第12話:交錯するアリーナ
金曜日の午後。Jアリーナの広大なメインホールは、怒号と機材の動作音が飛び交う戦場と化していた。
「五代課長! 3階スタンド席のラインアレイ、位相差補正のパラメーターがまた跳ねてます! 映像データ用の光回線(ST 2110)が突っ込まれたせいで、スイッチのPTP時刻同期がわずかに振れてます!」
「慌てるな! CoS値の優先度を音響クロック最優先に静的固定(Priority Queue)して! 1ミリ秒のジッタも出さないように!」
俺——五代零士は、メインPA卓の巨大なコントロールパネルの前で、汗を拭う暇もなくキーボードを叩き続けていた。
神宮寺専務から突然突きつけられた『Jアリーナこけら落とし公演・納期2週間短縮命令』。
世界のエンタメ市場を見据えた専務の妥協なき高い要求が、現場に容赦のない負荷となって押し寄せていた。
不眠不休の追い込み作業。音響と映像の同時送出テストに追われ、頭が割れそうなほどのプレッシャーの中、俺の脳裏を支えていたのは、かつて俺自身が彼女に語った、エンジニアとしての原点の言葉だった。
『一番最後にそれを受け取る人が、どんな顔をするか』
(彼女の輝くステージを守る……! 専務の過剰な要求なんかに、この現場を潰させてたまるか!)
俺が鋭い視線でモニターの周波数特性波形を睨みつけていた、その時だった。
「……みなさん作業の手を止めてください! 親会社の神宮寺専務取締役、ならびにこけら落とし公演主演の雨宮藍奈様がお見えになりました!」
アリーナの入口方向から、運営事務局の切羽詰まった声が響き渡った。
ハッと息を呑み、作業の手が止まる。
重苦しい静寂が広がる中、メインホールの漆黒のアリーナフロアを、仕立てのいいスーツを着た男が悠然と歩いてくるのが見えた。
神宮寺葵専務。
そして、その数歩後ろには——帽子もかぶらず、落ち着いたトーンのセットアップに身を包んだ「雨宮藍奈」本人が立っていた。
(……藍奈さん……!)
胸が激しく鐘を打った。
喫茶店で「正体を知っていることを伏せたまま」向かい合っていた彼女が、今、大スター『雨宮藍奈』として俺の目の前の現場に立っている。
動揺で手が震えそうになるのを必死で抑え、俺はメガネの縁を押し上げて立ち上がった。
◇
神宮寺専務の後ろを歩きながら、私——雨宮藍奈は、アリーナの重苦しい空気と飛び交う怒号に気圧されていた。
神宮寺専務がPA卓のすぐ前まで進み出で、誇らしげに腕を広げる。
「見るといい、藍奈。我がJグループの資本と世界最新鋭の技術を結集させた、君のためのアリーナだ。ここで歌うことで、君は世界トップのアーティストへ跳躍する」
熱っぽく語る神宮寺専務の情熱。だが、その言葉はどこか遠くで響いているようだった。
私の視線は、メインPA卓の前で固まったように立ち尽くす一人の男性に釘付けになっていた。
作業手袋をはめ、汗に濡れた髪、目の下に濃い隈を作りながらも、まっすぐに私を見つめ返している眼鏡の男。
(……あ……)
胸の奥で、大きな波がドッと打ち寄せた。
作業着の胸元に刻まれた「Jソリューションズ」の文字。そして、何度も夢に見ただろう、あの温かく誠実な目元。
(……やっぱり。やっぱり、五代さんだったんだ……)
喫茶『雨音』で、守秘義務を守るために具体的な名前を伏せながら「大規模なホール案件」の音響トラブルを相談してくれていた五代さん。
あの大規模な空間構造、最上階の減衰、グランドループの発生……彼が語る現場の状況を聞くたび、私は心のどこかで薄々感づいていた。
——五代さんが命を削って作っているのは、私が立つこのJアリーナの音響システムなんじゃないかって。
そして、彼が私に教えてくれた、あの言葉。
『一番最後にそれを受け取る人が、どんな顔をするか』
あの温かい言葉を胸に、こうして目の前で汗と埃に塗れながらPA卓の前に立つ姿を見て、確信が激しい愛おしさと切なさとなって胸を突いた。
不眠不休で目の下の隈を削り、作業手袋の手を傷だらけにしながら、この広大なアリーナの音を構築している責任者——それが、私の大好きな五代さんだったのだ。
神宮寺専務が妥協なく世界基準の完璧さを求め、納期を繰り上げた圧力が、そのまま現場の五代さんたちの肩に重くのしかかっている。
(私を世界へ連れて行こうとする情熱が……五代さんたちをこんなにボロボロにしている……っ!)
胸を刃物で刺されたような激しい痛みが押し寄せる。申し訳なさと愛おしさが混ざり合い、視界が涙で滲みそうになった。
けれど、五代さんは動揺を押し殺し、毅然とした態度で頭を下げた。
「……Jソリューションズ音響インフラ担当の五代です。神宮寺専務、現在本番と同負荷でのネットワーク同期テストを行っております。安全確保のため、足元にご注意ください」
あえてビジネスライクな声を絞り出す五代さん。
その硬い声と眼差しで、私は直感した。
(五代さんは……私が『雨宮藍奈』だと気づいていても、あの場所と同じように知らないフリをして、私を守ろうとしてくれている……!)
自分自身が神宮寺専務の要求に押し潰されそうになりながら、どこまでも「雨宮藍奈」の立場と居場所を守ろうとしてくれる彼の不器用な優しさ。
私は細い指先で、小さく自分の喉元を撫でた。溢れ出しそうな涙と感情を必死で喉の奥に押し込める。
「……五代、さん……」
声には出さず、唇の動きだけで彼の名を呼ぶ。
私の胸の中で、恋心とプロとしての誇りが激しい炎となって燃え上がった。
「ほう……君が現場責任者の五代課長か」
神宮寺専務が真摯で妥協のない視線を五代さんに向けた。
「納期を2週間前倒しさせてもらったが、世界市場へ打って出る以上、1ミリ秒の妥協も許されない。もしゲネプロで音が飛ぶようなことがあれば……君たちのチームには降りてもらうことになる」
本気で世界を目指しているからこその、冷徹なまでの厳しさ。
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の中で何かが弾けた。
(この人を……私の大切な人を、これ以上置き去りにさせない……!)
私はぎゅっと両手を握りしめ、神宮寺専務に向かって静かに、だがアリーナ全体に響き渡る明確な声で言い放った。
「……神宮寺専務。私に必要なのは、完璧な世界進出の演出ではありません。五代さんたち現場の方々が作ってくださる、誠実な音です。この方たちの音が響かないなら……私はこのステージに立ちません」
アリーナの空気が凍りついた。
驚きに目を見開く五代さん。
神宮寺専務の瞳に驚きと切ない影が走り、息を呑むような緊迫感の中で、私たちの視線が激しく交錯していた。
『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。
雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。
華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。
日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。
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