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水曜日、雨が降ったら  作者: 天王洲アイス


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7/24

第7話:黄金の御曹司

「藍奈、鏡前チェックが終わったら神宮寺専務のところへ挨拶に行くぞ。……くれぐれも失礼のないように対応してくれ」

撮影スタジオの楽屋で、マネージャーが表情を引き締めながらそう言った。

「神宮寺専務……ですか?」

首をかしげる私に、マネージャーは声を潜め、デスクの資料を指さしながら説明を始めた。

「Jアリーナの最高統括責任者であり、Jフィナンシャルグループ専務取締役の神宮寺葵氏だ。グループ創業家の御曹司で、若くしてエンタメ・メディア事業を仕切る絶対的な権力者だよ。ウチにとっても大口のCMスポンサー様だし、何より今回のJアリーナこけら落とし公演に君を抜擢してくれた最大の恩人でもある」

「そう……だったんですね」

「ああ。だからビジネスとしては最大限の敬意を払わなきゃいけない。……ただ、あの男は金と立場で全てを動かしてきた男だ。自分を『最高のエンタメの理解者』だと自負していて、裏方やアーティストを自分の所有物のように扱う一面もある。警戒は怠るな。だが、角を立てずに大人の対応をしてくれ」

マネージャーの言葉から漂う緊張感に、私は静かに自分の喉元を撫でた。

スポンサーとしての巨大な影響力と、権力ですべてを支配しようとする傲慢さ。複雑な配慮を求められる相手なのだと気を引き締め、私は楽屋を出て彼の元へと向かった。

「やあ、藍奈。待っていたよ」

廊下の先で、高級感のある仕立てのスーツに身を包んだ男が、取り巻きを従えて待ち構えていた。

きらびやかな照明の下、自信に満ちあふれた不敵な笑みを浮かべる男——神宮寺葵だった。

「神宮寺専務、本日はお時間をいただきありがとうございます。こけら落とし公演へのご起用、心より感謝申し上げます」

私が深々と会釈をすると、彼は手に持った大きなバラのブーケを満足そうに差し出してきた。

「気にしなくていい。君の歌声は本物だ。……だがね、今の演出プランは地味すぎる。もっと派手で巨大なLEDスクリーンをバックに配置し、音圧で客を圧倒するド派手なショーに仕様変更させることにしたよ」

「……仕様変更、ですか? ですが現在の設計は、原音のクリアな響きを会場全体へ届けるため、現場のエンジニアの方々が緻密に計算してくださったものです」

私が恐る恐る懸念を口にすると、神宮寺専務は深く豊かな笑みを浮かべ、圧倒的な威圧感をもって私を見下ろした。

「君は勘違いをしているよ、藍奈。どれほど美しい歌声だろうと、それを増幅させる圧倒的なシステムと資本がなければ、世界には届かない。下請けのエンジニアどもが描いた小細工など、私の金とパワーで書き換えればいい。私のアリーナと私の資本があって初めて、君の歌は完成するんだ。……今夜、食事でもどうだ? 君の今後の世界進出プロジェクトについて語り合いたい」

「最高のエンタメ」を自負し、金の力で芸術さえも完璧に支配できると信じて疑わない言葉。

大口スポンサーとしての恩義はあれど、そこには私という人間や歌に対する敬意も、裏方で汗を流す現場への配慮も一切なかった。あるのは、すべてを自身の所有物として従えようとする傲慢な思想だけだ。

胸の奥が冷たく冷え切っていく。

「温かいお誘い、恐れ入ります。ですが今夜は次の制作打ち合わせが入っておりまして……大変申し訳ありません」

「……ふん、相変わらずつれないな。だが、君を満足させられる男は私しかいないはずだ」

不服そうに鼻を鳴らす神宮寺専務に、マネージャーが絶妙なタイミングで入って頭を下げ、私はなんとかその場を立ち去ることができた。

支配と欲望に満ちた黄金の御曹司。

彼の強引さに辟易しながら、私の脳裏に浮かんでいたのは、雨の日の喫茶店で不器用そうにメガネの位置を直し、現場の職人たちや部下の努力に真摯に向き合っていた、あの眼鏡の男性の姿だった。

立場や財力を振りかざすこともなく、ただ純粋に「プロの音」と「目の前の人間」を大切にしてくれる五代さん。

(……五代さんに、会いたい)

無心で自分に向き合ってくれる彼の存在の大きさを、痛いほど実感していた。

同じ頃、Jアリーナの現場管理室。

激しい怒号とキーボードの打鍵音が交錯し、空気は荒れ狂っていた。

「正気かよ!? こけら落とし公演まであと1か月切ってんだぞ! 今からメインスクリーンを大型化して、未圧縮の8K映像ライン(ST 2110)をバックボーンに突っ込むなんて無茶苦茶だ!」

現場のPAチーフが、デスクを拳で叩いて叫んだ。

「神宮寺専務からの直々の指示なんです……『予算はいくらでも出す、クオリティ優先で即時変更しろ』って……」

頭を抱える事務局の担当者。

映像の超大容量データが回線を圧迫すれば、俺たちが血の滲むような思いで構築した音響ネットワークのQoS帯域制御が破綻する。PTPの時刻同期が狂ってクロックジッタが発生し、最悪の場合、本番中に音声のブツ切れやノイズが巻き起こるのだ。

「五代さん! どうするんですかこれ……! スイッチの帯域、もう100%打ち天井ですよ!」

部下の三島さんが、青ざめた顔で俺——五代零士を見つめていた。

俺は静かに椅子から立ち上がり、胸ポケットから精密ドライバーを取り出すと、落ち着いた声で現場全体に語りかけた。

「慌てるな。専務の無茶振りに文句を言っても仕様変更は撤回されない。だが、俺たちのプロの仕事まで壊させるわけにはいかない」

「五代さん……」

「コアスイッチにSFP28トランシーバーを追加し、アリーナ間のトランク帯域を物理層(L1)から25Gへ拡張する。その上で音響専用VLANをタグ打ちして完全に独立隔離し、最優先キュー(Priority Queue)を静的に割り当てる。いくら映像パケットがバーストしようが、音響パケットには1ビットも干渉させない」

俺の論理的で迷いない指示に、絶望に包まれていた現場エンジニアたちの瞳に再び火が灯った。

「……了解だ、五代さん! 冗長構成の再設計とVLANマップ、徹夜で書き直すぞ!」

「おう! 専務の気まぐれで本物の音を潰されてたまるか!」

現場が一体となって動き始め、徹夜の復旧作業が始まった。

深夜2時。トラブルの目処が立ち、静まり返った管理室で、俺はPC画面の隅に表示されている天気予報を見つめた。

明日は、水曜日。予報マークは降水確率80%の雨を示している。

急な仕様変更という巨大な壁を、俺たちはプロの技術で乗り越えてみせる。出資者の気まぐれに屈せず、完璧な音響インフラを守り抜きたい。

(もう少しでこの深夜作業もひと段落する……)

あたたかいココアを両手で包む「藍奈さん」に会えたら。

胸の奥に溢れる純粋で温かい期待感を抱きながら、俺は明日の雨の午後を、心から楽しみに待っていた。

『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。

雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。

華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。

日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。

少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価、感想で応援していただけると励みになります!

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