第4話:推し活部下と心の距離
数週間後の水曜日。事務所の送迎車を途中で降り、大きめの傘を差して路地裏へ潜り込む。
街を濡らす雨粒が、ネイビーのレインコートにしっとりと重みを与えていく。傘を叩く水音が、今の私には外界を遮断する心地いいBGMだった。
スポットライトの眩しさも、大人たちの欲望や打算も、ここには届かない。
『雨音』のドアを押し開けると、静かに鈴の音が響いた。
静かな店内のカウンター奥。いつもの席でノートPCを開き、難しそうな顔で画面を睨みつけているメガネの男性の姿があった。
「こんにちは、五代さん」
私が隣の席に腰を下ろし、温かいココアを注文すると、五代さんはハッとしたように顔を上げ、不器用な笑みを浮かべてメガネの位置を直した。
「あ……藍奈さん! こんにちは。今日も雨ですね」
「ええ。……でも、何かお仕事で困りごとですか? 今日はいつにも増して、難しそうな顔をされていますけれど」
私の問いかけに、五代さんは苦笑しながら小さく息を吐いた。
「実は、部下の指導のことで少し悩んでいまして…。今年うちのチームに配属された三島という20代の女性部下がいるんですが……真面目で努力家なのは分かるんです。ただ、指示を出したりミスを指摘したりすると、極端に縮こまってしまうというか……歳の離れた男性上司である俺からどう声をかければいいのか、距離感に頭を抱えていまして」
昭和・平成を生きてきた45歳の彼にとって、若い部下への接し方は未知の領域なのだろう。真面目すぎるがゆえに思い詰めている彼の横顔を見て、私は優しく目を細めた。
「ふふ、五代さんは優しい上司なんですね。……私にも若い後輩たちがたくさんいますけれど、彼女たちが一番求めているのは『認められること』なんです」
「認められること、ですか」
「はい。完璧な指示よりも、自分の頑張りや過程をちゃんと見てくれているんだなって感じられること。若い女性が抱く『認められたい』という心理に、まずは寄り添ってあげてください。正論で責めるのではなく、『いつも見てるよ、頑張ってるね』と努力の過程を言葉にして伝えるだけで、驚くほど前を向けたりするものですよ。私にも同じ経験があります。」
藍奈さんの柔らかくも芯のある言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏で過去の記憶が不意に繋がった。
(……あくまで理論上の話だと思って聞き流していた、あの研修か)
数年前、課長に昇進した際に受けさせられた「マネジメント研修」。講師がスライドで示していた『結果評価ではなくプロセスの承認がモチベーションと信頼関係を醸成する』というフレームワーク。
当時は抽象的な理論だと冷めた目で見てしまったが、今、藍奈さんの真っ直ぐな声で言われると、その本質が鮮やかに腑に落ちていく。自分は正論を相手にぶつけていただけだったのだ。
「……ハッとさせられました。以前受けた研修で『プロセスの承認が不可欠だ』と習ったんですが、どこか他人事で。……俺は結果や効率ばかり求めて、彼女が一番求めていた『努力の承認』に目を向けられていなかったんですね」
俺が痛感するように頷くと、藍奈さんは嬉しそうに瞳を輝かせた。
「五代さんなら、もっと素敵な上司になれますよ」
自分を素直に見つめ直し、変わろうとする彼の誠実さ。誰よりも自分自身に真摯なその姿に接するたび、私の胸の奥はぽっと温かい灯りがともるようだった。
◇
そして、金曜日の夕方。オフィスの空気はどこか重苦しかった。
「五代さん……すみません。昨日いただいた音響ネットワークのアクセス制御設定、私の確認ミスで一部のIPアドレスが重複しちゃってて……現場の接続テストを止めてしまいました……」
俺——五代零士のデスクの横で、部下の三島さんがファイルを持ったまま、青ざめた顔で小さく震えていた。
昨日のグランドループ(低周波ノイズ)の解決でチームの雰囲気は最高潮だっただけに、彼女のミスによる作業の停滞は、周囲の視線を痛いものにしていた。
(……よし)
俺は即座に立ち上がると、三島さんの目線に合わせて腰を落とし、まっすぐ目を見て静かに語りかけた。
「三島さん、まずはすぐに報告してくれてありがとう。現場へのフォローは俺がすぐに入るから心配いらない。……それから、君が今週、寝る間も惜しんであの膨大なパラメーターシートを作り上げてくれた努力は、俺が一番よく分かってるよ。焦らなくていい。一緒に修正しよう」
三島さんはハッとしたように顔を上げた。
メガネの奥の瞳が大きく揺れ、こぼれそうになる涙をグッとこらえると、その瞳に強い意志の光が宿った。
「あ、ありがとうございます……っ! す、すぐに修正に取りかかります!」
焦りは残しつつも、絶望感を払拭した力強い足取りで三島さんは自席へと駆け戻っていった。相手の感情に寄り添い、プロセスを認めること——理論と実感が噛み合ったアプローチが、確かに現場のピンチを繋ぎ止めてくれたのだ。
◇
同じ頃、都内の所属プロダクションの会議室。
私——雨宮藍奈は、ズラリと並んだ大人たちの前に座っていた。
「藍奈、これが最終コンペを勝ち抜いた新曲のトラックだ。来週のレーベル会議で決定する」
机の上に置かれたスピーカーから、重低音が激しく響き渡る。
流行りのキャッチーなフレーズ、音圧で押しまくる派手なEDMサウンド。今のトレンドを凝縮したトラックだ。
