第14回 ルーデウスの人生は誰が設計した?
※本連載は、『無職転生』の原作完結までの筋に言及する。
ルーデウスは、シルフィエットとの結婚を機に、シャリーアの町で家を買う。不動産屋が紹介したのは、広いわりに安い物件だった。ただし、見に行った者が謎の死を遂げるという、値引きの理由としては少々重すぎる事情があった。
建物はすでに建っている。屋根も壁もあり、人が住むための部屋もある。それでも、新婚夫婦の住まいとして考えれば、安全に暮らせるかどうかを確かめなければならない。家は建っていれば完成なのか。それとも、そこで暮らせて初めて完成なのか。
家なら、建てた人の設計図がある。どんな間取りにするか、何人で暮らすか、どこに窓を設けるか。建築者の計画や住む人の希望に照らして、完成しているかどうかを判断できる。
では、その家で暮らすルーデウスの人生はどうだろう。
魔術を学び、結婚し、子を育て、仕事を得た。父を失い、ヒトガミとの決着をつけられないまま、七十四歳で死んだ。一人の人間が生涯に経験した出来事を、私たちは完成した人生とも、不完全な人生とも呼ぶことができる。
しかし、そもそも人生には設計図があるのだろうか。あるとすれば、誰が描いたのか。
この「完全」「不完全」という、私たちが何気なく使っている言葉を、根本から問い直した哲学者がいる。
十七世紀オランダの哲学者、バールーフ・スピノザ(一六三二~一六七七)である。スピノザは主著『エチカ』で、人間が何を善いと考え、何を悪いと考えるのか、何を完全と呼び、何を不完全と呼ぶのかを考察した。
『エチカ』は倫理学を意味する。しかし、人生を成功させる方法を教える本ではない。むしろ、私たちが「善い人生」「不完全な人生」と判断するとき、その判断は何を根拠にしているのか、と問いかける書物である。
その『エチカ』第四部の序文に、少々意外な例が登場する。建築途中の家である。
家を建てる人が、思い描いた形に仕上げたなら、本人は完成したと言うだろう。建築途中で作業をやめれば、未完成と呼ぶ。ところが私たちは、建てた本人の計画を知らなくても、窓のない家や、入り口のない家を見れば、何かが欠けていると思う。頭の中に「家とはこういうものだ」という見本があり、目の前の建物を、それと比べているからである。
見本のほうが変われば、完成の判定も変わる。倉庫としては十分な建物も、家族の住まいとしては不便かもしれない。不動産屋にとっては売れる物件でも、内覧した客にとっては命がけの物件である。建物に「不完全」の文字が刻まれているわけではない。私たちが何と比べ、何に使おうとするかによって、不完全と呼ぶ理由が生じる。
スピノザが問い直しているのは、完全・不完全という言葉が何を指しているのか、ということである。私たちは、目の前のものが不完全だと言うとき、まるでそのもの自体に欠陥が備わっているかのように考える。しかし、実際には自分たちが形成した見本と比べている。見本がなければ、何を欠いているのかさえ決められない。
ルーデウスの人生についても、個々の出来事なら、ある目的に照らして評価できる。
彼は幼いころから魔術を学び、無詠唱で魔術を使えるようになった。魔術には初級から神級までの階級があるから、何を使えるかによって、その時点の技量を判断できる。オルステッドの配下として働き始めてからは、協力者を得たり、将来の戦いに備えたりする仕事を引き受けた。仕事がどれだけ進んだかを確かめることもできる。
しかし、魔術師として優れていることと、一人の人間として完成していることは同じではない。
魔術が神級に達しなければ人生は不完全なのか。オルステッドの仕事をすべて終えなければ、彼の七十四年間は未完成なのか。そう考えるなら、魔術の習得や仕事の達成を、人生そのものの完成条件に選んだ理由が必要になる。
本人が決めた目標なのだから、それでよいという反論もあるだろう。
たしかにルーデウスは、ただ他人に命じられたとおりに生きてきたわけではない。前世を悔やみ、今度こそ本気で生きようと決意した。家族を守ることも、オルステッドに協力することも、自分で選んでいる。
