第17話:奇跡の同期(シンクロ)
病院の白く狭い病室。窓の外では相変わらず冷たい雨がアスファルトを叩いていたが、今の俺の視界には、三島さんがこっそり持ち込んでくれたノートPCの画面しか映っていなかった。
「五代さん、コアスイッチのQoSポリシーマップの適用、終わりました。音声制御VLANのパケットロス率、完全にゼロをキープしています!」
スマートフォンのビデオ通話越しに、三島さんの息を切らせた声が響く。画面の向こうのアリーナの仮設コントロールルームでは、三島さんが額の汗を袖で拭いながら、次の設定コマンドの入力を待ち構えていた。
「よくやった、三島さん。だが、まだ終わりじゃない。最後に、PTPクロックのグランドマスター同期におけるジッタの許容値をミリ秒単位からナノ秒単位へ絞り込め。巨大LEDのST 2110映像ストリームがどれだけバッファを圧迫しようとも、音声パケットを最優先キューから絶対に外すな」
「了解です……! パラメータ書き換え、実行します……!」
カチャカチャと、画面越しに三島さんがキーボードを叩く乾いた音が聞こえてくる。
過労で激しく脈打つ頭痛と目眩を奥歯で噛み締めながら、俺はコンソールのログを凝視した。
(頼む……! 間に合ってくれ……!)
もしここで同期が外れれば、音のフレーム落ちやリップシンクの狂いが生じ、藍奈さんのステージは台無しになる。神宮寺専務の脅しに屈せず、自分のすべてを賭けて戦ってくれた彼女の覚悟を、ここで途切れさせるわけにはいかない。
「――五代さん! 通りました! PTPクロックの同期完了、ジッタの揺らぎゼロ、音声と映像のリップシンク、完全に一致しました!」
三島さんの歓喜に満ちた声が、病室の静寂を切り裂いた。
ノートPCのモニターに並ぶすべてのステータスインジケータが、まばゆい緑の光を点滅させる。
「やった……!」
俺は小さく息を吐き出し、ベッドの背もたれにぐったりと身体を預けた。
離れていても、俺たちのシステムは、あの巨大なJアリーナの心臓部を完全に掌握したのだ。
◇
Jアリーナの控室。
私は深く腰掛け、両手でしっかりとマイクを握りしめていた。
神宮寺専務とのピリついた面会を終えて戻ってきてから、心臓の鼓動は早鐘のように鳴りっぱなしだった。私のキャリアも命も賭けたこのステージ。五代さんが病室から、そして三島さんが現場で、私のために戦ってくれている。
私は、ステージに向かった。音響チェックでフロアのスピーカーから、それまでとは全く違う、圧倒的にクリアで美しい音が響き渡った。
「――テスト、マイクチェック。……音、通ります」
アリーナの仮設コントロールルームにいる三島さんの声だった。
その声には、ノイズや遅延が一切なく、まるで目の前で話しているかのように瑞々しく、心地よい温もりを伴って響いていた。
スタッフたちがざわめき始める。
「なんだこの音……? 巨大LEDの映像データがフル稼働しているのに、音が全く濁ってないぞ……!?」
私はゆっくりと立ち上がり、マイクを握ったままステージの中央へと歩みを進めた。
巨大なLEDスクリーンには、雨に濡れた街並みの美しい8K映像が滑らかに映し出されている。映像と音響、そして全世界への配信回線が、寸分の狂いもなく完全に同期していた。
私は深く息を吸い込み、マイクに向かって最初のフレーズをそっと歌い落とした。
♪――雨音の向こうに、あなたの声が聴こえる
驚くほど軽やかに、そして力強く、私の声がJアリーナの広大な空間の隅々まで溶けていく。
音の遅延も、ノイズも、歪みもない。五代さんが命を削って組み上げた「音の防壁」が、私の歌声を完璧に包み込み、最高の輝きを与えてくれていた。
「五代さん……聴こえていますか……?」
私は涙を堪えながら微笑んだ。
もう不安なんてない。この完璧なシステムと、私たちの周波数が繋がった今、このステージは世界最高の奇跡になる。
『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。
雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。
華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。
日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。
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