第6話:二人の藍奈
「藍奈、来週のコンペ再提出に向けて、レーベル側と制作陣になんとか頭を下げて枠を取り直した。……だが、これが本当に最後のチャンスだぞ」
所属プロダクションの打ち合わせ室。
疲弊した顔でそう切り出したマネージャーの目元には、明らかな隈が浮かんでいた。
会社やクリエイターたちの生活を背負い、多大なリスクをとって動いてくれている大人たちの葛藤。
普段の私なら、その重圧に押し潰されそうになり、「私のわがままだ」と自分を責めて逃げ出したくなっていたかもしれない。
けれど、今の私の胸には、水曜日の雨の日に五代さんから受け取った言葉がしっかりと息づいていた。
『ビジネスやスケジュールを優先する中で、十分なテスト期間や予算を確保できないこともある。足りなかったのは彼らの熱量ではなく、技術と品質管理を正しく評価する仕組みだったんです』
不器用で誠実なインフラエンジニアの彼が教えてくれた、裏方で戦う人たちの苦悩と重圧。
目に見えない場所で、莫大な責任と生活を背負って泥臭く戦っているのは、五代さんたちエンジニアだけではない。目の前にいるマネージャーも、スタッフたちも同じなのだ。
私は静かに席を立ち、マネージャーとスタッフたちに向かって深く頭を下げた。
「……私のわがままのために無理を押して調整してくださり、本当にありがとうございます。皆さんを不安にさせてしまったこと、心からお詫びします」
深々と頭を下げる私の姿に、会議室の全員がハッと息を呑んだ。
「藍奈……お前……」
「皆さんが私のために、莫大な責任と予算を背負って戦ってくださっている重みは、痛いほど理解しています。……もしこれで結果が出なかったら、私はどんな処分でも受けます。だからこそ、誰にも妥協せず、全員が胸を張って『最高の音だ』と思える楽曲で勝負させてください。私に、もう一度だけ背中を預けてください」
退路を断ち、自ら責任を背負う私の言葉に、マネージャーは呆れたように吐息を漏らし、それからどこか晴れやかな笑みを浮かべた。
「……たく、急に大人びた覚悟を見せやがって。言われなくても、最初からお前と心中する覚悟でやってるよ。行くぞ、お前ら! 最高のトラックを選び直すぞ!」
「はいっ!」
スタッフたちの顔から悲壮感が消え、温かく熱い一体感が生まれる。
自分の殻に閉じこもっていた私(雨宮藍奈)が、五代さんの生き方を通して「チーム」を理解できた瞬間だった。
◇
同じ頃、夕方のオフィス。
俺——五代零士は、自席のデスクで『Jアリーナ』の音響ネットワーク構成図を最終確認していた。
QoS(帯域優先制御)の再構築と、本番同等の負荷テストプロセスを組み込んだことで、懸念されていた配信データの遅延やパケットロスは完全に抑え込めている。
「五代さん、お疲れ様です! 現場の接続テスト、全ノードで緑点灯確認できました!」
部下の三島さんが、プリントアウトした最新のレポートを手に、晴れやかな笑顔で報告にやってきた。
「よくやってくれた、三島さん。君が粘り強くパラメーターのダブルチェックを重ねてくれたおかげだ」
「いいえ! 五代さんが変わっ……あ、ううん、私の努力を見ていてくださったからです!」
照れくさそうに笑う三島さんの成長が、頼もしくもあり、どこか誇らしい。
喫茶店で藍奈さんから教わったマネジメントの視点は、間違いなくこのチームを強くしてくれた。
俺がメガネの位置を直しながらファイルを受け取ると、三島さんは急に声を潜め、目を輝かせてデスクに身を乗り出してきた。
「あ、そうだ五代さん! 運営事務局から超・ビッグニュースが入ってきたんですよ!」
「ビッグニュース?」
「来月行われるJアリーナのこけら落とし公演……メインのアーティスト、誰に決定したか知ってますか!?」
三島さんは抑えきれない興奮を隠せない様子で、胸の前で握りこぶしを作った。
「誰なんだ? 神宮寺専務のことだから、海外の大物バンドでも呼んだのか?」
「違いますよ! なんと……令和の絶対的歌姫、『雨宮藍奈』様に内定したんです!!」
「雨宮……藍奈?」
俺はその名を聞いて、デスクの隅に置かれた三島さんのアクリルスタンドへ視線の端を向けた。
華やかなドレスを身に纏い、スポットライトの中で眩しく微笑む歌姫の姿。
「すっごいですよね!? 音楽業界のトップ中のトップですよ! 彼女の圧倒的な原音ヴォーカルが、私たちが作った最新システムで響き渡るんです! ……ただ、気になる噂もあって」
三島さんは少し声を低くし、眉をひそめた。
「統括の神宮寺専務が『自分の手で成功させる』ってかなり息巻いてるらしくて。演出や音響の仕様変更を、直前に無理やり割り込ませてくるんじゃないかって現場がザワついてるんです……」
(神宮寺専務の強引な介入、か……)
胸に小さな不穏の影が射したが、俺はデスクの上の分厚い仕様書を静かに閉じた。
世界中にもファンが広がる今や日本を代表する歌姫の一人である、雨宮藍奈。
そして、水曜日の雨の日にだけ喫茶店『雨音』で会い、温かいココアを両手で包みながら、不器用な俺の悩みに優しく耳を傾けてくれる「藍奈さん」。
二人の名前が同じ「藍奈」であることなど、俺の中ではただの奇妙な偶然に過ぎなかった。
華やかなスポットライトの頂点に立つトップスターと、自分のような中年エンジニアの前に現れる静かな女性が、同一人物であるはずがない。
住む世界は違っても、俺も自分の戦場で、逃げずにプロの仕事をやり遂げたんだ。
水曜日の14時15分。
あの静かなシェルターで、彼女の向かいに座るのにふさわしい男になれただろうか。
窓の外を濡らす夜気を感じながら、俺はそっとメガネの位置を直した。
俺たちはまだ、自分たちの運命がすぐそばまで交錯していることに、全く気づいていなかった。
『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。
雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。
華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。
日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。
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