第10話:不器用な水曜日
水曜日。空はどんよりとした分厚い雲に覆われていたが、雨粒は落ちてこなかった。
14時10分。俺——五代零士は、空を見上げながら、路地裏に佇む喫茶『雨音』の前に立っていた。
先週、巨大ビジョンで知ってしまった衝撃の真実。
扉の向こうにいるのは、ただの「藍奈さん」ではなく、日本中を熱狂させる大スター『雨宮藍奈』だ。
身を引こうとした俺を、部下の三島は涙ぐみながら叱り飛ばした。
『藍奈様が求めているのは肩書じゃない! あの場所で五代さんと話している時だけは、本当に心から安らいでいたんです!』
三島の言葉が胸に深く突き刺さる。
(そうだ……俺が『雨宮藍奈』だと気づいたことを明かせば、彼女はまた警戒し、あの安らげる居場所を失ってしまう……)
俺は決意した。
彼女が『雨宮藍奈』であることは知らないフリを貫こう。大スターとしてではなく、この場所で出会った、ひとりの「藍奈さん」として彼女と向き合い続けること。それが、俺にできる最大の誠意だ。
そっとメガネの位置を直し、覚悟を決めて重厚なドアを押した。カランと静かな鈴の音が響く。
カウンターの奥、いつもの席に彼女は座っていた。
「……あ」
振り返った彼女と、まっすぐに目が合う。帽子とコートで身を包み、完全にオーラを消しているが、間近で見るとやはりあのスクリーンで輝いていた歌姫その人だ。
雨が降っていないにもかかわらず、彼女はいつもの席で待っていてくれたのだ。彼女は小さく息を呑み、マスターおすすめのウインナーコーヒーのカップを包んでいた両手を少しだけ震わせた。
俺は心臓が激しく打ち鳴るのを何とか押し殺し、なるべく自然な笑みを作って隣の席へ腰を下ろした。
「……こんにちは、藍奈さん。先週は急な仕事が入ってしまって……黙って来られず、本当にすみませんでした」
頭を下げた俺に、彼女はハッと正気に戻ったように首を横に振った。
「いいえ……! 来てくださって、ありがとうございます。……」
(私、五代さんがもう来てくれないんじゃないかって、すごく怖くて……)
声には出せず、胸の奥で小さく溢れ出たその思い。安心したように胸を撫で下ろす彼女。
俺は動揺を悟られないよう意識して平静を装い、いつものようにマスターへブレンドコーヒーを注文した。正体を知っていることを伏せ、不器用な中年エンジニアとしての距離感を保ちながらコーヒーを一口啜る。
◇
五代さんが、いつもと変わらない穏やかな笑顔で隣に座ってくれている。
ただそれだけで、昨夜までの冷たい孤独と不安が嘘のように消え去っていくのが分かった。
(よかった……五代さんは、私の正体に気づいていない……)
胸の奥で、小さく安堵の息を吐く。
マスターが「今日はとっておきのだよ」と出してくれた、ふんわり甘い生クリームが浮かぶウインナーコーヒー。そのカップを両手で愛おしそうに包み直す。
世間に出れば、私はいつでも完璧を求められる「歌姫・雨宮藍奈」だ。
事務所の大人たち、スポンサーの神宮寺専務、そして何万人ものファン。誰もが私に「雨宮藍奈」としての完璧な振る舞いを求め、勝手な理想を押し付けてくる。
「雨宮藍奈」として相談すれば、誰もが利害関係や世間の目を気にして忖度した答えしかくれない。私の本当の苦しみなんて、誰も分かってくれないのだ。
だからこそ、私は五代さんに聞いてほしかった。
「雨宮藍奈」としてではなく、この場所で出会った、ただの「藍奈」として。
職人として現場の泥臭い仕事に向き合い、人々の期待と責任を背負って戦っている五代さんにだけは、私のこの苦しい本音を受け止めてほしかった。
私はそっと一口ウインナーコーヒーを味わって心を落ち着かせると、勇気を出して口を開いた。
「五代さん……あの、少し仕事のことで、ご相談してもいいですか……?」
「ええ、もちろんですよ。俺でよければ、いくらでも聞きます」
五代さんはメガネの奥の瞳を和らげ、まっすぐ私に向き合ってくれた。その誠実な眼差しに背中を押され、私は自分の胸の中の葛藤を、言葉を選びながら紡ぎ出した。
「私の職場でも今、新しいプロジェクトの企画が進んでいるんですけれど……上層部は『今流行りの派手でインパクトがある案』を押してきていて。でも、実際に制作する現場やそれを受け取るお客様のことを考えると、もっと本質的で、一つひとつ丁寧に届くものを作りたいんです。……五代さんなら、上からの強い要望と『現場や届ける相手へのこだわり』がぶつかった時、どうやって折り合いをつけますか?」
新曲の方向性や神宮寺専務たちの存在を伏せるための言葉。
五代さんは静かに耳を傾け、深々と頷いてから、コーヒーカップをそっと置いた。
「……難しい問題ですね。ですが、上からの圧力と現場のこだわりで悩んでいる時点で、藍奈さんはもう素晴らしいプロフェッショナルですよ」
五代さんの温かい声が、冷えていた胸の奥にすっと染み渡っていく。
「上の人間は数字や派手さを求めるものですが、現場で命を吹き込む人間が信念を捨ててしまえば、届くものも届かなくなってしまう。俺も日々、上層部と現場の板挟みで悩んでばかりですが……迷った時はいつも『一番最後にそれを受け取る人が、どんな顔をするか』を基準にするようにしています」
「受け取る人が、どんな顔をするか……」
「ええ。上層部を納得させるためのロジックは俺たち大人がなんとか知恵を絞って作ればいい。でも、届ける対象への『熱量』だけは、現場の人間が守り抜かなきゃいけないんです。……藍奈さんがそこまで相手のことを考えて悩んでいるなら、そのこだわりは絶対に間違っていませんよ」
——一番最後にそれを受け取る人が、どんな顔をするか。
私の歌を、客席で聴いてくれる人たちの顔。
五代さんの言葉は、迷っていた私の心に一筋の明かりを灯してくれた。
(ああ……やっぱり、この人に話してよかった……)
「五代さん……ありがとうございます。私、なんだかすごく心が軽くなりました」
「それはよかった。俺の拙い経験がお役に立てたなら幸いです」
照れくさそうに頭をかく五代さん。
「雨宮藍奈」という肩書を捨て、ただの自分として向き合えるこの小さな喫茶店は、私にとって世界で一番温かいシェルターだった。
この人の作る音で、この人の前で、私はもう一度最高の歌を歌いたい——。
湯気の向こうで微笑む五代さんを見つめながら、私の心の中で、恋心とアーティストとしての情熱が静かに共鳴していた。
『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。
雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。
華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。
日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。
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