第3話:ノイズの正体
水曜日、14時15分。
外はあいにくの雨模様だったが、喫茶店『雨音』の静かな店内には、穏やかな時間が流れていた。
俺——五代零士は、カウンター席でノートPCの画面を見つめながら、小さく息を吐いた。
「何か、お仕事で困りごとですか?」
隣に腰掛けた藍奈さんが、温かいココアのカップを両手で包み込みながら、心配そうに俺の横顔を覗き込んでくる。
「ええ……実は、現場で原因不明の低周波ノイズ(グランドループ)が発生していまして。現場のベテランPA職人たちと、うちのインフラチームの間でトラブルになりかけているんです」
守秘義務があるため『Jアリーナ』という具体名は伏せ、俺は画面に表示された抽象的な周波数波形を見せながら苦笑交じりに続けた。
「電源系統のアース電位差が原因だと目星はついているんですが……焦るあまり、データや理論だけで現場を納得させようとしてしまって。彼らに『パソコンオタクが知った風なことを言うな』と反発されている状態です。……職人は感情で動くものだと頭では分かっていたはずなのに、余裕がなくて情けないですよ」
すると、藍奈さんは優しく目を細め、静かに首を振った。
「五代さんが情けないなんて、そんなことありません。……ただ、音にこだわる職人さんたちは、きっと『自分たちの領域を侵された』と感じて意地になっているだけだと思うんです」
「意地、ですか」
「はい。技術的な正論をぶつける前に……現場の電源タップとシールド線の接地処理を、五代さんご自身の手で『一緒に確認させてほしい』と頭を下げてみたらどうでしょうか。私が藝大でステージ音響の現場を手伝っていた時、一番信頼されていたのは、言葉よりも先に配線の一本一本を一緒にチェックしてくれるエンジニアさんでした」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥の霧がすっと晴れていく感覚がした。
「……ハッとさせられました。俺自身、若い頃に泥まみれになって先輩エンジニアと配線を探った時の『初心』を忘れていたようです。理論で論破しようとするなんて、現場のプロに対する敬意が足りなかった。……ありがとうございます、藍奈さん。胸のつかえが降りました」
安堵して微笑む俺を見て、藍奈さんもパッと表情を華やがせた。
◇
翌日、木曜日の夕方。
都内にある大手芸能プロダクションの防音レッスン室で、私——雨宮藍奈は、キーボードの前に一人腰掛けていた。
窓ガラスを激しく叩く雨音を聞きながら、私は昨日の午後、喫茶店『雨音』で五代さんがかけてくれた言葉を思い出していた。
『……藍奈さんは誰よりも音と、それを聴く人に真摯に向き合ってきた「本物のプロ」ですね』
そう言って、まっすぐな瞳で私を見つめてくれた五代さんの姿。
世間が投げつける「天才歌姫」という軽薄なラベルではなく、私が人知れず重ねてきた努力や、音に対する真摯な姿勢そのものを見抜き、認めてくれた言葉。
その声の温かい余韻が、まるで心地よい周波数の残響のように、私の胸の奥でいつまでも鳴り響いていた。
「藍奈、次の新曲のコンペ楽曲、届いたぞ」
ドアを開けて入ってきたのは、担当マネージャーだった。
テーブルに置かれたデモ音源の資料。そこには、今のトレンドをこれでもかと詰め込んだ、派手で刺激的なダンスチューンが並んでいた。
「……これ、私に歌わせるんですか?」
「ああ。今の若い層にはこういう重低音と刺激的なキャッチーさが受ける。完璧な歌姫・雨宮藍奈の新境地として売り出すつもりだ」
マネージャーの言葉に、私は細い指先でそっと自分の喉元を撫でた。
言葉にできない拒絶やプレッシャーを感じた時、無意識に出てしまう私の悪い癖。
喉を締め付けられるような息苦しさが込み上げてくる。
音量を上げ、音圧で圧倒するだけの音楽。
私が届けたいのは、そんなノイズのような刺激じゃない。広いホールの一番後ろの席にいる、たった一人の傷ついた心に寄り添うような、クリアで温かい「音」なのだ。
断りたい。でも、スタッフたちが私のために動いてくれている苦労も分かっているからこそ、強く拒絶できない。本当の想いを口にできないもどかしさに、胸が潰されそうになる。
(……逃げたい)
そう思った瞬間、脳裏に浮かんだのは、メガネの奥に誠実な光を宿した、あの中年エンジニアの顔だった。
五代さんは、スポットライトを浴びるわけでもない。
誰から賞賛されるわけでもない。
それでも、目に見えないインフラの裏側で、泥臭く人の心と現場に向き合い、誇りを持って仕事を支えている。
昨日、私の助言に真摯に耳を傾け、「初心を忘れていた」と素直に笑った彼の姿が愛おしかった。
(……すごいな、五代さんは)
彼と話していると、事務所から押し付けられる過酷な重圧も、誰も本当の自分を見てくれない孤独も、全部消えていく。
私はゆっくりと喉元から手を離し、深く息を吐き出した。
彼から学んだ「裏方としてのこだわりと、泥臭い誇り」。それがある限り、私も自分の歌から逃げたくない。
私はココアのような温かさを胸に抱きながら、いつかこの心に満ちている想いを歌に乗せて彼に届けたいと、静かに誓っていた。
◇
同じ頃、Jアリーナの広大なメインホール。
「電源タップとシールド線のアース、俺と一緒に一本ずつ確認させてもらえませんか?」
俺——五代零士は、スーツの袖をたくしあげ、作業用の手袋をはめてPAアレイの裏側にしゃがみ込んだ。
現場のベテランPAチーフが、驚いたように目を見開く。
「……おいおい、IT屋の課長さんが自ら配線チェックかよ」
「俺も元々は泥まみれの現場人間だったんです。数値だけ見て上から指示を出してしまってすみませんでした。……一緒に原因を探らせてください」
俺がまっすぐに頭を下げると、チーフは少し呆れたような、だが嬉しそうな苦笑いを浮かべた。
「……たく、分かったよ。そこまで言われちゃ、こっちも意地張ってられないな。『みんな、アースの接続とシールド処理、もう一度最初から総点検しよう! 五代課長も手伝ってくれる』」
チーフのその一言で、ピリついていた現場の空気が一気に和らいだ。
それから30分後。予備電源盤の微小なアース電位差を発見し、手作業で絶縁処理を施すと、スピーカーから響いていた不快な低周波ノイズは完全に消え去った。
「さすがですね、五代課長! 『現場と同じ目線』で動いてくださったのが一番効きました!」
部下の三島さんが目を輝かせて駆け寄ってくる。
「……いや、俺の力じゃないさ」
俺はアリーナの天井を見上げ、心の中で静かに『雨音』の彼女に感謝した。
誰よりも音と人間を愛する、あの不思議で魅力的な「藍奈さん」のアドバイスが、今日も俺たち現場のプロを繋いでくれたのだから。
『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。
雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。
華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。
日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。
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