ただし、人生の途中で目標を選ぶことと、人生全体の設計図を持っていることは別である。
幼いルーデウスは、まだシルフィエットと結婚していない。家族が増え、パウロを失い、ヒトガミの敵意を知ったことで、守ろうとするものも、引き受ける仕事も変わっていく。生まれた瞬間から、七十四歳までの設計図を携えていたわけではない。
自分で選ぶことが大切なのだとしても、今度は自分の意思で人生を設計し、計画どおりに生きなければならないことになる。家を建てるなら設計変更もできるが、人生の場合、設計変更そのものが失敗の証拠と見なされかねない。そもそも、本人が設計者でなければならないと決めたのは誰なのか。
スピノザは、比較すること自体を禁じてはいない。
『エチカ』第四部序文の後半では、人間にとって有用な生き方を考えるために、「人間本性のモデル」を用いると明言している。何が人間にとって善く、何が悪いのかという言葉も使い続ける。完全性という言葉にも、単に他人の見本に一致することではなく、そのものの現実性に関わる意味を与えている。
これは重要である。スピノザは、すべての判断が比較を含むからといって、何も評価できないと言ったのではない。人間が生きるうえで、何が有益で何が有害かを考えることまで捨ててはいないのである。
ルーデウスが魔術を習得したことは、実際に彼の行動の可能性を広げた。ロキシーに教わった魔術は、その後の生活や戦いに役立った。妻や子を守るために働いたことも、本人や家族にとって具体的な意味を持っている。
しかし、それらが役に立ったという事実から、人生は本来そうした成果を積み上げるために存在するのだ、という結論は導けない。
何かを成し遂げようとする目的と、何かが存在する目的とは違うのである。
この違いを、スピノザは『エチカ』第一部の付録で、さらに徹底して考えている。
人間は自分が何を欲しているかを知っている。しかし、なぜそう欲するようになったのか、その欲望を生んだ原因まで十分に知っているとは限らない。にもかかわらず、人間は自分が目的を持って行動することから、自然の出来事まで、何かの目的のために起きていると考えてしまう。
雨が降れば、作物を育てるために降ったように思える。作物が育てば、人間に食べられるために育ったように思える。人間にとって都合のよい働きがあることと、最初から人間のために用意されていたことが、いつの間にか同じになってしまう。
ルーデウスの場合も、ヒトガミとの争いを中心に生涯を読むと、彼が経験してきた出来事の意味が変わる。
ヒトガミは、未来にオルステッドとルーデウスの子孫によって封印されることを恐れている。ルーデウスは未来から来た老いた自分の日記によって、ヒトガミの助言がロキシーの死につながることを知り、家族を守るためにオルステッドへの協力を選ぶ。
オルステッドにとって、ヒトガミの討伐は長年追い続けてきた目的である。ルーデウスにとっては、家族を守ろうとする選択から、その争いに加わる必要が生じた。共に戦うことはできても、二人が生きてきた理由まで同じだったわけではない。
ところが、ヒトガミとの決着を物語の中心にすると、ルーデウスが魔術を学んだことも、家族を築いたことも、将来ヒトガミを封印するための準備として説明できる。彼が七十四歳で死んだあとも、子孫が戦いを引き継ぐことによって、人生全体に一つの目的があったかのように語れるのである。
もちろん、『無職転生』は作者が構成した小説である。現実の自然と違って、作者には出来事を選び、結末を決める権限がある。ルーデウスとヒトガミの対立も、作品の筋として構成されている。
しかし、小説を成立させるための目的と、登場人物が生きる目的は同じではない。
作者がヒトガミとの争いを描くために、ルーデウスをオルステッドの協力者にしたとしても、作中のルーデウスが、自分の人生はヒトガミ討伐のために存在すると考えていたことにはならない。まして、物語に描かれた人生の目的を、そのまま読者の人生の目的へと転用する理由にもならない。
