第4回 異世界に行った桃太郎
※本連載は、『無職転生』の原作完結までの筋に言及する。
桃太郎を思い出してほしい。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行く。おばあさんが川で大きな桃を拾い、家で割ってみると、中から男の子が現れる。
桃を拾う前の二人が、子のいない暮らしを嘆いていたかどうか、昔話は何も語らない。けれども聞き手は、桃から男の子が現れた瞬間に、二人の暮らしには子が欠けていたのだと了解する。欠けていたことは、欠けた部分が埋まったときに初めて分かるのである。
昔話の始まり方を、100年近く前に大まじめに調べた学者がいる。ロシアの研究者、ウラジーミル・プロップである。
プロップは1928年の『昔話の形態学』で、ロシアの魔法昔話100編を一編ずつ分解した。竜が王女をさらう昔話もあれば、魔女が子をさらう昔話もある。登場人物も舞台もばらばらな100編が、筋の組み立てだけを取り出すと、ほとんど同じ順番に並ぶことを、プロップは示した。
プロップによれば、昔話の筋の始まり方は二通りしかない。悪者が誰かに危害を加えるか、家族の誰かに何かが欠けているかである。欠けているのは、花嫁であったり、不思議な道具であったりする。
筋は、欠けた部分が埋まるまで進み、多くの場合、主人公の結婚で終わる。昔話とは、欠如が解消されるまでを語る筋だと言ってもよい。プロップの見立てでは、危害か欠如がなければ、昔話は始まらない。
プロップの考え方で、私がいちばん面白いと思うのは、登場人物の行為の意味を、後に続く展開から決めることである。同じ行為でも、後に何が起きるかによって、筋の中での意味が変わる。
たとえば、若者が家を離れて森へ向かったとする。森で魔法の道具を授かり、竜を退治すれば、家を離れた一歩は英雄の旅立ちになる。森で木の実を拾って帰ってくれば、同じ一歩はただの散歩である。
桃太郎の老夫婦も同じだ。子のいない暮らしが「欠けた暮らし」になったのは、二人の暮らしの側に原因があったからではない。桃から男の子が現れるという続きが、昔話に用意されていたからである。
では、『無職転生』の始まり方はどうか。プロップの型を当てはめてみると、驚くほど型どおりである。
両親が死に、葬儀の日に、男は兄弟から家を追い出される。プロップの一覧で昔話の最初に来るのは、家族の誰かが家を留守にすることだ。プロップは、両親の死を、留守のいちばん重い形として同じ項目に数えている。
兄弟が男を家から追い出すことも、プロップが挙げた、悪者による危害の型の一つにあたる。昔話では、継母が継娘を家から追い出す場面がおなじみだろう。
追い出された男は、無一文で街をさまよいながら、自分の人生を悔やむ。職も家庭も持たず、家族との関係を修復できないまま、両親に先立たれた34年である。親の不在、身内による追放、そして欠如と、『無職転生』の発端は、ロシアの魔法昔話とほとんど同じ順番で組み立てられている。
欠如は、二度目の人生で解消される。ルーデウスは三人の妻と結婚し、家を買い、子を育て、74歳で家族に看取られて死ぬ。昔話が王女との結婚と即位で終わるなら、『無職転生』は、三人の妻との結婚と、家族に看取られる老衰で終わる。
前世の男の20年が、桃を拾う前の老夫婦の暮らしにあたるなら、ルーデウスは、桃から現れた男の子にあたる。欠けていた20年を埋めるために、前世の記憶を持った赤ん坊として、異世界に誕生するからである。ルーデウスは、異世界に行った桃太郎なのだ。
実を言えば、型は題名の時点で示されている。正式な題は『無職転生~異世界行ったら本気だす~』である。「無職」は欠けている職を名指しし、「本気だす」は、今は本気でない男が異世界で本気になると予告する。
読者は、第1話を読み始める前から、前世の男の人生を、欠けた人生として読む準備をさせられているわけだ。
桃太郎が老夫婦の若いころを語らないように、『無職転生』も、前世の男の20年をほとんど語らない。原作もアニメも、男が家を追い出された日から始まり、20年の暮らしは男の独白で短く振り返られるだけである。
昔話の型から見れば、当然の扱いだろう。20年は「欠けていた」の一言に要約できれば足りる。20年のあいだに男が何を見て、何を面白がったかは、筋の役に立たないのである。
試しに、『無職転生』が、男の20年のうちの何でもない一日から始まっていたと想像してみたい。昼過ぎに起き、ネットの掲示板を眺めて笑い、新しく発売されたゲームを夜通し遊ぶ。翌朝、男は満ち足りた気分で眠りにつく。
その一日だけを読んだ読者は、男の暮らしを、欠けた暮らしとして読むだろうか。読む人もいるだろう。34歳で働いていない男、と聞いただけで、読者の頭には履歴書の欄が浮かぶからだ。
それでも、一日の描写を一つずつ積み重ねていけば、男の暮らしを欠如と呼ぶのは難しくなっていくはずである。だが作品は、男の一日を積み重ねる書き方を選ばなかった。男の暮らしを一日も描かず、追い出された日から筋を始めることで、20年を最初から欠如として読者に示したのである。
では、20年はなぜ欠如になったのか。桃太郎の老夫婦と同じ理屈で考えると、答えが見えてくる。
20年が欠如になったのは、20年の内側で何かが欠けていたからではない。筋の終わりに、家族に看取られる老衰が用意されているからである。終わりに看取る家族がいるから、始まりの20年は、看取る家族のいない20年になる。
終わりにオルステッドのもとでの仕事があるから、始まりの男は「無職」と呼ばれる。解消が先に決まっていて、欠如は、解消から逆算して書き込まれるのである。
身近な例で言えば、履歴書の空白期間に似ている。就職の面接で「この2年間は何をしていましたか」と聞かれた経験のある人もいるだろう。
その2年間にも、本人には本人の毎日があったはずである。2年間を空白にしているのは、本人の暮らしではなく、学歴と職歴を隙間なく並べるよう求める履歴書の欄のほうだ。前世の男の20年も、標準的な人生という履歴書に照らされて、空白期間になった。
断っておくが、男の身に起きた出来事まで、物語がこしらえたと言いたいのではない。両親の死も、兄弟からの追放も、無一文で街をさまよったことも、男の身に実際に起きた出来事である。
ただ、出来事が起きただけでは、欠如は定義されない。課題は、人生の側に最初からあるのではない。物語が出来事を並べ直すときに、後から設定するのである。
過去を並べ直し、欠如を書き込んでいるのは、社会なのか、本人なのか。
男を家から追い出したのは兄弟であり、自分の人生を悔やんだのは男自身である。けれども、追放を始まりの不幸に、悔やみを始まりの欠如に、74歳の老衰を終わりの解消に割り振ったのは、兄弟でも男でもない。欠如から解消へという、昔話の時代から変わらない筋の型である。
男の34年自体には、始まりの欠如も、終わりの解消も書き込まれていなかった。34年は、34年のあいだ、毎日として続いていただけである。欠如が書き込まれたのは、34年が一編の筋の始まりとして切り取られたときだった。
もっとも、型が昔話の中にとどまっているかぎり、困る人はいない。桃太郎を聞いた子どもが、自分の家には桃が届かないと悔やむことはないだろう。
だが『無職転生』の読者の中には、自分を前世の男の側に分類する読者がいる。物語の型は、なぜ物語の外で暮らす読者の人生まで縛るのか。




