第二章 談笑
「めっちゃ疲れた……」
「疲れたって、たかだか六時間くらいじゃない。この程度で疲れるだなんて、貧弱なのね」
バスから降りた俺は、思わず愚痴をこぼした。分かっていたことだが、ありえないくらい遠かった。新幹線とバスを乗り継いで、到着までにかかった時間は驚異の六時間。
朝早く出発して夕方に到着する移動のどこが『たかだか』なのか。慣れている香菜にとっては些細な移動かもしれないが、長旅に慣れていない俺には厳しい。
そんな俺を慮ってか、沙耶香が援護射撃を開始する。
「香菜は慣れてるからでしょ? 最初に大学に行ったときは、香菜も裕也みたいに死にそうな顔で文句言ってたじゃん」
「ばっ……わざわざ言わないで!」
顔を真っ赤にして抗議する香菜を横目に辺りを見回すが……本当に何もない。視界に入るのはほとんどが緑色に染められた木々であり、あとはわずかな民家と畑だけ。滝があるという話もあったが、まだこの段階では音も聞こえない。実際には一人ではないが、まるで山奥に一人で迷い込んでしまったような、不気味な感覚を覚える。
夕焼けに照らされている畦道は、都会の道路とは違って通行人は誰もいない。ただ写真のように、あるいは風景画のように目の前に存在しているだけ。聞こえてくるのはうるさいほどのヒグラシの鳴き声と、カラスの声だけだった。
「あらあら、無事に帰ってきてくれて嬉しいわ。お帰り、沙耶香。それに香菜ちゃんも」
「お母さん! ただいま!」
「ただいまです、沙耶香のお母さん。うちの家族は元気ですか?」
陽気な声が背後から聞こえてくる。振り返ると、四十代くらいの女性が笑顔で歩いてきていた。どうやらあの人が沙耶香の母親らしい。その姿を視認した瞬間、一気に緊張の度合いが上がった。弛んでいた糸がピンと張り詰め、心臓が早鐘を打つ。俺はゆっくりと深呼吸をしてから沙耶香の横に並んだ。
「ええ、相変わらず元気よ。後で顔を見せてあげるといいわ。……あら?」
沙耶香の母が俺の姿を捉える。彼女は一瞬面食らったような顔をしたが、すぐに唇が吊り上がり、最終的には満面の笑みを浮かべながら娘である沙耶香を抱きしめた。
「あらあらあら、これってつまりそういうことよね! こんないい男を連れてくるなんて誇らしいわ。きっとあの方も喜んでくれるはずよ!」
「ちょっとお母さん!」
「分かっていますとも。ちなみにあなた、お名前は?」
「か、か、か、鹿島裕也って言います。あの……その……む、娘さんとお付き合いさせていただいてます!」
あまりにも挙動不審。自分でもわかる。動揺しすぎだ。視界の端に必死に笑いを堪えている香菜が映った。しかし沙耶香の母はわずかな動揺も見せず、抱きしめていた沙耶香を解放してから、笑顔のまま俺に頭を下げる。
「初めまして。沙耶香の母の北原瑠璃でございます。裕也くんみたいな、かっこいい男の子が沙耶香なんかを好きになってくれるなんて、ちょっと信じられないわ」
「ちょっと、どういう意味?」
「どうぞ、文字通り何もないところですがゆっくりしていってください。オマツリが終わるその日まで……」
沙耶香の抗議を無視し、彼女は笑う。その笑みを見た俺はなぜか酷い寒気に襲われた。なぜだろう、顔は笑っているんだけど、目は笑っていないみたいな……。
本当は歓迎されていないのか? いや、でも目の前の彼女から敵意は感じない。少なくともこちらを害する意思はないように思える。
――それなのに、何でこんなに気持ち悪いんだ?
――それなのに、どうしてこんなに逃げ出したくなる?