物語には作者がいる。だが、現実の人生にも作者がいて、完成するまでの筋書きを最初から用意していると、なぜ考えなければならないのだろう。
『無職転生』には、あらかじめ用意された完成形に収まりきらない出来事がいくつもある。
父パウロの死は、その最も痛ましい例である。
ルーデウスは、転移迷宮の最深部で結晶に閉じ込められた母ゼニスを救うため、パウロたちと迷宮へ向かう。母を救出する戦いで、パウロはヒュドラの攻撃からルーデウスを庇って死んだ。ルーデウスも左腕を失い、救い出されたゼニスは言葉を失った状態だった。
目的は母を救うことだった。だが、母を救い出した結果、父を失った。何を成し遂げ、何を失ったかを、ひとつの判定にまとめることなどできるだろうか。
パウロが生きていれば、ルーデウスは父ともっと話せたかもしれない。孫の成長を見せることもできただろう。父を救えなかったことを悔やむのは、ルーデウスにとって切実な感情である。
しかし、「父を救えなかった」という事実と、「父を救えなかった人生は不完全だ」という判断は同じではない。
スピノザは、一六六五年一月二十八日付のブレイエンベルフ宛書簡で、「欠如」と「否定」を区別している。
私たちが、あるものには本来備わっているはずの性質がないと考えるとき、そこには別のものや、以前の状態との比較がある。比較によって「本来あるべきものがない」と考えることが、欠如という判断を成立させる。一方、ある性質を持たないというだけなら、必ずしも欠如とは言えない。
たとえば、ルーデウスが暮らす家に窓が一つもなければ、私たちは不便だと思う。家には外の光を取り入れる窓があるものだと考えているからである。だが、窓のない建物をすべて未完成と呼ぶわけではない。建物の用途や、何と比較しているかによって、窓がないことの意味は変わる。
パウロの死も、単なる比較によって作られた出来事ではない。父が死んだことは事実であり、ルーデウスの悲しみも事実である。父が生きていればと願う気持ちも、彼自身のものだ。
私が疑っているのは、失ったものが現実にあったことでも、失ったことを悲しむことでもない。その喪失を理由に、ルーデウスの人生全体へ「本来あるべきものが欠けていた」という判定を下すことである。
そもそも人間に、失わずに終えられる人生の見本などあるのだろうか。
パウロが生き延びたとしても、やがて別の別れは訪れる。ルーデウスがヒトガミを倒していたとしても、別の後悔が残ったかもしれない。そのたびに「本来はこうなるべきだった」という完成形を描き直せば、人生の不完全さを示す材料はいくらでも見つけられる。
もっとも、欠如が比較によって成立するという説明を、悲しんでいる人に向かって「あなたが勝手に欠如だと思っているだけだ」と言うために使ってはならない。比較から生じた苦しみも、実際に人間を苦しめる。ルーデウスが父の死を悔やむとき、その痛みを哲学の言葉で取り消すことはできない。
『無職転生』は、そもそも後悔から始まった物語である。
前世の男は三十四歳まで家に引きこもり、両親を失い、家族との関係を修復できないまま死んだ。異世界に転生した男は、今度こそ本気で生きようと決意する。ルーデウスが魔術を学び、家族との関係を築き、困難に向き合ったのは、前世への後悔と切り離せない。
その後悔に、スピノザはなかなか厳しい評価を下す。
『エチカ』第四部定理五十四で、後悔は理性から生じる徳ではないと論じるのである。後悔する人間は、過去の自分の行為を悲しみ、さらに自分を責める。自分がしてしまったことを思い出して苦しみ、そのように行為した自分自身についても苦しむ。スピノザは、後悔する人間が二重に惨めであり、無力であるという趣旨のことまで述べている。
前世への後悔を糧に本気で生き直す『無職転生』の主人公にとっては、ずいぶん手厳しい哲学者である。
とはいえ、スピノザは後悔が一切役に立たないと断じているわけではない。同じ定理の備考では、理性に従って生活する人間が少ない現実において、後悔や謙遜が人間社会に一定の有用性を持つことも認めている。
