第5話:ノイズの先の共鳴
水曜日のボーカルレッスンの後、5月下旬の大粒の雨が降り続く路地裏を一人歩く。
グレーのマウンテンパーカーのフードを深めに被り、外界のノイズを遮断するように撥水加工の傘を叩く雨音に耳を澄ませていた。
『雨音』の重厚なドアの前で、傘とパーカーにまとわりつく雨粒を軽く払い、ドアを開けると、アスファルトの湿った匂いとともにカランと鈴の音が響いた。
荒んだ心を、落ち着いた店内の空気とジャズが少しだけ和らげてくれる。
一昨日の夜に行われた、私の有料オンライン生配信ライブ。
途中で何度も画面がフリーズし、音声が途切れるという最悪の配信トラブルが起きてしまった。
『金返せ』『せっかく楽しみにしてたのに酷すぎる』『運営は仕事しろ』
SNSに溢れるファンからの厳しいバッシングと落胆の声。
歌っていた私自身もステージ上で混乱し、届けるべき歌を届けられなかった不甲斐なさに、ここ数日ずっと胸が押し潰されそうになっていた。
カウンター奥のいつもの席には、ノートPCを開いている五代さんの姿があった。
「こんにちは、五代さん」
「あ……藍奈さん! こんにちは。今日も雨ですね」
マウンテンパーカーを、椅子の背にかけ、チャコールグレーのサマーニット姿で隣の席に腰を下ろす。温かいココアを注文すると、五代さんは私の暗い表情に気づいたのか、心配そうに覗き込んできた。
「藍奈さん……何かありましたか? どこかお辛そうな顔をされていますが」
「あ……いえ、私自身のことではないんですけれど……」
私は喉元を細い指先でそっと撫で、言葉を選びながら、五代さんに問いかけた。雨宮藍奈のライブだということは伏せたまま。
「私が仕事で関わっているクライアントの音楽の有料オンライン配信で、先日、映像がフリーズしたり音声が途切れ途切れになる大きなトラブルがあったんです。ファンの方々からは『手抜きだ』と凄く責められていて……。ああいう配信トラブルって、やっぱり現場のスタッフが適当に作業していたから起きるんでしょうか……?」
自信を失い、落ち込む私の問いに、五代さんは静かに、だが強い眼差しで首を振った。
「いいえ。現場が手を抜いていたなんてことは、まずあり得ませんよ。問題はそこではないはずです」
五代さんは真面目な顔つきで、語りかけるように言葉を続けた。
「有料配信のような大容量通信では、QoS……いわゆる『帯域の優先制御』や、本番と同規模の負荷をかけた配信テストが絶対に不可欠です。ですが、ビジネスやスケジュールを優先する運営サイドが『品質管理のできる専門エンジニア』の重要性を理解せず、十分なテスト期間や予算を確保しないまま本番に踏み切ってしまうケースが実に多いんです」
「品質管理、ですか……」
「ええ。映像データに押されて音声パケットが捨てられてしまう構造的なリスクは、事前に品質管理エンジニアが入り、本番を想定した負荷テストを行っていれば必ず防げます。現場が手抜きをしたのではなく、技術と品質管理を軽視した運営プロセスそのものに欠陥があったのだと思います」
五代さんの言葉を聞いているうちに、胸の奥で固まっていた冷たい塊が、すっと溶けていくのを感じた。
現場のエンジニアやスタッフたちも、限られた条件の中で必死に戦っていたのだということ。足りなかったのは彼らの熱量ではなく、技術の重要性を理解し、正しく品質管理にリソースを割く『構造』だったのだと。
「そう……だったんですね。みんなが手抜きをしていたわけじゃなくて、構造の問題だったんですね……」
ぽろぽろと零れそうになる涙を必死でこらえる私を見て、五代さんは優しく微笑んだ。
「配信の向こうで歌っているアーティストも、裏で回線と戦っているエンジニアも、想いは一つのはずです。トラブルは悲しいことですが、専門のエンジニアを入れて正しい品質管理プロセスを組めば、必ず解決できます。だから……藍奈さんのクライアントの方も、自分や現場を責めすぎないでとお伝えください」
「……はい! ありがとうございます、五代さん。すごく……救われました」
重荷が降りた安堵感からか、私は深々と息を吐き出し、ガラス越しに濡れる5月終わりの路地に視線を向けた。
「でも……今日も本当に本格的な雨ですね。そろそろ本格的な梅雨に入りそうなのかな」
私が呟くと、五代さんはメガネの位置を不器用に直しながら、自嘲気味に苦笑いを浮かべた。
