第2話:水曜日の周波数(レゾナンス)
翌週の水曜日、午後14時00分。
バケツをひっくり返したような雨が、オフィスの窓ガラスを激しく叩いていた。
「五代課長、先日の大型会場の音響遅延トラブルの件……他部署からも『あの短時間で完璧な指示を出すなんて、さすがです』って評判ですよ!」
デスクの横で、部下の三島さんが目を輝かせながら報告してくる。
「ああ……運が良かっただけだよ。たまたまアドバイスをくれた人がいてね」
「アドバイス? 音響の専門家ですか?」
「まあ……そんなところだ」
俺は言葉を濁し、カバンを手に立ち上がった。
社内の称賛も、上司からの評価も、今の俺にはどこか他人事のように聞こえていた。
頭の中を占めていたのは、先週の雨の日——路地裏の喫茶店『雨音』で出会った、あの不思議な女性・藍奈さんのことだ。
14時15分。
控えめなドアベルを鳴らし、俺はいつものカウンター席に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ、五代さん。今日もすごい雨ですね」
「マスター、いつものブレンドを」
コートの水滴を払いながら、俺はそれとなく店内を見渡した。
窓際のボックス席には誰もいない。
(……そりゃそうか。たまたま雨宿りに入ってきただけの人なんだから)
どこか失望している自分に苦笑し、ノートPCを開こうとした——その時だった。
◇
カラン、とドアベルが優しく鳴った。
激しい雨の匂いと一緒に静かに店に入ってきたのは、私——雨宮藍奈だった。
薄手の白いニットの上から、しっとりと雨を弾く落ち着いたグレージュのレインコートを羽織り、濡れた裾をそっと手で払う。
事務所の過密スケジュールを調整し、マネージャーの目を盗むようにして、先週と同じこの場所へ向かってきた。
『また会えるだろうか』という淡い期待と不安。
でも、コートを脱ぎかけながら見渡した店内で、いつものカウンター席でPCを開こうとしている彼の背中が見えて、私の胸の奥はトクンと温かく鳴った。
カウンター席にいる彼と目が合う。
「……あ」
吸い込まれそうな彼の瞳が、一瞬だけ大きく見開かれる。
私はパッと表情を華やがせると、脱いだグレージュのコートを腕に抱え、迷いのない足取りで彼の隣の席へと歩み寄った。
「こんにちは、五代さん。……今日も、雨ですね」
隣の席に腰を下ろすと、彼は少し慌てたようにメガネの位置を直し、深々と頭を下げてくれた。
「藍奈さん……! こんにちは。先日は本当にありがとうございました。おかげで現場のネットワークテスト、大成功でしたよ」
「ふふ、お役に立てて良かったです。……あの数値、現場の方にちゃんと伝わりました?」
「ええ! タイムアライメントのズレによる位相干渉が見事に解消されて、ボーカルの原音がくっきりクリアに響いたと、現場のエンジニアたちが絶賛していました。……本当に、あの短時間でどうしてあんな計算ができたんですか?」
マスターが運んでくれた温かいココアのカップを、私は両手で包み込んだ。
「実は大学時代から音響の研究していたんです。『音響工学と脳波・心理への影響』について。空間の容量に対して、どの周波数をどうカットすれば聴き手のα波が一番出るか……みたいな実験をやっていて。今も音響関連のお仕事をしているので、気がついたらスマホで計算していました。」
◇
「脳波とα波……。なるほど、ただの物理的な音響調整じゃなく、人間の『聞き心地』から逆算したアプローチだったわけですね。……いや、凄すぎるな」
俺は真剣な眼差しで感心し、ノートPCの画面に目を落とした。
社外秘の守秘義務(NDA)があるため、案件名や具体的な図面、構成図を見せるわけにはいかない。だが、直面している技術的な壁を解決するヒントを、彼女の知恵から借りたいという思いを抑えきれなかった。
「……藍奈さん。もし良ければ、一つ相談に乗ってもらえませんか? もちろん、守秘義務があるので具体的な現場の名前や構成は出せないんですが……純粋な理論として」
「ええ、私でよければ。どんな現象なんですか?」
ココアのカップを置いて、彼女がまっすぐこちらを向いてくれた。俺は言葉を選びながら、トラブルの概要を説明した。
