第11話「圧倒」
登場人物
蓮実凛/売れない作曲家
長瀬結衣/家出お嬢様
九条/結衣の父の秘書
整えられた黒髪、切れ長の目に細縁の眼鏡。白い手袋。
以前やって来た成金拓也とは格も知性もまるで違う。
簡単な相手ではないと、瞬時に悟った。
やりとりを察知した長瀬結衣が、玄関へとやってくる。
「結衣様」
「……」
「ご無事で、何よりです」
ほんの僅かだが、その頬が緩む。
「妻さん。秘書ってことは……」
「一巻の終わりです……」
「は?」
九条は再び表情を引き締め、こちらを見た。
「改めまして、凛様」
「……はい」
「結衣様のお父上であり我が社の社長、長瀬征一がお会いしたいと仰っております」
そうだ、長瀬結衣はある日突然、婚姻届を持ってウチにやってきた。
向こうの親からすれば我が子が行方不明になったわけで、捜索し、迎えに来るのは至極、自然なことだ。
来るべき日が来た、ということか。
「もしよろしければ、ご同行願えますか?」
「はい」
「ありがとうございます。それでは準備がありますので、少々お待ちください」
「準備?」
俺の問いに答えることなく再び頭を下げ、九条は玄関を後にした。
「ふう……」
重く、息を吐く。
僅かなやりとりだったのに、どっと疲れた。
昼間、三人で笑い合ったとは思えないほど、静まり返る部屋。
「……すみません、私のせいで……」
「妻さん」
「……はい」
なぜか、自然と言葉が溢れた。
「俺、妻さんとの暮らし、気に入ってるから」
「え……」
「『検証』、続けたいんだ。いや、できれば……」
そこへ。
「お待たせしました」
九条が戻ってきて、俺たちに服を手渡す。
「お手数ですが、こちらをお召しになってください。それでは、車でお待ちしております」
思わぬ展開に、二人で顔を見合わせた。
「着替えるってことか?」
「そのようですね」
俺に渡されたのは、紺のジャケットにシャツとスラックス。
お互い脱衣所と部屋に別れ、渡されたシャツ、次にジャケットに袖を通す。
「……?」
なんだろう、不思議と体に馴染む気がする。
少し窮屈だが、これはかつて、誰かが着ていた服かもしれない。
そんなことを考えつつスラックスを履き脱衣所を出ると、長瀬結衣は既に着替えを終えていた。
「どう、ですか……?」
思わず息を呑む。
夜の妖しさと美しさが溶けこんだような、漆黒のワンピースに身を包んだその姿は、
普段のパーカー姿とはまるで別人だったからだ。
「すごく綺麗だよ、妻さん」
「はう……♡」
「自慢のお嫁さんだな」
「はうはう……♡」
お世辞抜きに、美しいと感じた。
そして改めて思い出した。長瀬結衣は「お嬢様」だったんだと。
「夫さんも、か、かっこいいです!」
「お、ありがとう。それじゃ、行くか」
「はい……!」
玄関を出るとアパートの前に、黒塗りの高級車が止まっていた。
フォーマルな装いに変身した俺たちを見て、九条は軽く頷く。
だが——
なぜか俺を見たまま、その目が微かに見開かれた。
「……なにか?」
「いや失礼、なんでもありません。それでは車内へ」
首を傾げつつ後部座席に腰を下ろすと、シートの座り心地の良さに驚いた。
「よろしければもう一つ」
運転席に座った九条が、こちらへ顔を向けた。
「お二人とも、靴もお履き替えいただけますか」
見ると、フロアには革靴とパンプスが置かれていた。
ここまで徹底するとは、行先は間違っても駅前の飲み屋じゃないな。
「それでは、出発いたします」
シートベルトを締めると、車はゆっくりと走り出した。
一体どこに向かうのか。
「征一様は、都心のホテルにてお待ちです」
こちらの疑念が見透かされたようだ。
エンジン音すらほとんど聞こえない車内。
いつか、長瀬結衣と“地獄”に行った時とは、車も行先もまるで違うな。
「九条さん……」
長瀬結衣が呟くように問う。
「お父様は、その……怒っていらっしゃいますか?」
「怒る、というよりは」
九条はルームミラー越しに、こちらに視線を送った。
「ご興味をお持ちのようです」
その視線は長瀬結衣ではなく、俺に向けられた気もした。
「僕からも、一ついいですか?」
「どうぞ」
「なぜ、結衣さんの居場所がわかったんですか?」
「成金拓也」
まっすぐ前を向いたまま、九条が答える。
「お見合い後、結衣様が姿を消した件について、彼に後日問い合わせました。その際に」
「なるほど……」
「結衣様に無礼を働いた件についても、相応のペナルティを」
