第13回 ヒトガミ未討伐、なのに完結
※本連載は、『無職転生』の原作完結までの筋に言及する。
ラスボスを倒していないのに、エンドロールが流れる。
ゲームなら、クリアしたのか、それとも途中で電源を切ったのか、確かめたくなるだろう。ところが『無職転生』は、これに似た終わり方をする。主人公ルーデウスは、長く敵対してきたヒトガミを倒さないまま、74歳で老衰によって死ぬ。それでも物語は完結するのである。
ルーデウスは前世で、34歳の無職の男として死んだ。転生した異世界では、今度こそ本気で生きようと決意し、魔術を学び、家族を築き、龍神オルステッドの配下として働く。やがてヒトガミの使徒たちとも戦うが、ヒトガミとの決着がつく時代まで生きることはない。
ヒトガミを倒すための戦いは、ルーデウスの子孫が生きる時代にまで続く。本編の終わりに示されるのは、将来、オルステッドと子孫たちがヒトガミを封印するという未来の光景であって、ルーデウス本人の勝利ではない。
世界を脅かす敵が生き残り、主人公だけが寿命を迎える。冒険譚の結末としては、ずいぶん思い切った選択である。だが、最終巻まで読んで「肝心の決着をつけずに終わった」と怒る人ばかりでもあるまい。ルーデウスの生涯は、たしかに描き終えられている。
ここには、長さの違う二つの時間がある。
一つは、ルーデウスという男の生涯である。前世の記憶を持った赤子として生まれ、ロキシーに魔術を習い、エリスと魔大陸を旅し、パウロと衝突して和解する。シルフィエットらと家庭を築き、父を失い、子どもたちの成長を見届け、老いて死ぬ。
もう一つは、龍神オルステッドとヒトガミの争いである。オルステッドは、ルーデウスが生まれる前からヒトガミを敵としてきた。ルーデウスはその争いに加わるが、争いは彼の死後にも続いていく。ルーデウスにとっての最期の日は、オルステッドにとっては、まだ戦いの途中なのである。
同じ死が、一方の時間では結末になり、もう一方では途中の出来事になる。ルーデウスの生涯を中心に読めば、ヒトガミとの戦いは、家族を守るために引き受けた仕事の一つだ。ところがヒトガミとの戦いを中心に読めば、ルーデウスの74年間は、未来の決着を準備した年月になる。彼が生きた時間は同じなのに、生涯の意味は変わってしまう。
では、ルーデウスは宿敵を倒せなかったのだから、人生の課題を果たせなかったのだろうか。
こう尋ねた途端、私のほうが妙な採点を始めている。ヒトガミ討伐を卒業試験にして、74歳で亡くなった男の答案に「未提出」と書こうとしているのである。だが、誰がその試験を必修にしたのか。
ルーデウスがヒトガミと敵対することになったのは、初めから世界を救う使命に目覚めたからではない。未来からやってきた老いた自分の日記を読み、ヒトガミの助言が妻ロキシーの死につながることを知る。家族を守るため、彼はオルステッドに協力する道を選ぶ。
オルステッドにとって、ヒトガミを倒すことは長年追い続けた目的である。ルーデウスにとって、ヒトガミへの対抗は家族と暮らすために必要になった行動だった。共に戦い、協力者を集め、将来の戦いに備えることはできても、二人が同じ人生の目標を掲げていたとは限らない。
ルーデウスの働きによって、オルステッドはそれまで得られなかった協力者や手段を確保する。ルーデウスが死んだあとにも、子どもや孫たちは生きている。すべての決着を一人で引き受けなければ仕事が無効になるのなら、世の中の長期計画は担当者が定年退職するたびに失敗することになる。
もっとも、死者の仕事をどう呼ぶかによって、残された人々の役割まで変わる。「ルーデウスは家族を守るために働いた」と語るのと、「ルーデウスはヒトガミ討伐という使命を子孫に託した」と語るのとでは、違う。後者を選べば、子や孫の行為は、祖先が果たせなかった課題の克服として読まれるようになる。
子や孫がオルステッドに協力するとしても、なぜ戦うのかは彼ら自身の人生に属する問いである。ルーデウスが残した準備が実際に役立つことも否定しない。だが、「受け継いだ」と説明することと、「受け継がなければならない」と命じることは違う。亡くなった人の生涯が、まだ生きている人に課題を課す根拠になってしまう。
「次の世代へつないだから成功だ」とルーデウスを褒めるのも早い。それでは後継者を残すことが、今度は彼の人生の合格条件になる。私が疑っているのは、答案に丸をつけるかバツをつけるかではなく、そもそも誰が74年間の人生を採点する試験を始めたのか、ということだ。
