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水曜日、雨が降ったら  作者: 天王洲アイス


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第11話:忍び寄る障害

木曜日の朝。Jソリューションズのフロアは、早朝から重苦しい緊張感に包まれていた。

「五代課長……これ、親会社(Jフィナンシャルグループ)の経営企画室から直接降りてきた特注の指示文書です」

デスクに書類を置きながら、部下の三島さんが低く押し殺した声で報告してきた。メガネの奥の瞳には、明らかな困惑と焦燥が滲んでいる。

俺——五代零士は、書類の表題を目にした瞬間、思わず息を呑んだ。

『Jアリーナこけら落とし公演における音響ネットワーク基幹工事・納期短縮命令書』

発行元の欄には、グループ専務取締役・神宮寺葵の直筆署名と捺印が押されていた。

「納期を……2週間前倒し……!? バカな、来月頭のゲネプロに合わせるのだってギリギリのスケジュールなんだぞ!?」

「工事の工程上、完全に不可能です! しかも、理由欄には『創業50周年記念事業のプロモーション展開上の都合』としか書かれていません……」

三島さんは唇を噛みしめ、周りの社員に聞こえないよう、俺の耳元へさらに顔を寄せた。

「……五代さん。これ、ただの思いつきじゃないんです。神宮寺専務、いま世界の音楽市場の最新トレンドを完璧に研究していて、『日本の音楽を世界基準に引き上げるために、このアリーナで完璧なプロモーションを打つ』って息巻いてるらしくて……」

「世界のトレンド……?」

「専務は本気なんです。藍奈様を世界的なトップアーティストに押し上げるために、自分の構想する完璧な環境を前倒しで整えようとしてるんです。藍奈様への情熱も、仕事へのプロ意識も本物だからこそ……現場にどれだけの負荷がかかるかをまったく顧みない、無茶な前倒し命令になってるんですよ!」

三島さんは悔しそうに拳を握りしめた。

2週間の納期前倒し。それはインフラエンジニアにとって、システム障害を洗い出すテスト期間を丸ごと吹き飛ばす自殺行為だ。一歩間違えれば、本番でPTPの時刻同期が狂って音が止まる。技術的なリスクと恐怖が脳裏をよぎった。

だが——昨日、喫茶『雨音』でマスターおすすめのウインナーコーヒーを包み、「雨宮藍奈」であることを伏せたまま真摯に仕事の葛藤を打ち明けてくれた藍奈さん。

彼女の美しく誇り高い信念を守るためなら、どんな過酷な現場であっても踏みとどまらなければならない。

俺はゆっくりと立ち上がり、書類を固く握りしめた。

「……三島さん。現場のメンバーを集めてくれ。工程の再試算をする」

「五代さん……! 受け入れるつもりですか!? こんな暴挙……!」

「神宮寺専務の理想が高すぎるなら、俺たちが技術で現実を追いつかせるしかない。システムテストを削る分、俺たちが不眠不休で現場に張り付いて精度を上げる。……俺たちが現場で踏みとどまらなきゃ、一番傷つくのはあの場所で歌う彼女なんだよ」

三島さんは一瞬息を呑み、涙ぐんだ瞳を強く見開いて深く頷いてくれた。

「……了解しました! 全力でバックアップします!!」

同じ日の午後。大手芸能プロダクションの役員応接室。

私——雨宮藍奈は、冷め切った紅茶のカップを前に、ソファーに腰掛けていた。

対面に座っているのは、洗練されたスーツを隙なく着こなした男——Jグループ専務の神宮寺葵だった。彼の口元には優雅な笑みが浮かんでいたが、その瞳には世界を見据える情熱と、強い情念が宿っていた。

「藍奈くん。Jアリーナのこけら落とし公演のセットリストだが、世界配信を見据えた最新の音響演出プランに更新させてもらったよ」

「……神宮寺専務。新曲の方向性については、すでに制作チームと話し合いを重ねて決定したはずです。今からの過度な仕様変更は、現場のスタッフやエンジニアさんたちに多大な負担をかけることになります」

私が静かに、だが明確に難色を示すと、神宮寺専務は真摯で熱を帯びた瞳で私を見つめ返してきた。

「負担ではない、投資だよ。藍奈、君の歌声は日本だけに留まる器ではないんだ。海外のメガヒットチャートを分析すればわかる。圧倒的な音圧と視覚的インパクトが融合して初めて、世界の観客は熱狂する。私は君を、世界で通用する最高のアーティストに仕立て上げたい」

神宮寺専務は身を乗り出し、真剣そのものの眼差しで私に語りかけた。

「君の才能を誰よりも正しく評価し、世界へ届けるアタッチメントを用意できるのは私しかいない。……だから私を選んでほしい。仕事でも、パートナーとしても……君の人生のすべてを、私に預けてくれないか」

彼の言葉には一切の悪意や嘘はなかった。本当に私の歌を愛し、真剣に世界へ羽ばたかせようとしてくれている。

だが——その真っ直ぐで強大すぎる野望と情熱が、私には息が詰まるほど重かった。

彼が見ているのは「世界を目指す完璧な雨宮藍奈」という偶像であり、一人の人間としての私の声や、裏方で汗を流す人々の小さな誠実さではない。

激しい圧迫感に喉が締め付けられる。私は必死で指先の震えを抑え、喉元を一度撫でてから、神宮寺専務の目をまっすぐに見つめ返した。

「……お気持ちは光栄です、神宮寺専務。ですが、私にとって大切なのは、世界規模の演出でも権力でもありません。一番最後に私の歌を受け取ってくれるお客様に、誠実な音を届けることです。それを作ってくださる現場の方々を、私は心から尊敬しています」

「……藍奈」

神宮寺専務の瞳に、切なさと頑なな情念が混ざり合った火が灯った。

「君はまだ、自分の本当の価値に気づいていないんだな。いいだろう……私が提示するステージがどれほど素晴らしいか、現場が証明してみせる」

神宮寺専務は真摯な情熱を残したまま、静かに席を立った。

立ち去る背中を見送りながら、私の胸は重苦しい圧迫感で激しく脈打っていた。

彼の真剣な愛情と野望が、過酷なプレッシャーとなって現場の五代さんたちに襲いかかっている。

雨の降らない午後の窓外を見つめながら、私は胸の前で強く手を握りしめていた。

『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。

雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。

華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。

日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。

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