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水曜日、雨が降ったら  作者: 天王洲アイス


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9/24

第9話:部下からの説得

失意の水曜日から一週間経ち、また雨の水曜日が街を濡らしている。

俺は、薄暗いオフィスの窓を横目で一瞥し、自席のPC画面に映る『Jアリーナ音響ネットワーク構成図』をぼんやりと見つめていた。

キーボードを叩く指先が重い。胃の奥が痛むような、冷たい違和感がずっと消えなかった。

(これでいいんだ……。俺はただのインフラ担当者なんだから)

何度も自分に言い聞かせる。

巨大ビジョンの向こうで輝いていた、あまりにも眩しい『雨宮藍奈』の姿。

自分のような中年エンジニアが軽々しく近づいていい存在ではなかった。俺が身を引くことこそが、彼女の誇りと未来を守る唯一の道なのだと。

「……五代課長、少しご相談があります。お時間よろしいでしょうか」

不意に声をかけられ、ハッと顔を上げた。

デスクの横に立っていたのは、部下の三島さんだった。普段の明るい表情は消え、メガネの奥の瞳でまっすぐに俺を見つめている。

「三島さん……? ああ、いいけれど」

珍しく役職付きで名前を呼ばれ、いつもと違う張り詰めた空気を察し、俺は立ち上がった。三島さんに促されるまま、俺たちはオフィス奥にある小会議室へと向かった。

ドアを閉め、二人きりになった瞬間、三島さんは振り返って深々と息を吐き、静かに、だが鋭い眼差しを俺に向けた。

「五代課長、先週からずっと変です」

「え……?」

「いつもなら水曜日の午後は『クライアント訪問に行ってくる』って、どこか嬉しそうに出ていかれるのに、今日はデスクで死んだような顔をしていました。それに、ネットワークのログを見る手も完全に止まってます。……何かありましたよね?」

「な……何もないよ。ただ、アリーナの仕様変更作業で少し疲れが溜まっているだけで……」

「嘘です」

三島さんは迷いのない声でそう切り捨てると、机に両手を突いて身を乗り出した。

「以前『クライアント訪問先の近くにある喫茶店・雨音のナポリタンが絶品だから、遅めのランチにおすすめだ』って教えてくれましたよね」

「あ……ああ、確かに話したけれど……」

「私、ずっと気になってて……先週の水曜日、外出の途中でたまたま近くを通ったので、長引いた打合せで食べそびれたランチを食べに『雨音』に入ったんです。そうしたら奥のカウンター席で、五代さんが見たこともないくらい柔らかい顔で、女性と楽しそうに会話しているのが見えました」

心臓が大きく跳ね上がった。

「入り口近くの観葉植物の陰……五代さんたちから死角になる席に座って、何気なくその女性を見たら……帽子とコートで変装してましたけど、私、すぐに分かりました。あの立ち姿、ココアのカップを両手で包み込む癖、喉元を撫でる仕草……間違いなく、私の推しである藍奈様だったんです!」

息が詰まる。俺の動揺を見て取り、三島さんは一層語気を強めた。

「五代さんがあの『雨音』で一緒にいた『藍奈さん』は……雨宮藍奈様だったんですよね!?」

俺は深々と溜息を吐き、痛む頭を押さえた。隠し通すことは不可能だと悟り、消え入るような声で呟いた。

「……ああ、そうだ。だが……俺も先週の帰りがけに、街頭ビジョンを見て初めて彼女の正体を知ったんだ。それまで俺は、ただの同名の女性だとばかり思っていて……」

「じゃあ、なんで昨日行かなかったんですか!?」

三島さんは目を大きく見開き、涙ぐみながら激しい言葉を重ねた。

「昨日もクライアント訪問のついでに、気になって『雨音』の様子を見に行ったんです。そうしたら……藍奈様が一人でずっとカウンター席で待っていらっしゃいました。15時過ぎに店を出てくる時の、あの寂しそうな背中……冷え切ったココアのカップを握りしめてドアを何度も振り返る姿、見ていられないくらい切なかったです!」

