第2回 人を救おうとして死んでも、人生は「失敗」らしい
※本連載は、『無職転生』の原作完結までの筋に言及する。
ルーデウスは異世界で、いったい何を克服しようとしたのか。手がかりは、作品のいちばん最初と、いちばん最後にある。どちらも、人が死ぬ場面である。
最初に死ぬのは、前世の男だ。原作でもアニメでも、物語は男の死から始まる。この男は、異世界に転生してルーデウスになる。
男は34歳、無職。高校時代にいじめられたのをきっかけに、20年近く家に引きこもっている。
両親が死に、葬儀の日に、男は兄弟から家を追い出される。無一文で街をさまよいながら、男はようやく、自分の人生が行き詰まっていたと気づいて悔やむ。悔やんでいた矢先、トラックに轢かれそうな高校生3人を見つけ、男は助けようとして轢かれ、死ぬ。
最後に死ぬのは、ルーデウスである。ルーデウスは74歳まで生き、老衰で死ぬ。死の床のまわりには、妻や子をはじめ、大勢の家族が集まっている。
家族のいない路上での事故死と、家族に看取られる老衰。作品が前者をやり直すべき人生の終わりとして書き、後者をやり直しの到達点として書いていることは、最後まで読んだ人なら誰でも感じ取るだろう。
けれども、少し立ち止まってみたい。34歳は、ふつうなら人生の途中である。前世の男は、ルーデウスの半分も生きていない。
男の人生を34歳で終わらせたのは、トラックの事故だった。引きこもっていたことと、トラックに轢かれたことのあいだに、因果の関係はない。しかし作品は、事故で断ち切られた34年を、一つの失敗した人生として書き終えてしまう。
では、二つの死のあいだに、ルーデウスは何を得たのか。得た順に、ざっとたどってみる。
家庭教師のロキシーから魔術を学び、7歳でエリスの家庭教師として雇われる。ラノア魔法大学で学び、友人を得る。幼なじみのシルフィエットと結婚し、シャリーアの町に家を買う。
家を買う回は、アニメ第2期の第13話にあたる。題は「夢のマイホーム」。
ルーデウスは不動産屋で、広いわりに安い物件を紹介され、訪れた者が謎の死を遂げるというワケあり物件だと聞かされる。剣と魔法の物語で、主人公が不動産屋を訪ね、住宅を買うのである。
やがてシルフィエットが出産し、ロキシーとも、エリスとも結婚して、三人の妻とのあいだに子をもうける。父パウロとは衝突のあとに和解し、転移迷宮で父の死に立ち会う。言葉を失った母ゼニスは、家族で新居に引き取り、介護する。
そしてルーデウスは、龍神オルステッドの配下になり、オルステッドの計画のために働く。題に「無職」と掲げられた男が、異世界で仕事を得たわけだ。
並べてみて、私は銀行や保険会社が客に見せるライフプラン表を思い出した。就職、結婚、住宅の購入、子の誕生、親の介護、老後と、人生の出来事が年齢順に並んだ、あの表である。ルーデウスの今世は、ライフプラン表の欄を一つずつ埋めていく人生なのだ。
欄の項目は、どれも剣と魔法とは関係がない。学歴と職歴は履歴書に、結婚と子は戸籍に、家は登記簿に記される。魔術の腕は、欄を埋めるための手段として使われているにすぎない。
異世界まで用意して、主人公が手にしたのは、日本の社会がふつう「まともな人生」と呼ぶ型そのものだった。学校で学び、仕事を持ち、結婚し、家を買い、子を育て、親を見送り、最後は家族に看取られる。ルーデウスの到達点は、拍子抜けするほど標準的な人生である。
ここで、二つの死をもう一度見比べてみたい。前世の男が最期にしたのは、見知らぬ高校生を助けようとすることだった。自分の身を投げ出して、他人を救おうとしたのである。
物語の中で、見知らぬ他人を救って死ぬ人物は、たいてい英雄として書かれる。戦場で仲間をかばった兵士も、溺れた子を救おうと川に飛び込んだ通行人も、物語の中では英雄である。
英雄の型に従うなら、男は最期の行為によって、死ぬまでの負い目を償ったことになるはずだ。
ところが『無職転生』は、前世の男を英雄として書かない。男の最期の行為は、20年の引きこもりを帳消しにはせず、男の人生は「やり直すべき人生」のまま終わる。
一方、ルーデウスの死には、劇的な行為が一つもない。74歳の老人が、家族に見守られて、老衰で死ぬだけである。だが作品は、ルーデウスの死こそを到達点として書く。
二つの死を分けたのは、死の瞬間の行為ではなかった。死ぬまでに、家族と社会の中でどれだけの役割を担ったか。子、兄、夫、父、そしてオルステッドに仕える者として、である。
前世の男は、両親の死後に家を追い出され、家族の一員という立場さえ失った。今世のルーデウスは、役割を一つずつ担い、最後まで手放さなかった。作品が人生の成否をはかる物差しは、標準的な人生にどこまで近づけたか、の一本しかないのである。
だから、前世の男の20年は、ほとんど書かれない。アニメの作品紹介も、前世の男を、働かず、他人と関わらず、部屋でゲームとネットに明け暮れるだけのニートと紹介している。男が20年のあいだに何を考え、何を好んで暮らしていたのか、私たちはほとんど知らされない。
引きこもりの20年にも、男なりの毎日があったはずである。標準的な人生の物差しで測るかぎり、男の20年は、欄の埋まらない空白でしかない。作品は、前世の男の人生に、失敗という名前しか与えていないのである。
断っておくが、私は標準的な人生が悪いと言いたいのではない。家族に看取られるルーデウスの最期は、幸福な最期として書かれているし、読者の多くも、その最期を素直に祝福するだろう。
私が引っかかるのは、標準的な人生が到達点として示されたとき、到達していない人生がすべて欠如の側に分類されてしまうことである。読者の中には、結婚していない人も、子のいない人も、仕事のない人も、家族と疎遠な人も、大勢いるはずだ。
最終巻を閉じたとき、読者は自分の人生を、二つの死に方のどちらの側に分類するだろう。家族に看取られる老衰の側か、家族のいない路上での死の側か。自分を前世の男の側に分類した読者にとって、今の暮らしは、異世界でやり直すべき「前世」になる。
前世の男と同じ34歳前後の読者や、もっと年上の読者なら、なおさらだろう。ライフプラン表の欄が空いたまま年齢を重ねた読者は、ルーデウスの74年を、自分が送れなかった人生の見本として読むことになる。しかも、異世界に転生する予定のない読者には、やり直しの機会さえ用意されていない。
もっとも、ルーデウスは社会に命じられて標準的な人生を目指したわけではない、という反論はありうる。原作の発端で、男は家を追い出され、自分の人生を悔やんだ直後に死ぬ。転生した男は、今度こそ後悔しない人生を送ると決意する。
ルーデウスが結婚し、子を育て、家族を守ったのは、もう二度と後悔しないためだった。後悔は誰かに強いられた感情ではなく、男自身の感情だ、と反論する人は言うだろう。
けれども、後悔はいつも、何かと比べて生じる。もし別の生き方をしていたら、と考えるとき、人が比べる相手として思い浮かべるのは、たいてい標準的な人生である。
男は家を追い出された日に、何を悔やんだのだろうか。両親を失ったことか、兄弟に見限られたことか、それとも、標準的な人生を送れなかったことか。




