第5回 同窓会で自分をどう紹介できるか
※本連載は、『無職転生』の原作完結までの筋に言及する。
前回、私は、課題は人生の側に最初からあるのではなく、物語が出来事を並べ直すときに後から設定すると書いた。前世の男の20年は、一編の筋の始まりとして切り取られたときに、欠如になったのである。
では、物語の型は、なぜ物語の外で暮らす読者の人生まで縛るのか。今回は、同窓会の場面から考えてみたい。
20年ぶりの同窓会で、旧友に「あれからどうしてた?」と聞かれたとする。昨日の夕食の献立や、今朝見た夢を答える人はまずいない。
たいていの人は、「卒業してから東京で就職して、30のときに地元へ戻って、今は家業を継いでいる」というふうに、20年を一本の筋にまとめて答えるだろう。聞いた旧友も、筋の形の答えを待っている。就職、転職、結婚といった転機が並び、今の暮らしに行き着く。5分もあれば語れる20年である。
けれども、答えた本人の20年には、筋に組み込まれなかった日々のほうがはるかに多い。朝の電車で居眠りした日も、休日に一日じゅう雨を眺めていた日も、同窓会で語る筋には一行も残らない。同窓会で語られた20年は、本人が選んで並べ直した20年なのである。
人が自分の人生を筋の形で理解していることを、正面から論じた哲学者がいる。フランスのポール・リクールである。
リクールは、1980年代に刊行した全3巻の『時間と物語』の最終巻で、「あなたは誰か」と問われた人がどう答えるかを考えた。リクールによれば、人は、自分の人生の物語を語ることで答える。物語によって支えられる「私は私である」という感覚を、リクールは「物語的自己同一性」と呼んだ。
難しい語だが、言っていることは同窓会の場面と変わらない。20年前の私と今の私が同じ私だと言えるのは、二人の私が一本の筋でつながっているからだ、というのである。
リクールはさらに、人は自分の人生の読み手であり、同時に書き手でもある、という趣旨を述べている。私なりに言い直せば、人は他人の物語を読み、読んだ物語を手本にして、自分の人生の筋を書き直していくのである。
リクールの考え方は、ルーデウス自身にもよく当てはまる。ルーデウスは、何かあるたびに前世を思い出す。寮に引きこもったノルンに前世の自分を重ね、エリスに去られて引きこもりかけたときには、前世と同じになることを何より恐れた。
ルーデウスが今世の自分を自分だと言えるのは、前世の失敗から今世のやり直しへという一本の筋が、ルーデウスの中で保たれているからである。ルーデウスの自己同一性は、前世という欠如なしには成り立たない。
ここで、第2回と第4回で書いた読者を思い出してほしい。『無職転生』を読み、自分を前世の男の側に分類する読者である。
人が他人の物語を手本にして自分の人生を書き直すなら、『無職転生』も手本の一つになる。たとえば、40歳を過ぎて定職がなく、親と暮らしている読者が、第1話を読んだとする。読者は、家を追い出された前世の男の独白に、自分の暮らしを重ねるだろう。
重ねた瞬間に、読者の人生の筋は書き換わる。昨日まで、ただ毎日として続いていた暮らしが、ルーデウスの物語の「前世」、つまり欠如の部分に割り振られるのである。
困るのは、読者の筋には続きが用意されていないことだ。前世の男はトラックに轢かれてルーデウスとして誕生するが、読者に異世界は用意されていない。読者の人生は、欠如を書き込まれたまま、解消の来ない筋になる。
その読者が同窓会に行き、「あれからどうしてた?」と聞かれたら、どう答えるだろう。おそらく「特に何も」と答える。20年は、語るべき転機のない20年として、一言に要約されてしまうのである。
前回の言葉を使えば、読者は桃の届かない老夫婦である。子が欠けていると気づかされたのに、桃はいつまでも川を下ってこない。
もっとも、反論もあるだろう。人生の筋を自分で書き直せるなら、別の筋を選べばよい。読者が自分を前世の男に重ねる必要はない、と。
リクール自身も、一つの人生について複数の筋を、ときには互いに食い違う筋を語れると認めている。人生の物語は、一度書いたら終わりではない。
では、どんな筋を選べばよいのか。「他人の物差しに縛られず、自分の意思で生きる」という筋はどうだろう。
書店の自己啓発書の棚には、「本当の自分を取り戻す」「自分の人生を生きる」といった言葉が並んでいる。標準的な人生という物差しを捨て、自分の意思で生き方を選べ、という呼びかけである。
けれども、筋の組み立てを見ると、自分らしく生きるという筋も、昔話と同じ型をしている。今の私には本当の自分が欠けている、という欠如から始まり、本当の自分を取り戻すという解消で終わる。
「本当の自分」がどんな自分なのかは、筋の終わりにならないと分からない。取り戻した自分を「本当の自分」と呼ぶことで、取り戻す前の自分が、後から「偽りの自分」になる。桃太郎の老夫婦の暮らしが、桃が届いて初めて「欠けた暮らし」になったのと同じ順番である。
第1回で、私は、主体性を掲げれば「主体性を獲得する」という課題が新しく課されるだけだ、と書いた。主体性を掲げる筋も、欠如から解消へ進む型を借りているからである。「自らの意思で生きる」もまた、自己実現という物語なのだ。
そもそも、『無職転生』自体が、主体性を獲得する物語である。前世の男は、20年のあいだ部屋に閉じこもり、他人とも関わらなかった男として描かれる。
転生した男は、今度こそ本気で生きると決意する。自分の意思で魔術を学び、自分の意思で妻を選び、自分の意思で家族を守る。
第3回で紹介したとおり、アニメの作品紹介も、転生した男が今度こそ本気で生きていく姿を描く作品だと、『無職転生』をまとめている。本気で生きるとは、自分の人生を自分の意思で選び取ることにほかならない。
つまり、自分の意思で生きる主体性は、『無職転生』の外へ抜ける出口ではない。主体性は、『無職転生』の筋が最後に行き着く解消にあたるのである。
読者が「ルーデウスのように、今度こそ自分の意思で生きよう」と決意したとき、読者は物語から離れたわけではない。読者は、『無職転生』の筋をなぞり始めている。なぞる筋の始まりには、読者の今の暮らしが、欠如として書き込まれている。
読者は、自分の意思で、『無職転生』の筋書きどおりに生き始めるのである。
筋をいくら選び直しても、欠如から解消へという型からは離れられない。人が自分の人生を物語の形で理解するかぎり、どの筋にも、始まりの欠如と終わりの解消が書き込まれるからである。
「物語から自由になる」という筋でさえ、例外ではない。物語に縛られた今の私を欠如とし、物語から自由になった私を解消とするからだ。
試しに、同窓会で筋を使わずに20年を語ってみるとよい。「昨日は雨で、一日じゅう窓の外を見ていた。一昨日は近所の川沿いを歩いた。その前の日は……」。
旧友は、しばらく聞いたあとで、きっと次のように尋ねるだろう。「それで、今は何をしているの?」。筋を使わない語りは、聞き手に答えとして扱われないのである。人は、自分の人生を筋の形で理解するだけでなく、筋の形で語るよう、周りから求められてもいる。
では、物語の外にいる人物はいないのか。自分の人生を語らず、欠如も解消も持たない人物である。
実は、『無職転生』の中に一人だけいる。誰とも家族の関係を持たず、最後まで変わらず、顔にモザイクがかかった神、ヒトガミである。次回は、ヒトガミがほかの登場人物とどこが違うのかを考えたい。