三島さんはメガネの奥の瞳をうるませながら、俺のスーツの袖を強く掴んだ。

「なんでですか!? あんなに素敵な人と知り合えたのに、なんで急に逃げたりするんですか!?」

「……身の程を知ったからだよ」

俺は自嘲気味に苦笑し、首を振った。

「彼女は日本中が熱狂する大スターだ。巨大な資本と期待を背負って、雲の上のステージに立っている。それに引き換え、俺はしがない45歳の中年エンジニアだ。万が一にも、俺のような人間と個人的な噂が立ってみろ。彼女のキャリアにどれだけの傷がつくか……。だから、俺が静かに身を引くのが正解なんだ」

「……バカですか、五代課長!!」

三島さんの叫び声が、静かな会議室に響き渡った。

「な……っ!?」

「何が『身の程』ですか! 何が『中年エンジニア』ですか! 藍奈様が求めているのは、そんな肩書や世間の目なんかじゃないこと、一番近くにいた五代さんがどうして分からないんですか!?」

三島さんは涙ぐんだ瞳を背けず、胸の前で強く拳を握りしめた。

「私、藍奈様のアイドル時代からのガチファンだから分かります! 藍奈様はいつだって『完璧な歌姫』の鎧を着せられて、周りの大人たちに利用されて、孤独と戦ってきたんです! そんな藍奈様が……あの喫茶店で五代さんと話をして笑っている時だけは、本当に心から安らいだ、一人の女性の顔をされていたんですよ!?」

三島さんの叫びが、俺の胸の奥を激しく揺さぶる。

「肩書や立場を全部捨てて、一人の人間として向き合ってくれたからこそ、藍奈様は五代さんに心を許したんです! それなのに……『世間の目』なんて理由で勝手に諦めて、藍奈様を一人にして逃げるなんて……私、そんなダサい五代課長、絶対に見たくありません!」

「三島さん……」

ガチファンである部下の、命を削るような叫び。

自分を守るための言い訳ではなく、心から推しを想い、上司である俺を信じてくれた熱い説得。

胸の奥で凍りついていた不甲斐ない理性が、音を立てて砕け散っていくのが分かった。

世間の目? 立場の差? くだらない言い訳で自分を護り、彼女が差し出してくれていた温かな想いから逃げていただけではないか。

冷えたココアを抱えて一人で傷ついていた彼女の姿を想像し、胸が張り裂けそうなほどの痛みが込み上げた。

「……分かった」

俺はメガネの位置を直し、まっすぐ三島さんの目を見つめた。

「俺が悪かった。自分の保身ばかり考えて、一番大切なことを見失っていた……」

「五代さん……!」

「約束する。来週の水曜日、何があっても必ず『雨音』に行く。逃げずに、もう一度藍奈さんと向き合ってくる」

熱くなった三島さんの肩を静かに叩き、俺は深く頷いた。

三島さんは目を潤ませながらも胸のつかえが下りたようにほっと息を吐き、ニッと弾けるような笑顔を見せた。

「……はい! 約束ですよ、課長! ちゃんと藍奈様と向き合ってきてください!」

同じ頃。プロダクションの控え室。

私——雨宮藍奈は、ソファに深々と腰掛け、ぼんやりと窓を打つ雨粒を見つめていた。

昨日の水曜日。

来ない人を待ち続けた喫茶『雨音』での虚しい時間。

冷め切ったココアの味と、胸を突き刺すような静寂が、今も心を冷たく湿らせていた。

(……やっぱり、私なんかが近づいちゃいけなかったのかな)

理由も分からず拒絶された感覚。

『雨宮藍奈』という重い鎧を脱ぎ捨て、ただの自分になれる唯一の場所だったのに。彼にとって、私はもう煩わしい存在になってしまったのだろうか。

そっと自分の喉元を撫でる。

声が出ないほどの孤独が、再び私を包み込もうとしていた。

でも——私の胸の奥には、彼が残してくれたあたたかい言葉が、まだ消えずに残っていた。

『プロセスの承認が大切なんだと、あなたに教わりました』

『俺たちの仕事は、あなたの声を届けるためにある』

(……逃げちゃダメだ)

たまたま来れなかっただけなのかもしれないのに、彼が来なかった理由も知らずに、ただ一人で勝手に諦めて傷つくなんて、私らしくない。

もし次の水曜日、また雨が降ったら。

私はもう一度、あの扉を開けよう。

自分の本当の気持ちをごまかしたくはなかった。


二人を包む雨音は、次の水曜日へ向けて、静かにその旋律を紡ぎ続けていた。

『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。

雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。

華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。

日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。

少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価、感想で応援していただけると励みになります!

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