【2-5】
ゆらゆら、揺らめく。
だんだんと身体が深く沈み込んでいく感覚。耳に届くはずの心を切り裂く言葉は、ごぽごぽという気泡に溶け、何も聞こえない。
歪んだ笑顔も、嘲る声も、眩しい光でさえ。ここにいれば届くことはないという、絶対的な安心感。
──これで、ようやく終わる。
重さも、痛みも、思考さえも輪郭を失っていく。沈んでいるのか、溶けているのか――もはや判別すらつかない。
ただ確かなのは、もう抗う必要がないということだった。
肺を満たすはずの空気は水へと変わり、それでも苦しさはない。むしろ、長く張り詰めていた何かが、ようやく解けていくような安堵があった。
遠くで、何かが揺れている。
光か、記憶か、呼び声か。その揺らぎは不思議とあたたかく、完全に沈みきることを、ほんのわずかだけ躊躇わせた。
視界を埋めていた淡い青が、爆ぜる。堕ちていく体を引き上げる力強い手、その温もり。
(……もう、やめて。)
小さな拒絶は泡となって消えた。何度懇願しても止まらなかったあの日が過る。このまま沈んでいたい。人形のように過ごす日々には──帰りたくない。
不意に、その熱が、容赦なく澪の輪郭を繋ぎ止める。
「……ッ、ミオ……!!」
鼓膜を叩いたのは、水に溶けた音ではない。掠れた、しかし確かに体温を持つ、生身の男の叫び。
ハッと、止まっていた呼吸が跳ねた。淡い青はガラス細工のように粉々に砕け散る。
(……あ、……そっか。私は、今……)
水底の静寂は消え、代わりに肌を刺すのは王宮の冷えた空気と、石畳の硬い感触。そして、折れんばかりの力で抱きしめる、レオンハルトの震えた手だった。
「……、……はぁ、……っ」
肺に流れ込むのは、泥のような水ではない、ただの空気だ。それがひどく異物のように感じられて、澪は浅い呼吸を繰り返した。
レオンハルトの背後に、白銀の法衣が揺れる。聖女セレナの瞳が、まっすぐに澪だけを射抜いていた。慈愛に満ちた完璧な微笑を浮かべて。
「具合が悪いのなら、わたくしが癒して差し上げましょう。」
鈴を転がすような声。だが響くたび、記憶の底に沈んでいた「あの日」の足音が近づいてくる。
その時、ルークが息を切らせて駆け込んできた。
「レオン様! ガルド様! 大変です!」
「何かあったか?」
「騎士団と聖騎士団が喧嘩を始めました!」
凍りついた空気が、叫びによって砕かれる。
セレナの指先から溢れようとした光が、行き場を失い霧散した。
「……喧嘩、だと?」
膝をついたまま澪を抱きかかえるレオンハルトの声には、苛立ちと焦燥が混じる。対照的に、ガルドは眉を跳ね上げ、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「チッ……あいつら、この忙しい時に何やってやがる。」
「レオンハルト様! ガルド様!……早く来てください、もう手がつけられなくて!」
ルークの催促に、レオンハルトはさらに腕を強める。その熱さは、決して離さないという執念そのものだった。
背後のセレナは微笑みを崩さない。だが瞳の奥には、予定を邪魔されたことへの無機質な静寂が宿っている。
「……あら。それは大変。ヴァルク卿、聖騎士長。早く事態を収めに行かなくてはなりませんわね。」
拒絶を許さない、聖女の正論。それは言外に、澪を置いて行けという圧力だった。最高責任者であるレオンハルトに、ここに留まる選択肢はない。
澪は震える指でレオンハルトの腕を握った。彼は、大丈夫だと言い聞めるように、優しくその背を叩く。
「……それを仰るなら、聖女様こそ向かわれるべきだ。我が騎士団と聖騎士団が本気でやり合えば、癒やしを待つ者が溢れることでしょう。」
冷徹なまでに落ち着いた反論。抱く力は微塵も緩まない。セレナの微笑が、一瞬だけ止まった。明白な拒絶を感じ、彼女は静かに息を吸う。
「……あら。そうですわね。わたくしの慈悲が必要な方が大勢いらっしゃるかもしれないわ。」
沈黙の後、セレナは事もなげに同意し、法衣の裾を優雅に払った。
「そちらの──彼も、おいでなさい。」
その言葉は空間に鋭く落ちた。
「“陽だまりの聖女”が愛した地ですもの。些細な穢れも、嫌ですわ。」
その名が空間に落ちた瞬間。
レオンハルトの身体から、あれほど暖かかった熱が、嘘のように抜け落ちた。
背を叩いていた手の動きが止まり、指先がひどく頼りなく、澪の肩から滑り落ちていく。
(……これは、何かあったか?)
ガルドが内心で毒づく。
二人きりのわずかな時間、完璧な聖女が、姉とも慕った「あの人」の名を口にするには、十分すぎる理由があったはずだ。
ガルドは肩越しに澪を見つめ、低く声をかけた。
「……こいつは聖女サマの光に当てられてクラッときただけだ。おれが部屋に連れて帰る。」
軽く肩を支え、澪の細い腕を自分の脇に抱き込む。
「おい、大丈夫か。下っ端、早く帰るぞ。」
澪は小さく頷いた。言葉は出ない。
二人は背後に響く騎士たちの足音を置き去りにし、ガルドの私室へと向かった。




