第13話:オタク部下の極秘ミッション
都内のリハーサルスタジオから送迎車に乗り込み、自宅マンションの地下駐車場へ滑り込む。神宮寺専務の手配した警護スタッフの視線を背中に感じながら、私(雨宮藍奈)は静かに部屋のドアを閉めた。
アリーナで「この方たちの音が響かないならステージに立たない」と宣言して以来、私の生活は一変していた。リハーサルスタジオと自宅を往復するだけの完全な隔離状態。事務所の大人たちや神宮寺専務の秘書班が常に周囲を固め、外部との接触は一切遮断されていた。
静まり返った室内で鏡の前に立つ。ふと、これまでの自分の歩みが脳裏をよぎった。
10代半ばで国民的アイドルグループのセンターとして脚光を浴びた。けれど、作られたイメージと大人たちの人形のように踊らされる日々に疑問を感じ、周囲の大反対を押し切って20歳でアイドルを卒業。音楽の本質を学ぶために藝大の音響工学分野へ進学した。
あの時期は、思い返すだけでも息が詰まるほどの地獄だった。
大学の講義と課題に追われながら、深夜や早朝にボイストレーニングとダンストレーニングを詰め込む日々。アイドル出身という偏見から「どうせ腰掛けの大学通いだろ」「タレントの気まぐれ」と業界人から冷ややかな目で見られ、悔しさに唇を噛み締めながらスタジオの床に倒れ込むまで踊り続けた。
喉から血の味がするまで発声練習を繰り返し、ピッチ(音程)をミリ単位でコントロールする技術を叩き込んだ。ダンスも魅せるためだけの振り付けではなく、体幹をブレさせずに原音の美しさを保って歌いきるための徹底的な筋力トレーニングを重ねた。
そうして掴み取ったソロデビューだった。だが、待っていたのは別の苦悩だった。
ヒットチャートを追う音楽業界は、私の努力や音楽的探求よりも「元アイドルの話題性」や「音圧で押し切る派手なEDM」「SNSでバズるキャッチーさ」ばかりを求めてきた。商業主義の波に呑まれ、提示されたトラックを完璧に歌いこなすことでしか自分の価値を証明できない日々。
気がつけば30歳。私はまた、大人たちの作った華やかな籠の中で息をひそめていたのだ。
(私は、一体誰のために歌ってきたんだろう……)
そんな迷いの暗闇の中で出会ったのが、あの水曜日の雨の日に喫茶店『雨音』で出会った五代さんだった。
見返りを求めず、泥臭く現場の音と向き合い、誰に褒められなくても裏方としての矜持を持ち続ける中年エンジニア。自分の至らなさを素直に認め、変わろうとする彼の誠実さに接した時、私の凍りついていた心が解けていったのだ。
アイドル時代から血の滲むような努力で磨き上げてきた自分の声も、大学で学んだ知識も、彼だけが「本物のプロ」だと真っ直ぐに認めてくれた。彼が命を削って作ってくれた誠実な音があるから、今の私は「作られた歌姫」ではなく、ひとりの表現者として歌う覚悟を決めることができた。
だからこそ、この隔離生活も、神宮寺専務からの圧迫感も耐えられる。
神宮寺専務からの条件はあまりにも過酷だった。「Jアリーナでの最高の音質」「巨大LEDスクリーンによる8K映像演出」「全世界8K配信」のすべてをゲネプロまでに同時に成り立たせること。
(五代さんなら、絶対にやり遂げてくれる……)
スマートフォンの画面を開くが、そこには彼の連絡先すらない。寂しさが胸をかすめるけれど、私は喉元を一度力強く撫で、マイクの前に立つ自分の姿を強く思い描いた。
◇
水曜日の午後14時15分。激しい雨が打ちつけるアリーナの仮設コントロールルームで、俺(五代零士)はひとりキーボードを叩いていた。
習慣とは恐ろしいもので、この時間になると無意識に路地裏の喫茶店『雨音』のカウンター席と、温かいココアを手に優しく微笑む藍奈さんの姿を思い出してしまう。
(あそこに行けば、また彼女に会えるんじゃないか……)
そんな淡い期待を振り払うように、俺はメガネの位置を直した。神宮寺専務の監視の目は厳しく、アリーナ現場には秘書室からのチェックが入っている。だが、寂しさに浸っている暇はなかった。
神宮寺専務が提示した「最高音質」「8K LED演出」「全世界8K配信」の同時成立という無茶な要求。それは一見すると理不尽な圧迫だが、技術的にはエンタメの限界突破を意味していた。
「プロとして、逃げるわけにはいかないな」
藍奈さんは俺たち現場の誇りを守るために、自分のキャリアを賭けて神宮寺専務に啖呵を切ってくれたのだ。ならば俺がやるべきことはひとつ。エンジニアとしての最高の仕事で、彼女の覚悟に応えることだけだ。
その時、仮設ルームのドアが固く閉ざされ、部下の三島さんが鼻息荒く俺のデスクへ駆け寄ってきた。
「五代さん! 落ち込んでる場合じゃないですよ!」
「三島さん? どうしたんだ急に……」
三島さんは周りを警戒するように低音ボイスになり、胸ポケットから自分のスマートフォンを取り出した。その画面には、見慣れたSNSのダイレクトメッセージ画面が開かれている。
「私、諦めきれなかったんです! 監視されてて『雨音』にも行けない二人が、連絡すら取れないなんて理不尽すぎるじゃないですか! だから私、推し活で培った全ネットワークを駆使して、藍奈様の現場にアイドルデビュー時からついてる女性マネージャーさんに接触しました!」
「えっ……連絡って、まさか……」
「はい! そのマネージャーさんも実は藍奈様の気持ちをないがしろにする事務所の社長や神宮寺専務の強引なやり方に疑問を持っていて……私が『五代課長と藍奈様を繋ぐ架け橋になりたい』って直談判したら、協力してくれることになりました! これ、藍奈様の個人LINEに直結するQRコードです!」
三島さんは画面を俺の目の前につきつけ、メガネの奥の瞳をキラキラと輝かせた。
「五代さん、今すぐこれをスキャンしてください! 現場の状況も、お互いの想いも、このラインでやり取りしてください! 神宮寺の監視網なんて、藍奈様オタクの執念で突破してみせます!」
「三島さん……君というヤツは……」
部下のあまりにも熱く頼もしすぎる暴走に、俺は呆れ半分、感動半分で息を吐き出した。そして、震える手でスマートフォンをかざし、画面に浮かび上がった『藍奈』の文字を静かにタップした。
離れた場所にいても、届かせたい想いは同じだ。
俺たちの反撃は、ここから始まる。
『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。
雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。
華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。
日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。
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