ルーデウスが後悔をきっかけに行動を変えたことは事実である。パウロとの和解や、引きこもった妹ノルンに向き合う姿勢にも、前世への後悔が関わっている。前世の自分と同じように寮へ引きこもった妹を見て、ルーデウスは、かつて自分を助けようとした兄の気持ちを初めて理解する。
後悔は、その人が以前にはできなかったことを可能にする場合がある。ルーデウスにとって、前世への後悔が生き直すための力になったことは否定できない。
しかし、後悔が役に立つことと、後悔することが徳であることは違う。
ルーデウスは後悔したからこそ本気で生きられた。だから、人間は過去を悔やまなければ善い人生を送れない。そんな結論を導いてしまえば、後悔しない人間が不完全な人間になる。
前世の男の二十年間にも、男なりの日々があったはずである。彼がその二十年間を後悔しなかったとしても、それだけで劣った人間になるわけではない。反対に、後悔をやめれば善い人間になれるというわけでもない。
後悔を人生の完成条件にしても、後悔しないことを完成条件にしても、結局は別の見本を用意しているだけなのである。
後悔がなければ人は行動できないのか、と考えると、作中にはまったく違う動機で行動する者がいる。ヒトガミである。
ヒトガミは、未来でオルステッドとルーデウスの子孫によって封印されることを恐れている。封じられ、長い時間を孤独に過ごす未来を避けるため、使徒を操り、ルーデウスの家族にまで危害を及ぼそうとする。
前世を悔やんで本気で生きようとするルーデウスと、未来の敗北を恐れてそれを阻止しようとするヒトガミ。二人が行動する理由は違う。しかし、どちらも望むものがあり、その望みを実現するために行動している。
スピノザは『エチカ』第三部定理六、七で、各事物ができるかぎり自分の存在を保とうとする働きを論じ、それをコナトゥスと呼ぶ。その働きは、外から与えられた使命ではなく、そのものが現実に存在し、活動することに関わる本質的な働きである。
家族を守ろうとするルーデウスにも、自分が封印される未来を避けようとするヒトガミにも、それぞれの存在を保とうとする働きを認めることはできる。
しかし、だから二人の行為は道徳的に同じだ、という結論にはならない。ルーデウスが家族を守ろうとすることと、ヒトガミが他人を利用し、命を奪おうとすることの違いは残る。コナトゥスは行動を理解するための概念であり、何をしても許されるという免罪符ではない。
さらに、コナトゥスを「自分の存在を守るために努力せよ」という命令として読んでしまえば、スピノザの思想もまた、努力を人間に強いる教訓に変わってしまう。
私がヒトガミを「無色」と呼んできたのも、彼には欲望がなく、何も望まないという意味ではない。家族の一員として成長したり、過去の失敗を克服したりする人物とは異なり、どの関係にも属さず、どの価値にも染まっていない存在として、私は彼を読んできた。
ところが、そう説明する私自身が、ヒトガミに一つの役を与えている。
物語の中で家族を築き、過去を悔やみ、課題を克服するルーデウス。その枠組みに属さないヒトガミ。両者を対比させることで、私はヒトガミを「脱物語の象徴」として位置付けた。
もちろん、ヒトガミが作中で実際に行ったことと、私が彼に与えた象徴的な意味は別である。ヒトガミは未来を恐れ、使徒を操り、ルーデウスを害そうとした。私はその行為を無罪だと言いたいのではない。家族を持たず、主人公と同じ成長の筋をたどらない人物を、必ず倒されるべき敵として理解しなければならないのか、と疑ってきたのである。
しかし、この疑いにも、もう一つの危険がある。
ヒトガミのように、物語の課題と克服に縛られないことが善いのだ、と言い始めたらどうなるだろう。ルーデウスのように家族を築き、後悔を抱えて本気で生きることを理想とする代わりに、今度は物語から自由であることを理想とする。
課題を克服する人生ではなく、課題を課されない人生を目指せ、と。
それでは、私が批判してきた物語の呪縛と何が違うのか。
