第23話:雨のシェルターへの帰還
アンコールを求める地鳴りのような手拍子が、Jアリーナの空間全体を激しく揺らしていた。
私は一度袖に下がり、汗を拭うと、再び万雷の拍手の中に身を躍らせた。
ステージ中央に一人立ち、マイクを両手で握りしめる。ざわめきがすっと静まり、数万人の視線が私に注がれた。
「……最後の曲を歌う前に、少しだけお話をさせてください」
静かに語りかける私の声が、アリーナの最後尾まで一文字も崩れることなく届いていく。
「次の曲は、30歳を迎えた今の等身大な想いを、初めて自分の言葉で綴った曲です。20代の頃の私は、『完璧な大人、アーティストにならなきゃ』って、周りの期待やプレッシャーにずっと焦っていました。でも……ある人との出会いが私を変えてくれたんです。その人が真っ直ぐに私と向き合ってくれたことで、私はもう一度、自分自身の心と深く見つめ合うことができました」
客席の静寂のなか、一語一語に心を込めて言葉を紡いでいく。
「そうして肩の力が抜けたとき、気づいたんです。大人のアーティストに進化するって、無理に変わることじゃない。背負い込んだものを削ぎ落として、歌うこと、音楽がただ大好きだった『原点の自分』に戻ることなんだって。あの出会いがあったから、20代の葛藤も迷いも、すべて愛おしいプロセスだったと思えました。……一人のアーティストとして、これからの自分の生き方に責任を持って書いた大切な一曲です」
会場から小さなどよめきと、温かい拍手が湧き起こる。
「聴いてください。『水曜日、雨が降ったら』」
イントロの繊細なピアノが鳴り響く。
雨の日の寂しさ、路地裏の喫茶店で出会った温もり、そして大人としての覚悟と愛を込めた言葉たちが、私の喉から解き放たれていく。
マイクに乗せた原音は、一切の濁りもなく世界へと溶け込んでいった。
◇
地下コントロールルームのモニターの前で、俺は息を飲むのも忘れて画面と音声メーターを見つめていた。
『水曜日、雨が降ったら』
コンソールから流れてくる藍奈さんの歌声は、今まで聴いたどんな曲よりも瑞々しく、そして力強く胸を打った。
彼女が自分で紡いだという歌詞の一言一言に、俺たちが共に過ごした水曜日の雨音や、あの小さな喫茶店の風景が重なって見えるようだった。
遅延ゼロ、パケットロスゼロ。
俺たちが血と汗を流して守り抜いた通信回路は、彼女の魂の歌声を、何ひとつ損なうことなく世界中の人々へ届けている。
「すごい……本当に、すごい原音だ……」
隣で三島さんが目元を拭いながら呟いた。
俺も目頭が熱くなるのを抑えられず、メガネの位置を直しながら、画面の中の彼女に心の中で静かに拍手を送っていた。
◇
公演は大成功のうちに幕を閉じた。
終演後、Jアリーナのカンファレンスルームでは華やかな打ち上げパーティーが催されていた。
会場には、今回のステージを支え抜いてくれた大勢のスタッフや関係者が集まり、勝利の杯を交わす熱気で満ちあふれている。
私はグラスを手に、一緒にたたかってくれたスタッフ一人ひとりに深々と頭を下げて回った。
そして、壁際に一人静かに立っていた神宮寺専務のもとへと歩み寄った。
「神宮寺専務……今回は、最高のステージを用意していただき、本当にありがとうございました。電源車の手配も含め、専務がいなければこの成功はありませんでした」
神宮寺専務は手に持ったグラスをわずかに揺らし、いつも通りの冷徹な、しかしどこか満足げな表情で私を見つめた。
「礼には及ばないよ、雨宮くん。私は世界最高峰のエンタメを追求しただけだ。……だが、今日の君の歌声とあの音響空間は、確かに私の想像を超えていた。見事だったよ」
「……ありがとうございます」
挨拶を終えると、私はパーティーの盛り上がりの隙を突き、控室へ戻ると、変装用のメガネと薄手のマウンテンパーカーを羽織ってこっそりと抜け出した。
エレベーターで一気に地下駐車場へと降りる。
暗がりの駐車場に停められていたのは、コンパクトカーだった。運転席の窓が開き、三島さんがニッといたずらっぽく笑って手を振ってくれた。
「藍奈さん、お疲れ様でした! こっちです、早く乗ってください!」
後部座席に滑り込むと、三島さんは手際よくアクセルを踏み込み、マスコミやファンが張り付く表口を避けて地下駐車場の専用出口から鮮やかに車を脱出させてくれた。
「三島さん、本当にありがとう……!」
「ふふ、お礼なら後で課長に言ってくださいね。『雨音』で待ってますから! さあ、急ぎましょう!」
バックミラー越しに目を合わせ、私たちは笑い合った。
車窓を叩き始めたのは、冷たくも心地よいしとしと雨だった。
路地裏で車を降り、看板のあかりがぽつりと灯る喫茶『雨音』のドアを押し開ける。
カランと、静かで優しい鈴の音が店内に響き渡った。
「いらっしゃい、藍奈さん」
カウンターの奥からマスターの声が響く。
貸切にされた店内のいつものカウンター席でコーヒーを啜っていた五代さんが、ハッと振り返った。
「五代さん……!」
「藍奈さん……最高のステージでした。新曲、3階席の一番後ろまで、あなたの歌声が完璧に届いていましたよ」
差し出された五代さんの手を、両手でぎゅっと強く握りしめる。
指先から伝わる温かな体温。困難を共に乗り越えてきた証が、そこにあった。
「さあ、お二人とも。こちらへどうぞ」
マスターが運んできたのは、普段のこの店にはない、繊細な泡を立たせるシャンパングラスだった。
「マスター、お酒は出さない約束では?」
五代さんが苦笑すると、マスターは目元を和ませた。
「今日くらいは特例ですよ。特別な夜ですから」
ふたりでグラスを持ち上げ、静かに音を響かせる。
「乾杯」
シュワシュワという泡の音が雨音と重なる。
だが、グラスを置いた瞬間、私の目から一筋の大きな涙が零れ落ちた。
「悲しいんじゃないんです。ただ……五代さんと出会えて、本当に良かったなって……っ」
泣きじゃくる私の肩を、五代さんはもう躊躇うことなく、そっと力強く抱きしめてくれた。
外の雨は静かに降り続いているが、私たちの世界は温かい光に包まれていた。
『水曜日、雨が降ったら』をお読みいただき、ありがとうございます。
雨の日の喫茶店で出会った中年エンジニアの五代と、孤独を抱える歌姫の藍奈。
華やかな舞台の裏側で誠実に「音」を創るプロのプライドと、互いを思いやる不器用な二人の絆レゾナンスを描いた物語です。
日々仕事や人間関係で戦う皆様の心に、雨の日の温かいコーヒーのような癒やしとなっていれば幸いです。
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