第3回 誰も後悔しろなどと頼んでいない
※本連載は、『無職転生』の原作完結までの筋に言及する。
後悔は、本当に本人だけの感情なのだろうか。
『無職転生』は、後悔の物語である。アニメの作品紹介は、転生した男が前世の記憶と後悔を糧に、今度こそ本気で生きていく姿を描く大河ファンタジーだと、作品をまとめている。
糧という語は正確だと思う。剣も魔術も家族も、ルーデウスにとっては後悔を晴らすための手段であり、物語を最後まで推し進めるのは後悔の力だ。後悔がなければ、ルーデウスはただ魔術の才能に恵まれた子どもで終わっていただろう。
では、男は何を悔やんだのか。
両親が死に、葬儀の日に、男は兄弟から家を追い出される。無一文で街をさまよいながら、男は自分の人生を振り返る。コミカライズ版の紹介文は、男が自分の人生は完全に詰んでいたと気づき、後悔していた、と書いている。
男の後悔には、少なくとも二つの成分が混ざっていると私は思う。
一つは、実際に失ったことの痛みである。男は両親を失い、帰る家を失い、兄弟とのつながりを失った。両親が生きているうちに、男は家族との関係を修復できなかった。
失った家族を惜しむ気持ちは、誰かに命じられて生じるのではない。社会がどうあれ、親を亡くせば、人は悲しむ。痛みは、本人の身に実際に起きた喪失から生じる。
もう一つは、規範に照らした負い目である。34歳にもなって働いていない、結婚もしていない、親に養われたまま、親に先立たれた。どれも、標準的な人生という物差しを当てて初めて浮かぶ負い目だ。
「詰んだ」という語が、負い目の性質をよく示している。詰みは将棋の用語で、王将に逃げ道がなくなった局面を指す。盤とルールがあって初めて、詰みは成立する。
人生が詰んだと言うとき、人は人生の盤とルールを前提にしている。学校を卒業し、就職し、結婚し、家庭を持つ。銀行や保険会社が人生の出来事を年齢順に並べるライフプラン表が、そのまま男の人生の盤になっていたのである。
理屈の上では、二つの成分は区別できる。喪失の痛みは本人の感情であり、規範に照らした負い目は社会から借りた感情だ、と。
けれども、本人の内側で、二つを切り分けることはできるだろうか。私にはできるとは思えない。
両親を亡くした男が、親孝行できなかったと悔やむ場面を想像してみてほしい。親を失った悲しみは本物である。しかし「親孝行」という語には、子が親に尽くすべきだという規範が、最初から書き込まれている。
後悔を言い表す語を並べてみると、事情はもっとはっきりする。親不孝、いい年をして、世間に顔向けできない。どれも、世間が人を裁くときに使う語である。
悲しみは、規範の語彙を借りなければ、言葉にさえならない。男は自分の後悔を、自分の言葉で語っているつもりで、社会の言葉で語っている。どこまでが痛みで、どこからが規範なのか、男自身にも区別がつかないだろう。
作中にも、切り分けられない後悔がある。ルーデウスの妹ノルンの場合だ。
ノルンは、通い始めた魔法大学の寮に引きこもる。兄や妹と比べられ続けた劣等感が、引きこもりの理由だった。
ノルンの苦しみは本物である。けれども、苦しみの原因は比較だった。兄のルーデウスは魔術の天才で、異母妹のアイシャは何をやらせても器用だ。二人と比べなければ、ノルンは自分を劣っているとは感じなかったはずだ。
ノルンの場合、規範は痛みの外側にあるのではない。比較という規範が、痛みそのものを生じさせている。ノルンにとって、劣等感は自分の感情であり、同時に、社会の物差しを当てられた傷でもある。
ルーデウスは、寮にこもる妹に前世の自分を重ねる。そして、前世で引きこもった自分を助けようとした兄の気持ちを、初めて知る。
兄の気持ちとは、どういう気持ちだったのか。弟を案じる愛情か、兄として弟を立ち直らせるべきだという義務感か。おそらく両方であり、兄自身にも区別はつかなかっただろう。
ルーデウスの父パウロにも、同じ形の後悔がある。魔大陸から戻る途中で息子と再会したとき、パウロは魔力災害で行方の知れない妻と娘を探し続けてやつれ、酒に溺れていて、息子をねぎらえずに責めてしまう。
パウロは仲間に諭され、息子にぶつけた言葉を悔いる。パウロの後悔には、息子を傷つけた痛みと、父親らしく振る舞えなかった負い目が、分かちがたく混ざっている。父親らしさもまた、社会が父に課す規範である。
もう一つ、ルーデウス自身の後悔が表れる場面がある。エリスと結ばれた翌朝、エリスはルーデウスの前から姿を消す。
アニメ第2期の紹介文は、打ちひしがれたルーデウスが前世のように引きこもり、すべてを諦めようとしていた、と書いている。恋人を失った痛みは、紛れもなくルーデウス自身の痛みである。
前世の男が引きこもったのは、高校時代にいじめられたからだった。ルーデウスが引きこもりかけたのは、恋人に去られたからである。きっかけは違っても、ルーデウスは自分の落ち込みを、前世の引きこもりと同じ型にはめて理解している。
だが、ルーデウスを本当に怯えさせたのは、痛みそのものよりも、前世と同じになることだったのではないか。前世の引きこもりは、作品の中ではいつも、二度と戻ってはならない失敗として思い出される。
ルーデウスは、前世という失敗の記録を抱えたまま生きている。失恋の痛みさえ、前世の失敗と照らし合わされて、重さを測られるのである。
私は、後悔は本人の感情か、社会の規範か、という問いの立て方自体が間違っていたのではないかと思い始めている。
後悔は、どちらか一方ではない。社会の規範は、後悔という形をとって、本人の感情になる。外から押しつけられた物差しは、本人が自分の過去を悔やむたびに、本人自身の物差しに変わっていく。
だから「後悔は本人の感情だ」という反論は、半分は正しい。ただし、本人の感情であることは、規範から自由であることを意味しない。後悔が本人の感情として切実であればあるほど、物差しは本人の奥深くに根を張っている、とさえ言える。
かといって、後悔するなと言いたいのではない。後悔をなくせと言えば、今度は後悔しないことが新しい課題になるだけだからだ。
もう一つ、後悔には奇妙な性質がある。後悔は、いつも後から生じる。
家を追い出されるまで、男は毎日を、ただ毎日として過ごしていた。ゲームをし、ネットを眺め、一日を終える。男の20年が「失敗の20年」になったのは、家を追い出された日に、男が振り返った瞬間である。
振り返るきっかけをつくったのは、兄弟だった。兄弟は男を見限り、家から追い出した。
兄弟の目には、男の20年は、立ち直れなかった身内の20年と映っていたのだろう。男は兄弟の目で、自分の20年を見直したのである。
後悔は、過去を後から並べ直し、並べ直した過去に「欠けていた」という名前をつける。本当は、並べ直す以前の20年に、欠如など書き込まれていなかったのかもしれない。
では、過去を並べ直し、欠如を書き込んでいるのは誰なのか。社会なのか、本人なのか、それとも、社会とも本人とも別の何かなのか。