「裕也……? 裕也!」
「……えっ」
後ろに立っている彼女の母や香菜も同様に不安げな表情をしていて、そこに不気味さは微塵も感じない。あれは俺の勘違いだったのだろうか。
「え、じゃないよ! 急に青ざめた顔で何かブツブツ話し出して! 大丈夫なの?」
「……大丈夫。ちょっと疲れちゃったみたい」
「あたしでもそこまでじゃなかったんだけど。本当に貧弱ね。――おばさん、早くこいつを休ませてあげましょう」
「ええ、そうね」
小さく頷いた沙耶香の母に連れられて、俺たちは沙耶香の家に向かった。夕焼けに照らされる畦道は、都会の道路とは違って通行人は俺たちしかいない。そんな物寂しい雰囲気に吞まれてか、あるいは長旅の疲れからか、俺たちは無言のまま進む。道中で聞いたのはうるさいほどのヒグラシの鳴き声と、カラスの声だけだった。
しばらく歩くと、大きな赤い鳥居が見えてきた。夕焼けの赤と鳥居の朱色が視界の中心で混ざりあっている。俺たち三人よりも少し前を歩いていた沙耶香の母――瑠璃さんは、その鳥居を躊躇いなく越えていく。沙耶香の家で休ませてもらうはずが、なぜ神社にお参りに行くことになっているのだろうかと疲れ切った頭で考える俺に、沙耶香が囁いた。
「私の家、神社なの。ついでに香菜の家も上にあるんだよ」
そういえば沙耶香に、実家について聞いたことがなかったなと思う。どうやら普通の会社員などではないということは分かっていたが、まさか神社だったとは。
「なるほど、どうして神社に行くのか分からなかったんだけど、ここが家なのか」
「うーん……まあ半分正解かな? 正確にいえば私の家は神社の隣だけど、私の家系は代々ここの神主だから」
階段を上がると、正面に恐らく本殿だろう立派な建物があり、右手側におみくじを販売している社務所があった。社務所の裏側にも道があり、鎖のようなもので塞がれている。瑠璃さんはその鎖をちょうど外そうとしているところだった。
「実際に私の家って言えるのは、あの鎖の向こう側にある建物だけだよ。この神社は単にうちが管理しているだけ」
「だから半分正解で、半分不正解なのか」
「そういうこと。ちなみにこの先に行くと道が二手に分かれているけど、左側が沙耶香、右側があたしの家よ」
香菜が横から補足してくれる。その言葉通り、先導してくれている沙耶香の母は分かれ道に差し掛かると、左側の道に進んでいった。俺たち三人もそれに続いて左側に進んでいく。
「あれ、香菜の家は右側じゃないのか?」
「あたし、両親も親族もみんな死んじゃってるの。いわゆる天涯孤独ってやつね」
夕方のうだるような熱気が、少し冷めたような気がした。香菜の表情には驚くほど何の変化もない。歴史の授業で教師が昔起きた事実を伝えるかのように、平坦な口調で彼女は語る。
「両親が死んでからは、ずっと沙耶香の家で過ごしているのよ。あの家には帰りたくなくて」
「そっか。ごめん、変なことを聞いて」
両親との思い出がたくさん残された家に一人残される。幸いにも俺の両親は存命だが、その辛さは想像するに余りある。俺は素直に謝り、以降は気まずさから口を噤んでいた。
そうして五分ほど歩くと、やがて沙耶香の家が見えてきたのだが……。
「って、あれが沙耶香の家⁉ でっか!」
「この村で二番目に大きい家なのよ。ちなみに一番大きいのは村長の家だから、村民の中では実質的に一番ね」
「何で香菜が自慢げなの……」
道の突き当たりにあったのは平屋のそこそこ大きな建物だった。日曜の夜に症候群を引き起こす、某海鮮系のアニメの人たちが住んでいる一軒家を思い浮かべてもらえばいいだろう。
それこそ祖父母、親、子の三世帯は住めそうな建物に、沙耶香たちは両親と弟と四人で住んでいたという。沙耶香が進学に伴って東京に行ってしまった今は両親と弟の三人で住んでいるらしい。
「こんな広い家に三人だとどうも寂しいんだけど……。今日からはあなたたちもいるし、賑やかになりそうね」
「いつも通り、お世話になります」
「はいはい、疲れているでしょうし、とっとと入っちゃいなさい。みんな待っているわよ」
ここまでずっと先頭を歩いていた沙耶香のお母さんが、玄関の引き戸を開けてくれる。俺たちがお礼の言葉とともに建物に入ると、玄関先に一人の少年が立っていた。




