第7回 弁護側の証人
※本連載は、『無職転生』の原作完結までの筋に言及する。
前回、私はヒトガミの身元を洗った。見つかった三つの手がかりは、ヒトガミが物語の外にいることを示すだけで、黒幕の証拠ではなかった。それでも作品は、人物表の「神」の一語に、「黒幕」の二文字を書き足したのである。
今回は約束どおり、私がヒトガミの弁護に立つ。開廷である。
被告人はヒトガミ。検察官は、『無職転生』という作品そのものだ。起訴状によれば、被告人はルーデウスの夢に何度も現れて助言を与え、原作の第15巻では、ルーデウスを龍神オルステッドとの戦いに差し向けた。
求刑は、懲役でも罰金でもない。「倒すべき敵」の五文字である。
最初に断っておく。弁護人は、被告人を善人だと言い張るつもりはない。被告人は人を騙すし、ルーデウスを都合よく使いもする。なにしろ、五つの世界を滅ぼした前歴の持ち主である。
弁護人が争うのは、罪状ではなく求刑のほうだ。もっと言えば、「倒すべき」の「べき」の二文字である。
では、弁護側の証人を呼ぼう。
証人は34歳、無職。両親の葬儀の日に兄弟から家を追い出され、トラックに轢かれて死んだ男である。つまり、ルーデウスの前世の男だ。
証人を呼ぶ理由は、ヒトガミの夢の場面にある。ルーデウスがヒトガミと向き合うとき、夢の中のルーデウスは少年の姿をしていない。前世の、34歳の男の姿に戻っているのである。
異世界で授かった少年の体も、天才と呼ばれた魔術の腕も、夢の白い空間には持ち込めない。顔のない神の前に立つのは、ルーデウスがいちばん見たくない顔をした男だ。
初めて会ったとき、ルーデウスはヒトガミを怪しんでいる。もっとも、怪しまれている側から見れば、怪しんでいるのは、34歳無職の、どこか冴えない男である。何もない白い空間で、どちらが不審者なのかは、にわかには決めがたい。
前回の終わり近くで、私は、どの関係にも属さない人物が作中に二人いると書いた。ヒトガミと、前世の男である。作品は、二人を同じ白い空間で向き合わせた。
なぜ、よりによって二人なのか。物語の型から考えると、理由が見えてくる。
第4回で書いたとおり、昔話は欠如から始まり、欠如の解消で終わる。『無職転生』の始まりの欠如は、前世の男の34年だった。
では、終わりには何が要るか。剣と魔法の物語は、主人公が家族に看取られて大往生するだけでは、なかなか幕が下りない。たいてい、最後に倒すべき敵が要る。
本立てを思い浮かべてほしい。何冊もの本を本棚に立てて並べるには、左右に一つずつ支えが要る。『無職転生』という長い本の列の左端には前世の男が、右端にはヒトガミが立っている。
左端の支えには「克服すべき前世」、右端の支えには「倒すべき敵」と書いてある。どちらも、家族ドラマの筋の外側に立つ人物である。家族ドラマは、外側に立つ二人に左右から支えられて、ようやく一列に並んでいる。
ここで、桃太郎を呼び戻したい。第4回で、私はルーデウスを「異世界に行った桃太郎」と呼んだ。
桃太郎の鬼が、どんな悪事を働いたのか、すらすら言える人はどれくらいいるだろう。私はうまく思い出せない。覚えているのは、鬼が退治されたことだけである。
鬼は、悪事を働いたから退治されたのだろうか。むしろ、昔話の最後に退治される役だから、鬼なのではないか。
プロレスの悪役レスラーを思い出してもいい。悪役は、反則をしたから最後に負けるのではない。多くの興行では、最後に正義の側に倒される役を、最初から割り振られているのである。客席も、筋書きを承知のうえで、悪役に罵声を浴びせる。
ヒトガミは、異世界に行った桃太郎にとっての鬼である。第9回で詳しく見るが、ヒトガミの動機が明かされるのは物語の後半である。私の見立てでは、倒される役が先にあり、動機はあとから役に合わせて書き足された。「倒すべき」の「べき」は、被告人の行いから導かれた評価ではない。筋の終わりを求める型が書き込んだ二文字なのである。
ここから、証人の出番である。