その言葉に、車内がシンと静まり返る。
ペナルティの内容が気になったが、これ以上は深掘りしないでおこう……。
しばらく沈黙が続く中、車は首都高速道路に入る。
「わあ……」
輝くビルが立ち並び、すっかり『東京』の景色になった窓の外を見て、長瀬結衣が感嘆の声を漏らした。
東京タワーもスカイツリーも見えないが、その目には魅力的に映ったようだ。
やがて環状線を渋谷方面に向かい、霞ヶ関で高速を降りた。
一般道に降りてみると、道沿いにそびえ立つビル群の高さにより一層、圧倒される。
そのまま走ること数分、車はひときわ巨大なビルの正面玄関で停まった。
なるほど、着替えが必要だったわけだ。ドレスコードのありそうな超高級ホテルに来るのであれば。
黒い帽子を被ったドアマンが歩み寄ると、
「足元にお気をつけください、結衣様」
いち早く車を降りた九条が、パンプスに履き替えた長瀬結衣の手を引く。
う、夫として俺が気遣うべき場面だった……。
車を降りてから先はまさに、別世界だった。
エレベーターで運ばれた先は、ロビーのある高層階。
ゆうに5メートルを超える高い天井、巨大な窓から見えるのは輝く夜景。
大都市東京のど真ん中とは思えない静寂に包まれた、極めて上質な空間からそれを眺めるのは、まさに贅沢の極みに思えた。
ほんの一時間前までいた、郊外の安アパートの記憶が遠い過去のもののようだ。
あっけに取られていると、九条が俺たちに声をかける。
「結衣様は、こちらでお待ちいただけますか」
「え……?」
「征一様が、凛様とはお二人でお話ししたい、と」
戸惑いつつ、長瀬結衣は窓際の席に座り、俺に不安げな視線を送る。
いや、俺自身も唐突なことで内心驚いている。
九条に連れられ、さらなる高層階へのエレベーターを上がり、フロアを歩いていると……ここ最近は感じたことのない緊張感が、ふつふつと湧き上がってきた。
相手は社長といえど、同じ人間だ。恐れることはない、そう思っていたけど……。
九条の足が、一室の前で止まる。
鼓動がさらに急速に高まり、息苦しい。
コンコン――
「社長。お連れしました」
「入れ」
落ち着いた声が、この胸にズシっと響く。
九条がドアを開けると、中は広々としたスイートルームだった。
そして。
東京の大夜景が広がる窓のそばに、一人の男が座っていた。
入ってきた俺たちに目もくれず、宝石箱のように煌めく街を眺めるその瞳は、輝きを愛でているよりも、価値を測っているように見えた。
長瀬征一。
想像よりも高齢に見えた。50代、いや60代?
だが、顔つきと眼光は鋭い。隠しきれない野性味。
彫りの深い顔立ちは、少し日本人離れしているようにも感じた。
男はこちらを振り返り、俺を一瞥する。
「蓮実凛くん、だね」
「……はい」
「まあ座りたまえ」
ソファを指さす。
「失礼します」
腰を下ろしたはいいものの、まだ緊張は解けぬまま。
「九条」
「かしこまりました」
二人きりにしろ、ということか。
九条は一礼ののち、部屋を後にする。
「まずは、礼を言わんとな」
「礼?」
「娘を保護してくれていた件だ」
「あ、保護というか、婚約を」
「なに? 婚約?」
「はい。いきなり婚姻届を突きつけられまして」
「それは大変失礼した、ただちに破棄させよう」
「え?」
「君だって、見知らぬ人間から急に婚約を申し込まれて、困惑しただろう」
「ええ、それはまあ」
「成金拓也の件も迷惑をかけた。あれは友人の息子でな」
「なるほど」
「双方の迷惑料として、一億ほど用意しよう」
「……は?」
返す言葉が、すぐに出てこなかった。
「私にとっては何よりも大切な娘だ。その存在も、将来も」
「……」
「一億でも安すぎるくらいだ」
「……もし僕が、それをいただいたとしたら?」
「娘とは、別れてもらう」
なんとなく、流れ自体は予想していた。
娘を取り返しにきた、と。
ただ、一億円。
謝礼は提示される気はしていたが、その金額は予想外だった。
もし自分が逆の立場だったとしたら、その額を提示するのはとてもじゃないが無理だ。
圧倒的すぎる経済力の差は、想定を遥かに越えている。
こぼれたコップの水のように、動揺が徐々に染み広がっていく中、
長瀬征一はさらに、思いも寄らない発言をした。
「ところで君、『ゲーム』はやるかね?」
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