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水曜日、雨が降ったら  作者: 天王洲アイス


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第1話:ゲリラ豪雨と14時15分のシェルター

『ウィーン……カタカタ……』

店内のどこかで小さく響くエアコンの排気音を聞きながら、俺——五代ごだい 零士れいじは無意識に眉をひそめていた。

職人としての職業病、とでも言うのだろうか。

大手「Jソリューションズ」でインフラエンジニアとして、サーバーやネットワークのトラブルシューティングを続けて20年。45歳になった俺の耳は、システム機器が発するわずかな「不協和音ノイズ」を敏感に察知する妙な癖がついてしまっていた。

だが、どれだけ機械の異常ノイズを察知できても、人の心のノイズを処理するのは得意じゃない。

「五代課長、また後輩の三島さんが落ち込んでて……面談お願いできますか」

「五代さん、経営陣から『アリーナ音響ネットワークのコストを2割削減しろ』って無茶振りが来てます」

最近のマネージャー職は、まさに「罰ゲーム」だ。

自分自身がプレイヤーとして完璧な成果を出し続けなければいけない一方で、繊細な部下たちのメンタルケア(ピープルマネジメント)まで手厚くこなさなければならない。

完璧主義で、どうしても他人に喜ばれる仕事がしたい。

その性格が災いし、頼まれた仕事を断れず、気づけばオープン前のテスト段階である巨大ホール『Jアリーナ』の基幹ネットワークシステムの開発責任者にまで押し付けられていた。

サーバーやインフラ構築なら任せてくれ。だが、専門的な音響システムなんて正直プロの領域としては素人だ。連日の重圧と過労で、俺の精神は限界寸前だった。

大事な案件の日は、100%雨が降る。

ジンクス通り、親会社との難航した打ち合わせの帰り道、俺は容赦ない激しいゲリラ豪雨に見舞われていた。

腕時計に目をやる。時刻は14時15分。

濡れたスーツの肩を擦りながら、俺は逃げ込むように路地裏に佇む小さな喫茶店『雨音あまね』のドアを押した。

カラン、と控えめなドアベルが鳴る。

「いらっしゃいませ。おお、五代さん、すごい雨ですね」

マスターの穏やかな声と、深煎り珈琲の香ばしい匂い。

ジャズが静かに流れる店内は、無機質なサーバーの稼働音や社内の人間関係から隔離された、小さな退避壕シェルターのようだった。

「いつものナポリタンとブレンドをお願いします」

俺は奥のカウンター席に腰を下ろし、少しだけ肩の荷を下ろした。

フォークを手にとろうとした、その時だった。

カランカランッ!

激しい雨音と一緒にドアを押し開けると、冷えた雨水が首筋をたどって服の中に滑り込んできた。

「うわ、すごい……! すみません、雨宿りさせてもらってもいいですか……っ?」

荒い息を吐き出しながら、私は深くかぶったフードの隙間から店内を見回した。

レッスン室を飛び出してきたときの衝動のまま、傘もささずにここまで走ってきてしまったのだ。

事務所のスタッフの顔、来月迫る大型ライブの圧迫感、「完璧な歌姫」を求められる世間の視線——頭の中を渦巻くすべてのノイズから逃げたくて、ただがむしゃらに雨の中を駆けた結果がこれだった。

「これはひどい。お姉さん、大丈夫かい? 五代さん、奥のエアコンの風が当たらない席をあけてあげて」

「あ、はい! これ、乾いたタオルどうぞ。風邪ひきますよ」

店奥のカウンター席から、スーツを着た男性が慌てて立ち上がった。

ハンカチではなく、カバンから取り出した清潔なハンドタオルを真っ直ぐ差し出してくる。

「あ……ありがとうございます……っ」

濡れた髪を拭きながらフードを少し持ち上げると、男性の視線と重なった。

くたびれたスーツに、少し疲れた目元。けれど、その瞳の奥には嘘のない誠実さと温かさがあった。

「あの、これ……マスターからです。温まってください」

席につくとすぐ、湯気の立つ温かいココアのカップが運ばれてきた。

さっきの男性がマスターにお願いしてくれたのだと分かった。

「えっ……私、まだ何も注文していないのに……。本当にありがとうございます」

深々とお辞儀をして、ココアを両手で包み込む。

温もりがじんわりと、震える指先に伝わってくる。

(あたたかい……。誰も私の名前を呼ばない。誰も私を『雨宮藍奈』として見ない……)

逃げ込んできたこの小さな喫茶店で、ただの「困っている雨宿りの客」として親切にしてもらったことが、すり減った心にじんわりと染み渡っていくのを感じていた。

その時だった。

隣のカウンター席で、男性がカバンから勢いよくノートPCを取り出す音が響いた。

ポケットの中で、俺のスマホが狂ったように振動した。

『緊急:Jアリーナ音響Danteネットワークにおけるデータ遅延トラブルに関するWeb会議』

会社からの強制参加リクエストだ。

運ばれてきたナポリタンに手を付ける余裕などない。俺は慌ててイヤホンを耳に押し込み、画面を開いた。

「……五代です。状況は?」

『課長! Jアリーナのテスト運用で問題発生です! 2階スタンド席への音響出力でネットワーク遅延が発生し、位相干渉キャンセリングが起きています! 現場の音響会社が「これじゃボーカルの生音が死ぬ! スピーカーの数を減らして帯域を絞れ」と激怒していて……!』

画面越しに飛び交う怒号。

インフラは専門でも、音響の専門知識はない俺の脳はフリーズしかけていた。

(スピーカーを減らす? でも、それでは後方の客席まで音が届かなくなる……完璧なシステムを作って、届かせたいのに……!)