「……社長からも『新生・雨宮藍奈のインパクトとして申し分ない』とお墨付きをいただいている。文句はないな?」
マネージャーの言葉に、周囲のスタッフたちが一斉に深く頷く。
彼らが悪意で動いているわけではないことは分かっていた。巨大なプロジェクトの責任、莫大な予算、チーム全体の生活を守るため、プロとして「確実にヒットするトレンド」を提示してくれているのだ。
でも——私は細い指先で、そっと自分の喉元を撫でた。
押し寄せる圧迫感。胸の奥がキュッと縮こまり、喉を締め付けられるような息苦しさが込み上げてくる。
こんなノイズのような音の塊ではなく、アリーナの一番後ろの席にいるたった一人の心に届く、クリアで温かい歌を歌いたい。
でも、スタッフたちの現実的な苦労を考えると、「私のわがままだ」と自分を責めてしまい、声が出なくなる。
(……私さえ、我慢すれば……)
諦めかけたその時、脳裏に浮かんだのは、水曜日の喫茶店で自分の不器用さを恥じ、素直に自分を変えようと決意していた五代さんの澄んだ目だった。
『……プロセスの承認が不可欠だと習ったんですが、俺は彼女の努力に目を向けられていなかった』
泥臭い現場の裏側で、誰よりも愚直に、自分の至らなさと向き合いながら誇りを持って戦っている彼。
そして、そんな彼が私をまっすぐ見つめ、「本物のプロ」だと認めてくれたのだ。
(……逃げちゃダメだ)
自分を誤魔化して妥協した歌を歌うなんて、私をプロとして信じてくれた五代さんに対しても、私の歌を待ってくれている人たちに対しても、何より懸命に大人たちの現実と戦っているスタッフたちに対しても失礼になる。
私は喉元にあった手を、ゆっくりと、力強く振り払った。
膝の上で拳を固く握りしめ、まっすぐにマネージャーの目を見つめた。
「……すみません。この楽曲はお受けできません」
会議室が一瞬で静まり返った。
「な……なんだと? 藍奈、正気か!? これは会社としても賭けなんだぞ!」
「はい。皆さんが出資やトレンドを背負って、プロとしてこの選択をしてくださった重みは重々理解しています。でも……私が本当に届けたいのは、音圧で圧倒する音ではありません。どんなに広い会場でも、一番後ろの席にいる人の耳と心に、すっと溶け込むような原音の響きなんです」
私は一息つき、五代さんの誠実さに恥じない誇りを胸に、言葉を続けた。
「私が心から納得できない歌を歌えば、それはリスナーに対しても、このトラックを作ってくださったクリエイターの方々に対しても、責任を果たすことにはなりません。……もう一度、私にコンペ曲を選び直させてください。売り上げの責任は、全部私が持ちます」
私の迷いない瞳と毅然とした態度に、マネージャーをはじめスタッフたちは息を呑み、言葉を失っていた。
◇
金曜日の深夜22時。静まり返ったオフィス。
「五代さん……! ネットワークの重複問題、無事に解消してテストもすべてパスしました……!」
デスクへやってきた三島さんの表情には、ようやく安堵の笑みが浮かんでいた。長時間の作業で疲れ切っているはずなのに、その瞳にはやり遂げた達成感が満ちている。
「本当によく粘ってくれたね、三島さん。君の努力のおかげだ」
「いいえ……! 夕方、五代さんが『過程を見てる』って言ってくださったから、パニックにならずに集中できました。……私、五代さんが上司で本当に良かったです」
少し照れくさそうに頭を下げる三島さん。
俺はメガネの位置を直しながら、深く頷いた。
「こちらこそ、頼りにしてるよ。今日はもう遅いから、気を付けて帰ってくれ」
「はい! お疲れ様でした!」
元気よく挨拶をしてオフィスを出ていく彼女の背中を見送りながら、俺はふと思い出し、小さく独りごちた。
「そういえば三島さん……今週末は『雨宮藍奈』の地方ツアーに全通するんだって、嬉しそうに月曜日の有休申請を出していたな」
デスクの隅には、彼女が大切に置いている『雨宮藍奈』の小さなアクリルスタンドが、スポットライトを浴びて華やかに微笑んでいた。
「若者が全国へライブ遠征するほどの情熱か……すごい熱量だな」
遠い世界で大勢のファンを魅了する大人気アーティスト。
そして、水曜日の雨の日にだけ出会う、あの静かで誇り高き「藍奈さん」。
名前こそ同じだが、俺の中でその二人が結びつくことは当然なかった。
ただ、住む世界やステージは違っても、どこかの場所で同じようにプロとしての誇りを持ち、働いている人がいる。
次の水曜日、雨が降ったら——彼女に「部下と一緒に壁を乗り越えた」と、少しだけ誇らしく報告しよう。
俺はそんな温かい余感を胸に抱きながら、静かにPCの電源を落とした。
『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。
雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。
華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。
日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。
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