能力を測定しても、人生の成否までは教えてくれない。ルーデウスの世界には魔術の階級がある。だが、魔術が強くなったこと、家族を守ろうとしたこと、ヒトガミとの決着をつけられなかったことは、同じ目盛りには並ばない。
いっそ魔術、仕事、家庭、戦闘の四科目で通知表を作ってみよう。かなり厚い通知表になるうえに、誰が家庭の満点を決めるのかも分からない。たとえ各科目を正確に採点できても、どれを重視するかは数字から導けない。採点の前に、人生の合格条件を選んだ者がいるのである。
物語を語る者は、合格条件より前に、何を一つの物語として扱うかも選んでいる。誰の、いつからいつまでを描くのか。世界に起きたすべての出来事を、一冊の本に収めることはできない。
ルーデウスは死ぬ。だが、その日も世界のどこかでは仕事が続き、残された者たちは食事をし、子を育て、オルステッドは次の戦いを考えるだろう。ヒトガミにも、ルーデウスの死によって決着したわけではない事情が残っている。
世界は、主人公の死に合わせて閉店しない。
小説は違う。語る人物と期間を選び、ある出来事を最後の頁にすることができる。34歳の男がトラックに轢かれるところから始め、74歳のルーデウスが家族に囲まれて死ぬところで終える。そう編集すれば、前世の死は発端となり、今世の死は結末になる。
しかし、ヒトガミとの戦いを中心に同じ世界を書けば、ルーデウスの死は途中の出来事になる。彼が築いた家族も、集めた協力者も、将来の決戦へ向かう準備として語り直せる。物語の範囲を変えただけで、74年間の生涯を、別の物語の「前日譚」にしてしまえるのである。
本人の人生はすでに終わっている。にもかかわらず、物語はその生涯に新たな役を与えることができる。「ヒトガミを倒せなかった者」から「子孫の勝利を準備した先人」へ。失敗か功労かという評価の違いだけではない。どちらの呼び名も、ルーデウスの人生をヒトガミとの決着のために利用している。
ここに、私が「物語の呪縛」と呼んできたものの、さらに厄介な働きがある。物語は人が生きているあいだに課題を与えるだけではない。人が死んだあとも、その生涯から「果たせなかったこと」を取り出し、次に生きる者の課題へと変えることができる。生涯の終わりは、課題と克服の筋を終わらせるとは限らないのである。
『無職転生』の副題は「異世界行ったら本気だす」である。ルーデウスが異世界で本気になったことを、私は疑わない。ロキシーの授業を受け、シルフィエットと暮らし、パウロを失い、ノルンと向き合い、妻や子を守るために働いた。その一つひとつは、結末のために付けられた飾りではない。
けれども、「本気で生きたのだから成功だ」と褒めた途端、本気でなければ失敗なのかという問いが生じる。努力した回数を数え、後悔の少なさを競い、他人の生涯を判定する。人生の価値を測る物差しを一本取り替えただけではないか。
ルーデウスはヒトガミを倒さなかった。父パウロを生き返らせることもできなかった。だからといって、彼が妻や子と過ごした日々まで、未達成の課題の付属品になるわけではない。反対に、家族を得たという理由だけで、父を失った痛みや、手の届かなかった出来事が帳消しになるわけでもない。
私たちは、出来事の一つを選んで人生の結末を説明したがる。ヒトガミ討伐を選べば「未完」、家族に看取られた死を選べば「円満」。判定は反対になっても、一つの出来事を人生全体の採点基準にする点では変わらない。
そして、たとえヒトガミを倒せたとしても、ルーデウスに別の後悔が残れば、欠けたものはまた見つかるだろう。比較する相手や完成の条件を変えられるかぎり、欠如は尽きない。本人の望みが満たされたかどうかではなく、後から選んだ物差しで人生を採点し直せるからである。
ルーデウスは74歳で死んだ。もはや新しい仕事を引き受けることも、ヒトガミと戦うこともない。ところが、彼の人生を「子孫がヒトガミを倒すための準備だった」と語れば、ルーデウスは死後も物語の仕事をさせられる。生涯を終えた男が、次の世代の課題を説明するために働かされるのである。
一人の人生は終わる。それでも、物語の歯車は止まらない。亡くなった人が果たしたことも、果たせなかったことも、次の誰かを動かす理由に作り替えられる。怖いのは、死者の人生に「未完成」という判を押すことだけではない。その「未完成」を、生きている人間に引き渡せてしまうことだ。
では、人生は、終わるだけでは足りないのだろうか。