マネジメントの重圧と自分の知識不足。冷や汗が吹き出し、思わず頭を抱えた。

隣で必死にPCに向き合う彼の声が、自然と私の耳に入ってきた。

(スピーカーを減らす……? 位相干渉……?)

その単語を聞いた瞬間、私の頭の中で大学時代(東京藝術大学)の音響工学研究の記憶が鮮やかによみがえった。

聴衆の脳波測定と心理的影響を解析するために、ホールの空間音響と周波数特性を何度も計測したあの頃。

彼が困っている。私にタオルをくれて、ココアを頼んでくれたこの優しい人が、仕事の重圧で押し潰されそうになっている。

(私に、できることは——)

私はカバンからスマートフォンを取り出し、メモアプリを立ち上げた。

フリック入力で、覚えている限りの数式と空間音響の解を打ち込んでいく。

椅子を立ち、ココアを持ってそっと彼の隣の席へ移動した。

そして、彼にだけ見える角度でスマホの画面を差し出した。

スッ……と、俺の目の前に差し出されたスマホの画面。

驚いて顔を上げると、さっき助けた女性が、真横で真剣な瞳で俺を見つめていた。

画面には、整った文字でこう打たれていた。

『スピーカーを減らしちゃダメです!

Danteの遅延じゃなくて、天井ラインアレイと床置きサブウーファーのタイムアライメント(到達時間)がズレて、位相がぶつかっているだけです。

現場に「アッパーアレイのディレイを12ミリ秒遅らせて、250Hz付近のディップ(相殺)を解消して」と伝えてみてください!』

息を呑んだ。

プロでも頭を抱える最新アリーナの音響トラブル。なぜ、この華奢な女性がその一瞬で解を見抜いているんだ?

専門用語の意味はさっぱり分からない。だが、迷っている時間はない。彼女のまっすぐで力強い瞳を信じ、俺はメモの数字をそのまま必死に口にして会議へ投げつけた。

「……現場に伝えてくれ! スピーカーは減らさない。アッパーアレイのディレイを12ミリ秒遅らせ、250Hz帯を1.5dBカットして位相を合わせるんだ!」

数分後。

画面の向こうで怒号がピタリと止まり、興奮した現場エンジニアの声が弾けた。

『……す、すごい! 位相の打ち消し合いが消えました! ボーカルの原音がくっきりクリアに響いています! 五代課長、音響の専門でもないのにどうしてこの数値を……!?』

「あ、いや……こちらの技術班の分析だ。急いでそのままテストを続けてくれ!」

ミーティングを終え、パタンとPCを閉じた俺は、深いため息とともに椅子に背をもたれかけた。

「……助かりました。本当に、ありがとうございます。……失礼ですが、君は一体……?」

「あ、あの……! 音響の専門家なんですか……?」

藍奈は慌てた様子で頭を下げる彼を見て、胸の奥がクスッと温かくなった。

「いいえ。……大学時代(東京藝大)に、音響工学と脳波・心理への影響を研究していたんです。音楽や周波数が人に与える影響を調べていて……ちょっとだけ、音の波形に詳しいのかもしれません」

ココアのカップを両手で包み込みながら、少し照れくさそうに笑ってみせる。

「さっき、お食事中だったのにタオルやあたたかいココアを用意してくださったでしょう?……そのお礼です。困っている親切な方を助けられて良かったです」

「大学で音響工学と脳波の研究……。道理で、プロ顔負けのロジックだったわけだ」

感心したように呟く彼の横顔。

どこかで見たことがあるような気もしたが、今の俺には彼女の圧倒的な「声の響き」の美しさと気品しか頭に入らなかった。

外は相変わらず激しいゲリラ豪雨が街を叩いているけれど、この喫茶店『雨音』の中だけは、世界で一番静かで温かい場所に思えた。

「私、藍奈あいなと申します。……急に隣に座ってしまって、すみませんでした」

「あ、いえ! 俺は五代です。五代 零士。……助けていただいて、本当にありがとうございました、藍奈さん」

「ふふ、五代さんですね。……外はまだ、すごい雨ですね。……ねえ、五代さん。もう少しだけ、雨の話……していてもいいですか?」

14時15分のシェルター。

疲れ切った45歳のエンジニアと、傷ついた30歳の歌姫。

互いの本当の正体も知らないまま。

雨の降る小さな喫茶店で、二人の周波数レゾナンスが静かに共鳴し始めていた——。

『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。

雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。

華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。

日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。

少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価、感想で応援していただけると励みになります!

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