりゃあまだだけどさ、でもこの前も非公式大会だけど結構勝ててね、前進はできてる」
前進、か。
見た限り、沙織が別段ゲームが上手いとは思わない。
正直無謀とも言える挑戦なのは、薄々感じてはいる。
だが俺は、沙織が夢を追う姿が好きだ。だからやりたいことがあるなら、応援したい。
そして、心のどこかでこう願ってもいた。
もう一度、音楽をやらないか?と。
パクリじゃない、本当の沙織の音楽を探してみないか?と。
そんな僅かな望みを抱きながら過ごす毎日。だから、負担にも耐えられた。
あの、ワンマンライブに向けて走り抜けた輝く日々が、
この胸からどうにも消せないのだ。
「お前いつまでパーツ洗ってんだよ!! ったく使えねえカスだな!!」
「すみません、すぐ終わらせます!」
市販されていない強力な洗剤をハケにつけ、分解されたエアコンのパーツの黒カビを落としているところへ、社員の先輩が怒鳴り込んできた。
一向に次の採用が取れない中、生活費の足しにするために始めた、ハウスクリーニングのバイト。
求人広告では『未経験者歓迎』『アットホームな職場です』などと書かれていたが、いざ入ってみれば怒鳴られるばかりの日々。
日給の良さでここを選んだことをすぐに後悔したが、それでも生活のためだ。
バイトの日は帰宅後、炊事や洗い物をするともうクタクタになる。正直、曲作りどころじゃない。
それでも、コンペの締め切りが近づけば徹夜で制作したり、徹夜明けでそのままバイトに行く日もあった。
若さで誤魔化していたものの、無理をしていたのは明らかだった。
いつしか右耳の耳鳴りは24時間鳴りっぱなしになり、さらに蓄積され続けたストレス、全く抜けない疲労感、慢性的な睡眠不足は、この体にもう一つ、思わぬ異変を引き起こすことになった。
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「え、本当にダメなの?」
「おかしいな……」
暗い部屋に、戸惑いの声が重なる。
「疲れすぎてるのかもしれない」
「なんかショック」
「……ごめん。俺も辛いよ、なんか情けない」
その後、気持ちは焦るばかりで、事態が改善することはなかった。
たまたま疲れていただけだ、次はいつも通りうまくいく。
そう思って眠りについたものの、それから二度と、沙織と体を重ねることはなかった。
俺がED(勃起不全)になったからだ。
「お疲れ様でした……」
誰も反応しない挨拶を事務所内に残し、駅へと向かう。
今日も怒鳴られっぱなしの一日だった。
右耳の耳鳴りは日に日に酷くなる。高音が聞き取りづらい。
もしこのまま聴力を失ったら、俺は何のために存在するんだろう。
ふと、そんなことを考えた。
作曲家としても芽が出ず、大した稼ぎもなくて、男としても機能しなくて……俺には一体何の価値があるんだろうか、と。
なんだか最近はもう、日々を生きるだけで精一杯だ。
別に何かを成し遂げるわけでもなく、ただその日を暮らし、生きるだけで。
セックスができなくなってから、家の雰囲気は日に日に悪化している。
バイトから帰っても沙織はもう、「おかえり」と声をかけてはくれない。
ふと、空を見上げた。
その日は見事な夕焼けだった。
歩きながら眺めていたらびっくりするくらい自然に、何ひとつ引っかかることなく、脳内にメロディーと歌詞が浮かんだ。
「夕焼けに伸びる、影法師……」
そうだ。
今の気持ちを、曲にしてみよう。
生きるだけで精一杯な、今のこの気持ちを。
きっとこの世界のどこかに、自分と同じ思いの人がいる。
届くかはわからないが、せめて形にしよう。
この耳が、聞こえなくなる前に。
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