第8話:スクリーンの向こうの歌姫
街を濡らすレースカーテンのような雨は、昨日からの深夜作業で擦り切れた俺の心を静かに包んでいるようだった。
14時15分。俺は、いつものように喫茶『雨音』のドアを開けた。カランと静かな鈴の音が重厚な店内に響く。
カウンターの奥、いつもの席にはすでに藍奈さんが座っていた。
「こんにちは、五代さん」
彼女は温かいココアのカップを両手で包み込みながら、静かで温かい眼差しを向けてくれた。
「こんにちは、藍奈さん。今日も雨ですね」
隣の席に腰を下ろし、マスターにブレンドコーヒーを注文する。
昨日までのアリーナ現場での過酷な仕様変更トラブル、神宮寺専務の無茶振りをプロの技術で退けたこと——俺は言葉を選びながら、静かに語りかけた。
「実は昨日、現場で不測の変更がありまして。一時は途方に暮れかけましたが、エンジニアたちで知恵を絞り、なんとか美しく納めることができたんです」
「良かったですね。五代さんたちが目に見えない場所で静かに戦ってくださるから、きっと表に立つ方も、迷いなく声を響かせることができるのですね」
藍奈さんは深く深く頷き、まるで自分のことのように慈しむような目を整えた。
自分をひとりのプロとして認めてくれる彼女の言葉。彼女の前でだけは、どんなに泥臭いインフラの仕事も、誇り高く洗練されたものに変わる気がした。
「藍奈さんのように、裏方の矜持を理解してくださる方がいるから……逃げずに踏みとどまれました」
「いいえ。私の方こそ、五代さんのお仕事の話しに、いつも救われているんです」
ココアの湯気越しに視線が交錯する。
ほんのりと表情を緩める彼女の横顔に、俺の胸の奥は静かな熱を帯びていった。
立場も年齢も越えて、ただひとりの人間として惹かれ合っている感覚。
次の雨の日には、この胸の熱に名前をつけて伝えてみようか——俺はそんな密やかな決意を胸に抱きながら、あたたかな時間を噛み締めていた。
◇
喫茶店を後にした俺は、アリーナの現場へ戻るため、小雨の降る街頭を歩いていた。
満たされた心地よさに浸りながら交差点に差し掛かったその時、頭上から重厚なオーケストラの旋律が降り注いだ。
見上げると、ビル壁面に設置された巨大な街頭ビジョンに、Jアリーナこけら落とし公演のプロモーション映像が映し出されていた。
『令和の絶対的歌姫、Jアリーナに降臨——雨宮藍奈』
スポットライトを浴び、数万人の歓声の中でマイクを握るトップアーティスト。
その圧倒的な存在感に息をのんだ瞬間、画面の中の彼女が、ふと歌唱の合間に見せた挙動に俺の目が釘付けになった。
画面の中で、歌姫は細い指先でそっと自身の喉元を撫で、愛おしそうに胸元に手を添えている。
呼吸が止まった。
音響工学への深い造詣。
「一番後ろの席に届ける」という音への執着。
三島さんが大切に飾っていたアクリルスタンドの面影。
そして何より、喫茶店のカウンターでクライアントの配信トラブルを話してくれた時、つい見つめてしまった「指先で喉元を撫でる仕草」。
巨大スクリーンの中で、美しく輝く歌姫の瞳。
街頭の喧騒が遠のき、頭の中で幾つもの点が静かに、だが不可逆的に結びついていく。
「……あ……」
声にならなかった。
奇妙な偶然などではなかった。
俺が情けない悩みを打ち明け、肩を並べて穏やかな時間を過ごしていたあの静かな女性は、日本中が熱狂する大スター『雨宮藍奈』その人だったのだ。
立ち尽くす俺の傘を、雨粒が無情に叩き続ける。
何が「プロとして対等だ」だ。何が「誇らしく報告しよう」だ。
相手は巨大な資本と期待を背負い、雲の上のステージに立つ存在。
しがない中年インフラエンジニアが、足を踏み入れていい世界ではなかったのだ。
万が一にも、自分が彼女と個人的な繋がりを持っていると噂されればどうなる。
くだらないスキャンダルとして消費され、彼女の輝かしい名誉を傷つけ、プロジェクトそのものを灰燼に帰すことになる。
(……引き際だ)
俺の身の程知らずにも芽生えてしまった恋心が、彼女の未来を曇らせることだけは絶対に許されない。
俺はそっとメガネの位置を直すと、ビジョンの眩しい光から目を背け、雨の街へと歩き出した。
もう、水曜日にあの扉を開けてはならない。
それが、俺が彼女のプロフェッショナリズムに対して支払うべき、唯一の誠意だった。
◇
翌週の水曜日。
街は激しい雨に包まれていた。
路地裏に佇む喫茶『雨音』のドアを開け、私はいつものカウンター席に腰を下ろした。
14時15分。
カランと鈴が鳴るたびに、私は胸を小さく高鳴らせて入り口へ視線を向けた。
だが、入ってくるのは雨から逃れてきた見知らぬ客ばかり。
14時30分が過ぎ、15時を回っても、あの眼鏡をかけた優しい男性の姿は現れなかった。
ココアはとっくに温もりを失い、冷たい膜を張っていた。
約束を交わしたことなど一度もなかった。水曜日に雨が降れば、ただ導かれるようにこの場所で同じ時間を分け合えていた。
けれど、彼は来なかった。
スマホの画面を開いても、彼に繋がる連絡先すら知らない現実が、冷ややかに突き刺さる。
突然訪れた静寂。
胸の奥が軋むように痛み、孤独が足元から這い上がってくる。
私は冷え切ったカップを両手で強く包み込み、ぽつりと呟いた。
「どうして……五代さん……」
窓ガラスを激しく叩く雨音だけが、虚しく店内に満ちていた。
『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。
雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。
華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。
日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。
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