第15話:限界突破の現場
Jアリーナの仮設コントロールルームは、モニターの明かりだけが青白く暗闇を照らしていた。
「五代さん、SFP28の25G物理トランクのスタック設定、完了しました! 音響制御VLANのパケットロス率もゼロに安定しています!」
三島さんが懸命に声を張るが、その声がどこか遠くで響いているように感じる。
「……あぁ、よくやった、三島さん……」
俺(五代)はかすれる声で答えながら、最後のスイッチングハブのコンソール画面に向かい、設定パラメータの整合性を最終確認するためのコマンドを打ち込もうとした。
画面の黒い背景に流れていくコンフィグの数々。それは、巨大な8K映像データという荒れ狂う大河の津波から、藍奈の繊細な「声」という一筋の美しいせせらぎを守り抜くための、血の滲むようなインフラの防壁だった。映像パケットがどれほど帯域を食いつぶそうとも、音のパケットだけは絶対に汚染させない。最優先の専用レーン(Strict Priority Queue)を定義したQoSポリシーを適用し、ミリ秒単位で時刻を同期させるためのルーティング設定を、俺は震える指で追い続けていた。
だが、キーボードを叩く指先がまるで自分のもののように動かない。一週間、睡眠をほとんど取らず、極限の緊張状態の中で脳を酷使し続けた肉体は、すでに限界のその先を通り越して崩壊寸前だった。
視界の端が急速に真っ暗に染まっていく。
耳鳴りが激しくなり、アリーナの巨大な空間がぐるぐると大きく歪んで回転した。
「五代さん……? 五代さんっ!」
三島さんの叫び声を最後に、俺の意識は深い闇の中へと落ちていった。最後に脳裏に浮かんだのは、冷たい雨の降る喫茶店『雨音』で、温かいココアのカップを両手で包み込む藍奈さんの優しい笑顔だった。
◇
都内のリハーサルスタジオ。ステージの端で激しいダンスと歌い込みの直後、荒い息を整えていた私のスマートフォンが激しく震えた。
画面を見ると、女性マネージャーからのLINEメッセージだった。
開いた瞬間、血の気が一気に引いていくのが分かった。
『五代さんが、アリーナのサーバーラック前で倒れ、すぐに救急車で病院へ搬送されたみたい…』
「え……?」
声に出そうとしたが、喉の奥が詰まって音にならなかった。
黒のオーバーサイズTシャツの裾を強く握りしめ、スマートフォンを取り落としそうになりながら必死に両手で支える。
(五代さんが……倒れた……?)
頭の中で、あの優しくメガネを押し上げる笑顔と、私のために不眠不休で戦ってくれていた彼の姿が交錯した。
大粒の涙が止まらなかった。私のために、私の歌う居場所を守るために、彼は自分の身体を壊すまで戦ってくれていたのだ。
無機質に音が響くスタジオの隅で、私は冷たい床に崩れ落ち、Tシャツの襟元をきつく掴んだまま、声を殺して泣きじゃくった。周囲のスタッフが慌てて駆け寄る声も、今の私には海の底のように遠く聞こえなかった。
世間のプレッシャーも、神宮寺専務の冷酷な脅しも、今の私にはどうでもよかった。
私の心から離れないのは、ただ一つ。「五代さんにまた会いたい。あの温かい声を聞きたい」という強い願いだけだった。
私は涙を乱暴に拭い、しっかりと立ち上がった。
もう迷わない。彼が命を賭けて守ろうとしてくれたこの戦場で、今度は私が彼の誇りを守るために立ち上がる番だ。
『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。
雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。
華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。
日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。
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