左端の支えに書かれた「克服すべき前世」を見てほしい。「克服すべき」の「べき」もまた、前世の男の行いから導かれた評価ではなかった。第4回で書いたとおり、男の34年が欠如になったのは、筋の終わりに、家族に看取られる老衰が用意されていたからである。
左右の支えに書かれた二つの「べき」は、同じ一本のペンで書かれている。欠如から解消へという型のペンである。
「べき」という二文字は、私たちの身の回りにもたくさん転がっている。「いい年なんだから、そろそろ身を固めるべきだ」「親の葬儀には参列すべきだ」「男なら定職に就くべきだ」。第2回と第3回で見た、標準的な人生の物差しである。
どの「べき」も、言われた人の行いを責めているように聞こえる。けれども、よく聞くと、責められているのは行いというより、言われた人の暮らしそのものだ。身を固めていない暮らし、定職のない暮らしが、まるごと「半人前の暮らし」に割り振られる。
だから、「ヒトガミは倒すべきではない」という私の主張は、「前世の男は克服すべきではない」という主張と同じ形をしている。片方の「べき」だけを取り下げることはできない。
逆から言えば、読者が「ヒトガミは倒されて当然だ」とうなずいた瞬間、読者は「前世の男は克服されて当然だ」という一文にも同意したことになる。二通の起訴状は、同じ一枚の紙の表と裏に印刷されているのだ。
第5回で書いた読者を思い出してほしい。自分を前世の男に重ね、自分の暮らしを「前世」に割り振った読者である。
その読者が、ヒトガミの敗北を待ち望みながら最終巻のページをめくるとき、読者は自分自身の起訴状にも判を押している。ヒトガミの有罪に署名するのと同じペンで、自分の20年の有罪にも署名しているのである。
しかも、起訴状の裏面まで読む人は、めったにいない。読者は、ヒトガミが打ち負かされる場面を楽しみにしているだけで、裏面に自分の名前が印刷されているとは夢にも思っていない。
証言台に立ったはずの証人は、いつの間にか、被告人の隣の席に座っている。私が弁護していたのは、ヒトガミ一人ではなかったのだ。
ここで検察官が立ち上がる。異議あり。前世の男は誰も騙していない。被告人は騙した。二人を同じ席に座らせるのは無理がある、と。
もっともな異議である。弁護人も、二人の行いが同じだとは言っていない。人を騙した者が責められるのは当然だ。
ただ、責めることと、倒すことは違う。責める言葉は、行いに向けられる。「倒すべき」という求刑は、被告人の行いではなく、被告人がいること自体を、ルーデウスの人生の最後の課題に割り振る。
前世の男に下された「克服すべき」も、男の20年の行いを責めたのではなかった。男の人生そのものを、ルーデウスの最初の課題に割り振ったのである。二つの求刑は、行いではなく人生そのものを課題にする点で、同じ形をしている。
とはいえ、弁護人にも、気をつけなければならない落とし穴がある。「倒すべきではない」と言った途端、「ヒトガミを守るべきだ」「倒さずにいるべきだ」という新しい「べき」が顔をのぞかせかねない。第5回で書いたとおり、「物語から自由になる」という筋でさえ、欠如から解消への型を借りてしまうのだった。
だから、私が求めているのは、無罪判決でも、被告人の表彰でもない。法廷そのものを閉じることである。
第3回で使った将棋の言葉を借りれば、盤から離れることだと言ってもいい。盤を離れた人には、詰みもなければ、勝ちもない。倒すか倒さないかを、そもそも課題と見なさないのである。人間に本当に盤から離れることができるのかは、連載の最後で改めて考えたい。
もっとも、検察官はまだ席に戻らない。検察側には、切り札が残っているからだ。被告人がルーデウスに告げてきた助言である。
ルーデウスを救った助言もあれば、ルーデウスを窮地に追い込んだ助言もある。助言を一つずつ証拠として並べれば、被告人の狙いが浮かび上がるはずだ、と検察官は考えるだろう。
ところが、被告人自身は、助言の理由を問われて、拍子抜けするような一言で答えている。
次回は、ヒトガミの助言に意味があるのかを確かめたい。




