第14話:世界基準という名の重圧
Jアリーナの仮設コントロールルームは、もはや戦場だった。
モニターに並ぶネットワーク帯域のグラフが、危険域を示す真っ赤な数値を弾き出し続けている。
「五代さん! 巨大LEDスクリーンに送り込む未圧縮8K映像データ(ST 2110)だけで、トランク回線の8割を食いつぶしてます! このまま全世界8Kライブ配信用のマルチトラック音声データを乗せたら、ネットワークスイッチのバッファが溢れてPTPの時刻同期が狂います! 音声のフレーム落ちとジッタが止められません!」
汗で前髪を額に張り付かせた三島さんが、キーボードを叩きながら悲鳴のような声を上げた。
予備のSFP28モジュールの在庫を資材倉庫から抱えて走ってきた三島さんの瞳には、恐怖ではなくエンジニアとしての闘志が宿っていた。
「あわてるな、三島さん。帯域が足りないなら、物理層(L1)から組直すだけだ」
俺は冷静に手元の構成図を広げた。
神宮寺専務が要求する「Jアリーナでの最高の音質」「巨大LEDスクリーンの8K映像演出」「全世界8K同時ライブ配信」の同時成立。どれかひとつでも欠ければ、あの男は藍奈さんをステージから引きずり下ろし、俺たち現場のエンジニアを追放するだろう。
「コアスイッチにSFP28モジュールを投入してトランクを25Gへ物理拡張する。映像データと配信データ、そしてアリーナ内の音響制御VLANを完全に独立隔離(ハードウェア分離)させろ。音響とPTPクロックのパケットには最優先キュー(Strict Priority)を静的割り当てして、1ミリ秒のジッタも出させない」
「に、25Gへの拡張ですか!? ですが、そんな短期間でVLANマップをすべて書き直して、スイッチのパケットフィルターを再調整するなんて……五代さん、今週ほとんど眠ってないじゃないですか!」
三島さんが心配そうに俺の顔を覗き込んできた。鏡を見なくてもわかる。目の下には酷いクマができ、過労で視界の端がかすんでいた。キーボードを叩く指先がかすかに震え、眩暈を覚えて一瞬デスクに手をつく。
(まだだ……まだやれる……)
「俺の体調なんてどうでもいい。藍奈さんは、自分の歌手生命を賭けて俺たちの音を信じてくれたんだ。……プロとして、逃げるわけにはいかない」
三島から極秘に共有されたLINEの画面を、俺は仕事の合間にそっと開いた。
『五代さん、今日も冷たい雨ですね。私はスタジオで歌い込んでいます。五代さんの作ってくれる音があるから、私、何も怖くありません』
画面に浮かぶ藍奈さんからの温かい言葉が、擦り切れそうな俺の身体に奇跡のような力を与えてくれた。
「三島さん、負荷テストをもう一巡やるぞ。完璧な音を、彼女に届けるんだ」
メガネの位置を直し、俺は再び荒れ狂うデータパケットの海へ指を走らせた。
◇
リハーサルスタジオの控室に、重苦しい静寂が満ちていた。
ドアが開いた。仕立ての良い高級スーツに身を包んだ神宮寺専務が、静かな足取りで入ってくる。警護のスタッフに目配せして退室させると、彼は私の向かいのソファーへ腰を下ろした。
「藍奈。リハーサルは順調かね」
「ええ、問題ありません」
「そうか。だが、君の選んだ道は茨の道だぞ」
神宮寺専務は足を組み、冷ややかな、けれど強烈な自負を込めた瞳で私を見つめた。
「Jアリーナでの最高の音質、巨大LEDでの8K映像、そして全世界への8Kライブ配信。これらはすべて、我がJグループの圧倒的な資本力と最新技術があって初めて実現する『世界基準』のエンターテインメントだ。世界市場へ打って出る以上、完璧な演出とスケールが不可欠。それを……あのエンジニアひとりの肩に背負わせるというのか?」
「五代さんたちは『ただのエンジニア』ではありません。現場の誰よりも音に真摯で、私の声を完璧に届けてくれる最高のプロです」
「ふん……プロだと?」
神宮寺専務が自嘲気味に鼻で笑った。
「彼らはただの現場の労働者だ。納期に追われ、過労で潰れるかもしれないが私にとってはコマの一つにすぎない。君の歌声は世界で輝くべきだ。あんな冴えないエンジニアに、君の輝かしい未来を託せると思うのかね? 私の側に来るべきだ、藍奈。私なら君を世界の頂点へ連れて行ける」
神宮寺専務の手が、優しく、けれど拒絶を許さない圧力を持って私の肩へ伸びてきた。
その手から漂う高級な香水と、拒絶を許さない冷たい体温が肌に触れた瞬間、私は背筋が凍るような強い反発を覚えた。
私はその手を、迷いなくサッと払いのけた。
「お断りします、神宮寺専務」
神宮寺専務の眉がぴくりと跳ね上がった。
「私が世界へ届けたいのは、過剰な演出ではありません。アリーナの一番後ろの席にいるたったひとりの心にまで溶け込んでいく、誠実な原音の響きです。そして……私の歌に命を吹き込んでくれるのは、五代さんたち現場の泥臭い誇りと誠実さだけです」
私は立ち上がり、膝の上で固く握りしめた拳を胸に当てた。神宮寺専務を真っ直ぐに見据える。
「五代さんたちがシステムを完成させ、彼の音が響かない限り、私は絶対にマイクを握りません。私を世界へ連れて行きたいのなら……五代さんたちの作る音を信じてください」
「……後悔するぞ、藍奈」
神宮寺専務は冷酷な笑みを浮かべ、立ち上がった。
「ゲネプロまでに完璧なシステムが動かなければ、その時は君も彼らも、この業界から完全に追放する」
吐き捨てるように言い残し、部屋を出ていく神宮寺専務の背中を見送りながら、私は深く息を吐き出した。
足が少し震えていた。けれど、胸の奥には少しの迷いもなかった。
離れた場所にいても、五代さんは今この瞬間も、不眠不休で私と現場のために戦ってくれている。
スマートフォンを握りしめ、私は画面上の『五代さん』という文字に、そっと指先で触れた。
「五代さん……私、負けませんから」
外は冷たい雨が降り続いていた。
だが、私たちの周波数は、どれほど遠く離れていても確かに繋がり合っていた。
『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。
雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。
華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。
日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。
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