「今抱えている大規模なホール案件で……客席の最上階、一番後ろのエリアで高音域が減衰して、どうしても音が『籠もる』現象が起きているんです。スピーカーの出力を上げて補正しようとすると、今度は手前の席で位相が荒れて全体がうるさくなってしまう。インフラ側の帯域や出力調整だけでは頭打ちになっていて……」
藍奈さんは静かに耳を傾け、小さく首を傾げた。
「一番後ろのエリアでの高音域の減衰……。高音域(4kHz〜8kHz)が落ちるのは、空気による吸音だけが原因じゃないと思います。そのホールの天井や壁面の構造……音響反射板の素材は、どんなものが使われていそうですか?」
「……反射を強めるために、比較的硬質のパネルで設計されているようです」
「やっぱり……それが裏目に出ているんだと思います。高音が硬い面で跳ね返りすぎて、最上階の席に届く前に複雑な位相干渉を起こして散乱しているんじゃないでしょうか。……音量を上げるんじゃなくて、あえてEQで5kHz付近を緩やかに1.5dB削って、スピーカーの指向性をほんの数度下に向けるアプローチを試してみてください」
具体的な図面を見せていないにもかかわらず、現象の本質を正確に言い当てる彼女の洞察力。俺は思わず息を呑んだ。
「音を……削る?」
「はい。音量を上げると、聴き手の脳は『うるさい』と感じてノイズとして処理しちゃうんです。あえて音を削って干渉を抑えることで、かえって原音がクリアに耳に届くようになります」
「音を削ることで、届く……」
スペックや出力を上げる(足し算)ことばかりを追い求めていた俺のエンジニアとしての常識が、鮮やかに覆された瞬間だった。
「……藍奈さんは誰よりも音と、それを聴く人に真摯に向き合ってきた『本物のプロ』ですね」
俺が心からの敬意を込めて思わずそう呟くと、彼女は一瞬だけハッとしたように目を見開いた。
◇
彼からの真っ直ぐな言葉に胸を締め付けられながら、私はココアのカップに落とした視線を上げ、窓の外の雨を見つめた。
軽薄な言葉じゃない。
五代さんが言ってくれたのは、私が人知れず重ねてきた努力や、音に対する姿勢そのものを認めてくれる、一番欲しかった言葉だった。
「プロ……だなんて、そんな大層なものじゃないですよ」
照れくささを隠すように微笑みながら、胸の奥から湧き上がる温かい感情を言葉に乗せる。
「ただ……届けたいんです。広い会場の、一番後ろの席にいる人にまで。どんなに離れていても、そこにいるたった一人の心に、まっすぐ音が届いてほしいから……だから、必死に勉強したんです」
自分の声が、少し震えているのが分かった。
「完璧な歌姫」であることを求められ、誰も私の努力や過程を見てくれなかった世界。
けれど、この喫茶店で、この不器用な大人の前でだけは、私の「想い」がそのまま伝わっている気がした。
「……届きますよ、絶対に」
五代さんの低い、落ち着いた声が耳に届いた。
「そこまで音と聴き手に向き合っている藍奈さんのこだわりなら、一番後ろの席にいる人にも、絶対に届きます。……俺が、その音を完璧に届かせられるシステムを作ってみせますから」
具体名は出さなくても、伝わる思い。
職人としての彼のメガネの奥の瞳には、迷いのない熱が宿っていた。
「……はい!」
私は思わず、両手を胸の前でギュッと握りしめた。
言葉を超えたプロ同士の共鳴。
外の雨音は強まるばかりだったが、私の心の中には、今までにない温かな周波数が満ちていた——
『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。
雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。
華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。
日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。
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