第16話:歌姫の覚悟
送迎車を降りた私(藍奈)は、Jアリーナの管理棟へと続く廊下をまっすぐ歩いていた。
黒のオーバーサイズTシャツの上に羽織ったノーカラーのロングジレが、私の冷徹なまでの決意を映すように揺れる。
神宮寺専務の秘書室から「すぐに面会したい」と連絡があったのは、スタジオを出てすぐのことだった。おそらく、五代さんが倒れたという情報を嗅ぎつけ、私を完全に屈服させるための呼び出しだろう。
だが、今の私に恐れは微塵もなかった。
あるのは、命を削って私の声を守ろうとしてくれた五代さんへの深い想いと、冷酷な大人たちへの静かな怒りだけだった。
ノックもせずに重厚な扉を開けると、窓際に立っていた神宮寺専務が振り返った。その顔には、すべてを掌握したと言わばかりの冷笑が浮かんでいた。
「おや、藍奈。機嫌が悪そうだな。……耳に入っているか? 君の盾となっていたあの中年エンジニアが、過労で倒れたそうだ。大変残念だがJアリーナのエンジニアチームは交代だ。素直に我がJグループの完璧なスケジュールと演出に従いなさい」
神宮寺専務の言葉を聞き終えると、私は静かに息を吐き、冷ややかに彼を見据えた。
「……神宮寺専務。あなたの言う『世界水準の圧倒的な資本力と最新の巨大演出』が、グローバル市場においてどれほど強力な武器であるか、私も理解しているつもりです。その規模感やビジネスとしての合理性に、敬意を払わないわけではありません」
神宮寺専務の眉が、わずかにピクリと動いた。私は一歩前へ踏み出し、さらに言葉を続けた。
「ですが、私にとってこのJアリーナという舞台は、単なる通過点ではありません。これからの私のアーティスト人生を左右する、絶対に妥協できない戦場なのです。
この巨大な空間が持つ真のポテンシャルを極限まで引き出し、観客の心を揺さぶる最高の音響空間を作り上げること。そして、その音の海の中で、私の歌声を一切の濁りなく世界中へ解き放つこと。それができるのは――五代さんの築き上げたシステムと、現場の技術だけです」
私はスマートフォンを強く握りしめ、神宮寺専務の机に鋭い視線を突き刺した。
「私のアーティストとしての命を、あの人たちと、あの人の作る技術に賭けています。
あの人のシステムと現場を外して、代わりの業者を入れるような真似をするなら……私は絶対にマイクを握りません。観客の皆様に嘘のない、この空間の限界を超える最高の音楽を届けるために、私のすべてをあの人の音に預けます」
「ふざけるな! アーティストが生死を賭けたところで、システムが動かなければ公演自体が中止になるんだぞ! 君のキャリアすべてが水の泡になるどころか、大損害になることがわからないのか!」
激昂する神宮寺専務に対し、私は一歩も引かず、氷のように冷たく、けれど熱を帯びた声で言い返した。
「私のキャリアも、命も、あの人が作ってくれた音と共にあるのです。……すべてを失う覚悟はできています。あなたにできるのは、私を脅すことではなく、五代さんのシステムが完成するのを待つことだけです」
圧倒されたように絶句する神宮寺専務を背を向け、私は静かに部屋を出た。
廊下に出ると、私はそっとポケットのなかでスマートフォンを握りしめ、心の中で祈った。
(五代さん……戻って来るまで、私も、ここで絶対に負けないから)
◇
白く無機質な病室の天井を見つめながら、俺(五代)は点滴を外し、フラフラとする足でベッドから降りようとした。
医者からは絶対安静と言われているが、じっとしている時間などなかった。
(タイムアライメントの最終調整と、8Kパケットエンコードの最適化がまだ残っている……今すぐ現場に戻らないと……!)
「――ダメです、五代さんっ!」
ガチャリと病室のドアが勢いよく開いた。
ナースステーションの前で必死に頭を下げ、「面会は5分以内ですからね!」と看護師から特別に許可をもらってきた三島さんが、文字通り飛び込んできたのだ。
三島さんは慌てて俺の前に立ち塞がり、両手を広げてドアを塞ぐ。
「どこに行くつもりですか! 」
三島さんは切羽詰まった声でまくし立てた。
「今は悲鳴をあげている体の疲労回復が最優先です。それに今フラフラの状態で現場に戻ったって、かえって悪化するだけです! それに、藍奈様が神宮寺専務に直談判して、五代さんのシステムを待つって退路を断って戦ってるんですよ……! ここで無理をしてまた倒れたら、藍奈様の覚悟が全部無駄になっちゃうじゃないですか!」
三島さんの必死な言葉に、俺はハッと動きを止めた。
藍奈さんが、自分のアーティスト人生を賭けて、俺たちのシステムを守るために戦ってくれている。その想いを踏みにじるわけにはいかない。
俺が歯噛みしながらベッドの端に腰を下ろすと、三島さんはふうっと息を吐き出し、制限時間がある焦りの中、決意を秘めた目で俺を見つめた。
「……看護師さんとの約束は5分です。どうしても作業しなきゃ気が済まないなら、方法を変えましょう」
「方法って……?」
「明日、病院には内緒で、ノートPCとポータブルのモバイルルーターをこっそりこの病室に持ち込みます。アリーナのサーバーラックとVPNで直結させて、ここからリモートで指示を出してください!」
三島さんは自分の胸をトントンと叩いた。
「現場の構築は私が汗をかいて全部やります! だから五代さんは、このベッドの上から頭脳として私を動かしてください! 看護師さんに見つかる前に、早く決めてください!」
部下のあまりにも頼もしい提案に、俺は思わず苦笑し、そして深く頷いた。
「……わかった。頼む、三島さん」
翌日、病室のベッドの上で、俺は持ち込んでもらったノートPCを膝の上に広げた。画面には、Jアリーナの仮設コントロールルームにいる三島さんが映してくれるカメラ映像と、遠隔コンソールの画面が並んでいる。
(※面会時間をこっそり過ぎてしまっているが、今はそれどころではない)
「五代さん、音声VLANのバッファアロケーション、これであってますか!?」
画面の向こうで、三島さんが汗だくになりながらスイッチの配線と格闘している。
「そこは値を『0x2F』に書き換えろ。それから、PTPクロックのマスター同期パケットにStrict Priorityを割り当てるんだ。三島さん、頼む、正確に頼むぞ」
「了解です! ……コマンド、投入します!」
過労による頭痛がまだ残っているが、構っている暇はない。俺の手から離れた現場を、三島が懸命に支え、俺が病室からその心臓部をコントロールする。
離れていても、俺たちのチームワークは完璧だった。
待っていてくれ、藍奈さん。
君のアーティストとしての未来を懸けたそのステージへ、俺の魂を込めたシステムを必ず間に合わせてみせる。
『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。
雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。
華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。
日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。
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