人は物語によって、自分の人生に欠けているものを知らされる。結婚していなければ家庭を持つことが課題になり、仕事に就いていなければ働くことが課題になる。後悔していなければ過去を省みることが課題になり、自分の意思で生きていなければ主体性を獲得することが課題になる。
私は、こうした課題と克服の枠組みが人間を縛る力を「物語の呪縛」と呼んできた。
だが、「呪縛から抜け出せ」と命じるなら、その言葉自体が新しい課題になる。物語に縛られている人間は不完全であり、物語から自由になった人間こそ完成している、と。
結婚や仕事や家族の代わりに、今度は「脱物語」という項目を人生の設計図に書き込むのである。
スピノザを読んだからといって、その危険から免れるわけではない。むしろスピノザ自身が、有用な人間本性のモデルを使うことを認めている以上、何の見本も持たず、何も評価せずに生きることが正解だとは言えない。
私たちは他人の行為を評価する。ルーデウスが家族を守ろうとしたことを好ましく思い、ヒトガミが他人を利用したことを非難する。パウロの死を悲しみ、ノルンが引きこもりから出てきたことを喜ぶ。それらの判断まで禁じる必要はない。
しかし、一つの行為を評価することと、その人間の全存在に最終的な評価を下すことは別である。
ルーデウスが家族を守ったからといって、家族を守る人間だけが完全なのではない。ヒトガミが他人を害したからといって、家族のいない者や、物語の課題を克服しようとしない者まで、倒すべき存在になるわけではない。
では、私は何をしているのだろう。
ルーデウスの人生を、物語の呪縛という観点から読み直してきた。彼の前世と今世を比べ、後悔を考え、家族との関係を考え、ヒトガミを脱物語の象徴と読んだ。作品に登場する人物を選び、出来事を取り上げ、それぞれに意味を与えてきた。
そのようにしなければ、そもそも評論は書けない。作品のすべての出来事を等しく扱うことなどできないし、何が重要なのかを選ばなければ、論証も成立しない。
しかし、私が選んだ観点は、ルーデウスの人生そのものに備わっていた完成条件ではない。物語の呪縛という考え方も、彼が生まれる前から彼の人生に刻まれていた性質ではない。私が作品を読んで、彼の生涯を理解するために選んだ見方である。
私は、物語の呪縛を批判するために、物語を使っている。
そのこと自体が直ちに間違いだとは思わない。スピノザが完全・不完全の判断を問い直しながら、人間にとって有用なモデルを使い続けたように、ある見方を用いることと、その見方を唯一の正解とすることは区別できるはずである。
けれども、その区別が、私の文章の中で常に守られていると断言できるだろうか。
「人は物語に縛られている」と書くとき、私は読者の人生まで物語の呪縛という見方で説明しようとしている。「脱物語の道がある」と書くときには、その道を選ばない人間を、まだ呪縛の中にいる者として理解してしまうかもしれない。
物語に課題を与えられることを批判しながら、私は読者に、物語から自由になるという課題を与えようとしていないだろうか。
ルーデウスが買った家には、建てた者の設計があり、住む者の希望があった。建物がその希望にかなっているかどうかを確かめることには、実際の意味がある。
だが、ルーデウスの七十四年間について、私が完成図を描き、そこから外れた生き方を未完成と呼び始めれば、彼の人生はまた、私の描いた設計図によって裁かれる。
「物語から自由な人生」という完成図であっても、事情は変わらない。
ルーデウスはすでに死んでいる。私が何を完成条件に選んでも、彼が家族と過ごした日々は増えず、パウロが生き返ることも、ヒトガミとの争いに決着がつくこともない。変わるのは、彼の人生を説明する私の言葉である。
私は、その言葉を使わずに評論を書くことはできない。しかし、自分が選んだ言葉を、ルーデウスの人生に最初から備わっていた設計図だと考える必要もない。
物語の呪縛を疑うことと、呪縛から抜け出したと判定することは違う。私が読者に新しい完成形を示した瞬間、その批判もまた、誰かの人生を不完全と呼ぶための物差しになってしまうのである。




