第五章 変質
自分の意志で体が動かせない。けれど金縛りとは少し違った。意識ははっきりしているはずなのに、なぜか辺り一面が畳ではなく水で満たされている。まるで池の中心にでもいるような感じだ。
その池の中を青い鱗を持つ龍が一匹、悠々と泳いでいる。
「人間とは実に愚かなものだ」
自分の口が勝手に動き、低く厳かな女性の声が言葉を紡ぐ。自分ではない何者になっているのか、あるいは自分が何者かになっているのか、朧げな思考では分からなかった。
「一時の私怨に惑わされ、実に五百年余りも汝を敬う心を忘れてしまうとは」
「そう言うな、アマキリよ。儂は一向に構わぬ。こうしてしばし仕事を忘れ、穢れた俗世から離れられておるのだから」
今度は年老いた男性のような声が聞こえてくる。この声はどうやら池の中の青い龍から発せられているらしかった。それにしても今のアマキリという名前、どこかで聞いたことがあるような……。
「じゃが……そのせいで罪なき者が尊い命を奪われることには憤りを感じる」
「同等の罰を与えても一向に収まらぬからな。だが希望はある。次代の巫女はしばらくぶりに力が強いようだ」
「ほう、であるならばあの扉も開くだろう。ようやく悪しき歴史に終止符が打たれることになるか」
巫女という言葉で思い出した。昨日聞いた村の成り立ちの話で、アマキリノヒメという神様が出てきたはずだ。仮にアマキリノヒメのことであるならば、目の前の青い龍は村を支配していたという悪龍?
だけど悪龍というよりかは……。
「今度ばかりは罪なき人間でなく、過去の罪が業火で焼き尽くされることを祈っておる」
その言葉をきっかけに、突如強烈な眠気に襲われる。徐々に暗くなっていく視界で最後に捉えたのは、陰鬱な表情をした水色の着物姿の女性だった。
〇
「あんたたちどうしたのよ。起きてから一言も喋っていないじゃない」
瑠璃さんが心配そうに尋ねてきたのは、俺が朝食のハムエッグを半分ほど食べ進めたところだった。
彼女の言う通り、俺たちは今日になってから一度もまともに会話をしていない。沙耶香と香菜は何か考え事をしているようで、話しかけてもまともな反応が返ってこないのだ。
「姉ちゃんたち、話しかけてもまともに返事もしないんだもん」
「何か考え事をしているみたいで……」
弟の圭人くんも何度か話しかけてはいたが、同じようにまともな返事はなかった。あれから一度も話しかけていないあたり、ひとまず放っておくことにしたのだろう。
「沙耶香? 香菜ちゃん?」
瑠璃さんが二人の名前を呼びながら、優しく肩を叩く。それでようやく我に返ったらしい二人は、ポツリポツリと熟考するに至った経緯を聞かせてくれた。
「ごめん、変な夢を見たからつい……」
「本当に妙な夢だったわ。しかも沙耶香もあたしと同じ夢を見ているみたいだったし……」
「だから何の意味があるんだろうって二人で考えてたの」
俺もあの通り、神様らしき着物の女と龍が出てくる不思議な夢を見たわけだが、沙耶香たちもか。東京で生まれて育った俺は神様なんて別に信じてはいないし、身近なものでもなかったが、何だか不気味だ。
お父さんの話があったばかりだし、何というか……作為的なものを感じてしまう。
「そうだ、瑠璃さん。神社のどこかにずっと開けてない扉とかありませんか?」
「扉?」
「ええ。その妙な夢の中で『君たちならあの扉が開くだろう』みたいなことを言われたんです」
一瞬ドキッとした。確か俺の夢でも龍が、扉が開くことで悪しき歴史に終止符が打たれると言っていた。というか、次代の巫女が力が強いから扉が開くとかいう話もあったが、もしかして次代の巫女って……。
「扉ねぇ……。そういえば、おばあちゃんが宝物殿の奥に扉があるとか何とか言っていたことがあったわ」
「宝物殿?」
「ええ。開けることはできない、ただのオブジェだけど……気になるなら見てきたらどう?」
なぜか瑠璃さんの声が冷たくなった気がする。おばあちゃんという呼称を使っているが、恐らく瑠璃さんにとっては母親にあたる人物のことだろう。やはり二人は……。
「なるほど。……沙耶香」
「うん、行ってみよう。申し訳ないけど、裕也も手伝ってくれない?」
「ああ。彼女の頼みとあらば」
そうして俺たちは朝食後、宝物殿に行くことになった。
○
「おばあちゃんとお母さんは折り合いが悪かったの」
「巫女なのに、オマツリは呪われてるって言って憚らなくてね。親族からも相当嫌われていたらしいわ」
宝物殿に向かう途中、ここが好機だと見た俺は瑠璃さんと母親の関係について二人に尋ねてみる。すると沙耶香の祖母は大分問題のある人物だったということが分かった。
