第7話:黄金の御曹司
「藍奈、鏡前チェックが終わったら神宮寺専務のところへ挨拶に行くぞ。……くれぐれも失礼のないように対応してくれ」
撮影スタジオの楽屋で、マネージャーが表情を引き締めながらそう言った。
「神宮寺専務……ですか?」
首をかしげる私に、マネージャーは声を潜め、デスクの資料を指さしながら説明を始めた。
「Jアリーナの最高統括責任者であり、Jフィナンシャルグループ専務取締役の神宮寺葵氏だ。グループ創業家の御曹司で、若くしてエンタメ・メディア事業を仕切る絶対的な権力者だよ。ウチにとっても大口のCMスポンサー様だし、何より今回のJアリーナこけら落とし公演に君を抜擢してくれた最大の恩人でもある」
「そう……だったんですね」
「ああ。だからビジネスとしては最大限の敬意を払わなきゃいけない。……ただ、あの男は金と立場で全てを動かしてきた男だ。自分を『最高のエンタメの理解者』だと自負していて、裏方やアーティストを自分の所有物のように扱う一面もある。警戒は怠るな。だが、角を立てずに大人の対応をしてくれ」
マネージャーの言葉から漂う緊張感に、私は静かに自分の喉元を撫でた。
スポンサーとしての巨大な影響力と、権力ですべてを支配しようとする傲慢さ。複雑な配慮を求められる相手なのだと気を引き締め、私は楽屋を出て彼の元へと向かった。
「やあ、藍奈。待っていたよ」
廊下の先で、高級感のある仕立てのスーツに身を包んだ男が、取り巻きを従えて待ち構えていた。
きらびやかな照明の下、自信に満ちあふれた不敵な笑みを浮かべる男——神宮寺葵だった。
「神宮寺専務、本日はお時間をいただきありがとうございます。こけら落とし公演へのご起用、心より感謝申し上げます」
私が深々と会釈をすると、彼は手に持った大きなバラのブーケを満足そうに差し出してきた。
「気にしなくていい。君の歌声は本物だ。……だがね、今の演出プランは地味すぎる。もっと派手で巨大なLEDスクリーンをバックに配置し、音圧で客を圧倒するド派手なショーに仕様変更させることにしたよ」
「……仕様変更、ですか? ですが現在の設計は、原音のクリアな響きを会場全体へ届けるため、現場のエンジニアの方々が緻密に計算してくださったものです」
私が恐る恐る懸念を口にすると、神宮寺専務は深く豊かな笑みを浮かべ、圧倒的な威圧感をもって私を見下ろした。
「君は勘違いをしているよ、藍奈。どれほど美しい歌声だろうと、それを増幅させる圧倒的なシステムと資本がなければ、世界には届かない。下請けのエンジニアどもが描いた小細工など、私の金とパワーで書き換えればいい。私のアリーナと私の資本があって初めて、君の歌は完成するんだ。……今夜、食事でもどうだ? 君の今後の世界進出プロジェクトについて語り合いたい」
「最高のエンタメ」を自負し、金の力で芸術さえも完璧に支配できると信じて疑わない言葉。
大口スポンサーとしての恩義はあれど、そこには私という人間や歌に対する敬意も、裏方で汗を流す現場への配慮も一切なかった。あるのは、すべてを自身の所有物として従えようとする傲慢な思想だけだ。
胸の奥が冷たく冷え切っていく。
「温かいお誘い、恐れ入ります。ですが今夜は次の制作打ち合わせが入っておりまして……大変申し訳ありません」
「……ふん、相変わらずつれないな。だが、君を満足させられる男は私しかいないはずだ」
不服そうに鼻を鳴らす神宮寺専務に、マネージャーが絶妙なタイミングで入って頭を下げ、私はなんとかその場を立ち去ることができた。
支配と欲望に満ちた黄金の御曹司。
彼の強引さに辟易しながら、私の脳裏に浮かんでいたのは、雨の日の喫茶店で不器用そうにメガネの位置を直し、現場の職人たちや部下の努力に真摯に向き合っていた、あの眼鏡の男性の姿だった。
立場や財力を振りかざすこともなく、ただ純粋に「プロの音」と「目の前の人間」を大切にしてくれる五代さん。
(……五代さんに、会いたい)
無心で自分に向き合ってくれる彼の存在の大きさを、痛いほど実感していた。
◇
同じ頃、Jアリーナの現場管理室。
激しい怒号とキーボードの打鍵音が交錯し、空気は荒れ狂っていた。
「正気かよ!? こけら落とし公演まであと1か月切ってんだぞ! 今からメインスクリーンを大型化して、未圧縮の8K映像ライン(ST 2110)をバックボーンに突っ込むなんて無茶苦茶だ!」
現場のPAチーフが、デスクを拳で叩いて叫んだ。
「神宮寺専務からの直々の指示なんです……『予算はいくらでも出す、クオリティ優先で即時変更しろ』って……」
頭を抱える事務局の担当者。
映像の超大容量データが回線を圧迫すれば、俺たちが血の滲むような思いで構築した音響ネットワークのQoS帯域制御が破綻する。PTPの時刻同期が狂ってクロックジッタが発生し、最悪の場合、本番中に音声のブツ切れやノイズが巻き起こるのだ。
「五代さん! どうするんですかこれ……! スイッチの帯域、もう100%打ち天井ですよ!」
部下の三島さんが、青ざめた顔で俺——五代零士を見つめていた。
俺は静かに椅子から立ち上がり、胸ポケットから精密ドライバーを取り出すと、落ち着いた声で現場全体に語りかけた。
「慌てるな。専務の無茶振りに文句を言っても仕様変更は撤回されない。だが、俺たちのプロの仕事まで壊させるわけにはいかない」
「五代さん……」
「コアスイッチにSFP28トランシーバーを追加し、アリーナ間のトランク帯域を物理層(L1)から25Gへ拡張する。その上で音響専用VLANをタグ打ちして完全に独立隔離し、最優先キュー(Priority Queue)を静的に割り当てる。いくら映像パケットがバーストしようが、音響パケットには1ビットも干渉させない」
俺の論理的で迷いない指示に、絶望に包まれていた現場エンジニアたちの瞳に再び火が灯った。
「……了解だ、五代さん! 冗長構成の再設計とVLANマップ、徹夜で書き直すぞ!」
「おう! 専務の気まぐれで本物の音を潰されてたまるか!」
現場が一体となって動き始め、徹夜の復旧作業が始まった。
深夜2時。トラブルの目処が立ち、静まり返った管理室で、俺はPC画面の隅に表示されている天気予報を見つめた。
明日は、水曜日。予報マークは降水確率80%の雨を示している。
急な仕様変更という巨大な壁を、俺たちはプロの技術で乗り越えてみせる。出資者の気まぐれに屈せず、完璧な音響インフラを守り抜きたい。
(もう少しでこの深夜作業もひと段落する……)
あたたかいココアを両手で包む「藍奈さん」に会えたら。
胸の奥に溢れる純粋で温かい期待感を抱きながら、俺は明日の雨の午後を、心から楽しみに待っていた。
『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。
雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。
華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。
日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。
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