「まったくです。実は俺、昔から筋金入りの『雨男』でしてね。大事なシステム切り替えの日や、現場の勝負所には100%の確率で雨が降るんです。……今日も俺がここに来たせいで、藍奈さんを雨に降らせてしまったのかもしれません」
自分を責めるように小さく肩をすくめる彼の姿が可憐で、私は思わず「ふふっ」と声を漏らして笑ってしまった。
「じゃあ、この間のゲリラ豪雨で私がずぶ濡れになったのは、五代さんのせいだったんですか? それは責任重大ですね」
「うっ……返す言葉もありません」
「冗談です。……でも、もし五代さんが雨男なのだとしたら、私、雨に感謝しなくちゃいけませんね」
「え?」
「だって、雨が降ってくれなかったら……私、このお店で五代さんと出会えませんでしたから」
ココアの湯気越しにまっすぐ見つめると、五代さんは照れたように顔を赤くし、困ったように視線を泳がせた。その誠実で愛おしい反応に、私の心は温かい光で満たされていく。
私は五代さんから教わった視点と、胸に灯った温もりを大切に抱え、その足で事務所の配信・運営チームのもとへ向かった。
バッシングに怯え、互いに責任をなすりつけ合いそうになっていたスタッフたちに、私は自分の言葉で静かに語りかけた。
「誰も手を抜いてなんていなかったはずです。現場の皆さんがどれだけ真剣に向き合ってくれていたか、私自身がよく知っています。……足りなかったのは、皆さんの技術を正しく活かすためのテスト期間と、品質管理の仕組みだったはずです。これからは技術を正しく評価して、一緒に確実な配信を作り直しましょう」
私の言葉に、運営や現場のスタッフたちはハッと息を呑み、やがて救われたような表情で深く頷いてくれた。組織の歪みが正され、チームの絆が本当の意味で結び直された瞬間だった。
◇
そして、翌週の火曜日深夜。
Jアリーナの仮設コントロールルームに、部下の三島さんの焦った声が響いていた。
「五代さん! アリーナのテスト配信データ、また一部で音声のフレーム落ちが発生してます! このままだと明日のプレ配信テスト、ブツブツ切れちゃいますよ!」
モニターに並ぶパケットロス率のグラフを見つめながら、俺——五代零士は落ち着いてキーボードを引き寄せた。
先週、喫茶店で藍奈さんに「技術と品質管理のプロセスが不可欠だ」と断言した手前、俺が無様な仕事を見せるわけにはいかない。
「焦らなくていい、三島さん。これが本番前のテストをやっている意味なんだからな。QoSの設定を修正して、音声パケットの優先度を最優先に切り替える。本番と同負荷のテストをもう一巡やろう」
俺がコマンドを打ち込むと、画面上の赤い警告表示がすっと滑らかな緑色の正常値へと変わった。
「すごいです、五代さん! パケットの遅延も波形データも完璧に安定しました!」
安堵して胸を撫でおろす三島さんを見ながら、俺はアリーナの天井を見上げた。
世間の人々は、華やかなステージで歌うアーティストの姿に目を奪われ、トラブルが起きれば現場を責める。だが、その声が途切れずクリアに届く背景には、泥臭く品質管理を行い、音の通り道を守り続ける「見えないインフラとエンジニアの存在」がある。
顔も知らないどこかの配信現場で傷ついていた『藍奈さんのクライアント』も、正しく品質が管理された場所で、今夜は救われているだろうか。
自分が誰かの力になれたかもしれない小さな誇りと、藍奈さんに胸を張れるプロであり続けたいという熱。そして何より、自分をひとりのプロとして認めてくれた彼女に、もっと相応しい男になりたいという静かな恋心が、胸の奥で熱く燻っていた。
俺は次の水曜日に訪れる雨の午後を、心から楽しみに待っていた。
『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。
雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。
華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。
日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。
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