沙耶香の祖母は十五年ほど前に亡くなっているが、巫女というお祭りに欠かせない位置にいながら、お祭りは呪われていて、やるべきではないと再三にわたって主張していたのだとか。
「特に、『巫女成人の儀式』は絶対にやるべきではないって言って聞かなくて……そこから修復不能になったみたい」
「『巫女成人の儀式』?」
「次の巫女が二十歳になったときに行う特別な儀式のこと。ちなみに今年やるわよ。沙耶香が二十歳になったから」
儀式と聞くといかにも堅苦しい、重いもののように聞こえるが、実際には現在の巫女が編んだ装束を次代の巫女に渡すだけの催しらしい。今年でいえば現在の巫女は瑠璃さん、次代の巫女は沙耶香なので、瑠璃さんが作った装束を沙耶香に手渡すということになる。
だが、儀式の内容が本当にそれだけなのだとしたら……。
「それだけ? それだけなのに、絶対やるべきじゃないって言ったの? そのおばあさん」
沙耶香の祖母はどうして「やるべきではない」とそんな頑なに主張していたのか。しかも実の娘や親族と修復不可能になってまで。瑠璃さんが巫女になっている以上、結局はその儀式も行われたみたいだし。
沙耶香の父が祖母について言葉を濁していたが、予想よりも複雑な事情が絡み合っていたようだ。
「裕也、あんたは見たわよね。沙耶香のおばあちゃんの写真。あれを見て何か感じなかった?」
「いや……随分と若い時の写真なんだなって思っただけで……」
「それよ」
昨日、沙耶香の父親から聞いたことは秘密である。沙耶香がいるこの場で明かすことはできない。かなり曖昧な答えを返したが、香菜は満足げに頷いてもう少し詳しい事情を話してくれた。
沙耶香の祖母は件の『巫女成人の儀式』の二年後に亡くなってしまったらしい。享年四十八歳。死因は心臓麻痺だったが、亡くなる直前まで持病もなく、すこぶる健康だったようだ。
「おばあちゃんは『巫女成人の儀式』を行った場合、現在の巫女は三年以内に亡くなるって言っていたんだって」
「確か、沙耶香のおばあちゃんは二年後に亡くなったって言ったよな」
「ええ。だから死ぬ前の状態も重なって、一時期はオマツリを中止した方がいいという話もあったらしいわ」
だが、亡くなったおばあちゃんに代わって新しく巫女になった瑠璃さんがお祭りの復活を強く進言。その後は特に何の問題もなく今日までお祭りは続いているらしい。
「きっとお母さんは、おばあちゃんへの対抗心で……っと、着いたみたいだね」
「これが扉?」
「随分と貧相なオブジェクトね。なんでこんなものが宝物殿に?」
そんな話をしているうちに、目の前に扉が現れた。白く塗られた木製の扉が壁に立てかけられた状態で放置されており、瑠璃さんの言う通り、ただのオブジェクトのようだ。
「何これ? 大きな木の箱に扉が取り付けられてる?」
「中に何か入っているのかも」
「そもそも開くのかしら? 蝶番とかもなさそうだけど……」
俺たちはその扉をしばらく観察していたが、二メートルくらいの長方形の木箱の蓋部分が扉のようになっていると言う事しか分からなかった。
「沙耶香、開くかどうか試してみれば?」
「うん、やってみる」
「……開いた⁉」
沙耶香がドアノブに手をかけ、手前に引っ張ると扉はいとも簡単に開いた。同時に俺たちは強烈な眠気に襲われて、思わず膝をつく。もはや目も開けられないほどに眠い。
――私怨に惑わされ、実に五百年余りも汝を敬う心を忘れてしまうとは。
――罪なき者が尊い命を奪われることには憤りを感じる。
――今度ばかりは罪なき人間でなく、過去の罪が業火で焼き尽くされることを祈っておる。
今日の朝、夢で聞いた神様らしき女性と龍の会話。
――最後に滝のそばにある建物を燃やして仕舞いだ。そうして生贄を捧げる。
――特に、『巫女成人の儀式』は絶対にやるべきではないって言って聞かなくて……。
――おばあちゃんは『巫女成人の儀式』を行った場合、現在の巫女は三年以内に亡くなるって言っていたんだって。
これまで、現実世界で聞いてきた言葉たち。
こうした言葉たちが長い長い、夢の中でリフレインする。バラバラだった複数のピースが一つのパズルに組み立てられるように、俺たちは永遠にも思えるような夢の中でこれらの言葉を一つの事実として組み立てていった。
――どうぞ、文字通り何もないところですがゆっくりしていってください。オマツリが終わるその日まで……。
目覚めたとき、耳に残っていたのは瑠璃さんのゆったりとした声だった。それは半日ほど眠っていたという俺たちを介抱してくれたのが瑠璃さんだったからだけではなく……。




